時は流れ、脳は砕け
知らない人には気を付けなさいと言われていたが、挨拶は大事なこととも教えられてきた万梨にとって、にこやかに挨拶してきた浄美のことは、まったく無視できるものではなかった。
浄美はいつもゴミ拾いをしていて、万梨に笑顔で挨拶をして、天気の話や、気を付けて帰るんだよとか言う。
微笑みの力によるものであろうか、万梨は直感的に、この三十女に親しみを覚え、時折、学校での出来事などを浄美に話した。
彼女はいつでも黙って聞いてくれたが、意見を求めた時だけは、曖昧な返事しか得られなかった。
例えば、夏休み明けのことだったろうか、どこかのバカが学校の壁に落書きをしたことで、学年全体が体育館に集められてネチネチと言われたことを話した時、話している間に苛立ちも蘇って地団駄を踏む万梨にも、浄美は微笑みを向けたままだった。
「浄美さんの時もあった? こういうこと」
そう質問すると、浄美は微笑みに少し困惑を含ませて、
「どうだったかな。忘れちゃった」
と言って、会話はそこから繋がらなかった。
どんな質問をしても、この調子なので、万梨は適当に聞き流されているのではないかと思って、今何の話をしていたかを質問したこともある。
しかし、その時にはちゃんと、何の話をしていたかを答えるのだ。
そのうち、万梨の方が学習して、答えを期待しての質問をすることをやめた。
あまり難しいことを言わない浄美だが、一度だけ、高度な会話をしたと思っている思い出がある。
涼しくなってきた頃、遊びに出ようとした万梨に、浄美が声をかけた。
「傘を持って行った方が良いよ」
その時、確かに空に雲はあったが、それでも晴れていると言っていいぐらいのレベルだった。
それなのにどうして傘が必要なのか。それを尋ねると、浄美は、
「雨が近付いているからだよ」
と答えた。
「なんでわかるの?」
と問えば、
「ネットの友達が教えてくれたんだ」
それ以上、万梨は質問せず、家に折りたたみ傘を取りに戻った。
浄美のことを信じたというよりは、無視したら感じ悪いよねという、義理で取りに行ったものだったが、これが実際、役に立って、万梨は手ぶらで出てきた友達に小さな恩を売ったのだった。
それ以来、万梨は浄美が何か警告した時は、素直に聞くようにしている。
それはほとんどが天候に関するものだったが、冬の気配がしてきた十一月の頭、その日は珍しく、浄美が朝からゴミ拾いに出ていて、こう言った。
「白い車に気を付けてね。乗ったりしちゃダメだよ」
万梨は不審者の情報だと思った。
登校中だったので適当に返事をして、学校で話題にしてみると、他にも何人か、同じ警告を受けている子がいた。
それも、浄美以外から警告されたのだという。
この少し不思議な巡り合わせは、あっという間に憶測が憶測を呼んで、下校する頃には、白い車への警告は怪談として仕上がってしまった。
万梨は、この一連の流れを浄美に話して聞かせようと思っていたが、いつも浄美がいる辺りに、パトカーと、白い車が停まっていて、その予定は吹っ飛んでしまった。
白い車の持ち主らしい人物はおらず、警官が何かを調べていて、浄美は、いつもとは少し離れた場所に、ただ立っている。
現場を保存するために、いつものようにゴミ拾いをするわけにはいかないのだろう。ドラマで見たことがある。
「これが今朝言ってた白い車?」
声をかけると、浄美は微笑みに少し困惑を含ませて、
「そうかも」
とだけ答えた。この言い方は、まともな答えが得られない時のものだ。
浄美からでは、この白い車の持ち主が一体なんだったのか知ることはできないだろう。
しかし、怪談にまで仕上げてしまうと、その怪談の正体がどうも気になる。警官に質問したら答えてくれるだろうか?
そんなことを考えていると、向こうからチャンスが来た。
警官の一人が万梨に気付いて、何か話し合ったあと、近付いてきたのだ。
「君、この辺の子? ちょっと聞きたいことがあるんだけど、良いかな?」
「先に手帳を見せてもらえますか?」
警官は少し苦笑いして「しっかりしてるね」と手帳を出してきた。
言ってはみたものの、万梨には正直、手帳のどこを見て、何を判断したらいいのかわからないので、頷いた。
「あの車、この辺りを荒らしてた泥棒が使ってたやつでね。最近、どこかで見たことある?」
万梨は車をあらためて見た。見覚えはない。
「ありません」
「なるほど。それじゃあ、ガラスが割れたとか、家に何かイタズラをされた、みたいな話はどうかな」
どちらも心当たりは無いと思ったが、一つだけあった。
「イタズラ……かどうかはわからないんですけど、お父さんが怒ってたことがありました。家の前に変なゴミが置かれてたって」
「ゴミ? どんなものだったか思い出せる?」
確か、薄汚いモップのようなものだった。文句を言いながら使い捨てのゴム手袋でつまみ上げ、ビニール袋に入れて始末する父親の姿を、まだ鮮明に覚えている。
八つ当たり気味に「万梨もこんな事はするんじゃないぞ。やったら承知しないからな」と言われたのが不愉快だったからだ。
「モップみたいなもの……ありがとう。参考になったよ」
警官は戻って、何か(恐らくは万梨から聞いた話)を話し合ったあと、ちらっと浄美の方を見て、また車の周りで何かを調べる作業を再開した。
「お手柄だね」
浄美は曖昧に微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます