生存免許
医療用機器の音だけが響く、夜九時の快適な静寂、久条は、その中へ無遠慮に踏み込んでいく。
「よぉ、安波島少年。元気か?」
座って本を読んでいた安波島少年は弾かれたように顔を上げた。
「おっちゃん!? 面会時間終わってるよ」
「良いんだよ。俺が来た時が面会時間の始まりだ」
「そんなゔぇ――」
そんなメチャクチャな、だろうか。声が潰れて咳き込んだ。心臓の機能不全が、肺にまで害を及ぼしているのだ。
いつもならのんびりしている久条だが、今日は義足を鳴らして駆け寄った。
「おいおい! ったく大丈夫かよ。今日はちっと大事な話があるんだ。うっ! バタッ! でそのまま面会謝絶なんてのは困るぜ」
「……これぐらい、なんともない」
とは言うものの、青白い顔には説得力が無い。
「なら良いけどよ。とりあえず楽にしな。横になると、むしろ苦しいんだったか」
安波島少年が頷いたので、久条はベッドの角度を調整してやり、「よしよし」と、両手をすり合わせた。
「それで大事な話だが、実はな、良い心臓の換えがあるんだが、手術を受けてみねぇか?」
安波島少年の反応は冷淡だった。何かを勘違いしたプレゼントを「これ欲しいって言ってたでしょう」と渡されたような冷ややかさだった。
予想通りの期待外れな反応に、久条は唇を歪めて変顔を作った。不快な事実を飲み込んだ時のクセだ。
「どうして俺のところに持って来ちゃったんだよ」
安波島少年は肩を落とし、顔に手をやった。
「どうして、俺なんだ。俺はもう人生のことなんか、考えたくない」
「考えたくないって、一体、どこまで考えたんだよ。ちっと、聞かせてくれるか」
声に茶化すような色が入らないように、久条は最大限の気を使った。ひょっとすると、生涯で最も使ったかもしれない。
使ったかいがあってか、これまでに積み上げた親交の賜物か、安波島少年は、久条の短気の虫が限界を迎える前に口を開いた。
「俺は、学校にろくに行ってない。人間もひねくれてる。心臓を移植したって、すぐに健康な人間みたいに、生活できるわけじゃないんだろ? いきなりぶっ倒れるかもしれない。誰が俺なんか欲しがるんだ? 俺は、俺だったら、俺なんかいらない」
久条は言葉を挟むと余計なことを言いそうだったので、相槌代わりに曖昧に頷いた。
「それに、もし、もし何か仕事が見つかって、誰かと結婚できて、人並みの家族が作れたとして、子供に俺の心臓が遺伝したら、どうするんだよ。俺みたいに、病院のベッドで、死んでいくのを見守るのかよ……!」
声に涙が混じった。
「俺は嫌だ。俺は、そもそも、生まれてくるべきじゃなかった」
久条はうなった。わかっていたことだが、手ごわい。いつから考えていたのか知らないが、無責任な安い慰めでは何も響かないどころか、逆効果だろう。
つくづく、人間を救うとは難行だ。久条は多くの人間を救ってきたと自負しているが、それは浮き輪を用意して海にばらまき、あとは勝手に掴まれという仕組みだった。
それはそれで大変だったが、人間は全て数字でしかなく、浮き輪を掴み損ねた人間もまた、浮き輪の有効性を計るための数字で、その恨みや無念は、彼らと久条の物理的な距離の中に溶けて消えた。
今、その距離は無い。浮き輪の改良をするために、沈みそうな人間のすぐ横まで来た。
「……十六の身空で、よくまぁそこまで深く考えたもんだな。俺は感心したよ」
久条はそこで一旦言葉を切った。安波島少年の感情の波が穏やかになるのを待ちたかったし、繋ぐ言葉を、まだ練り切れてもいなかった。
徐々に言葉は形になるが、言っていいものかどうか、汗がにじむほどに迷う。迷うが、久条はここに、彼を否定しに来たのだ。
ある種の彼の優しさを踏みにじり、貴重な資源を虚無に投資し、人生を弄ぶことを、実験の名のもとに正当化して、ここに来た。
踏みにじることは、ウソを暴く以上の得意技だ。この国の医療を立て直し、安心に餓えた連中が闇雲な条文を書き加えた法律を叩き直すために、久条はそれらと障害物を蹂躙してきた。
決意が固まった時、安波島少年も、概ね落ち着きを取り戻していた。
天の思し召しというものか。
「お前さんの言うことには一理ある。でもよ、生まれてくるべきじゃなかったってところは、もうちぃっと深堀りしても良いと思うぜ」
安波島少年が久条を見た。何か反論したいようにも見えるが、結論に至ったところで考えることを打ち切ったのだろう。否定された場合の反論は、まだ用意されていないのだ。
言葉に詰まったところに付け入ったような形にならないよう、久条は努めて穏やかに言葉を繋ぐ。
「お前さんが生まれなきゃ、子供はいつできるんだとか、
子はかすがいってな。なんだかんだ、安波島家が空中分解してねぇのは、お前さんが生まれて、今もどうにかこうにか生きているおかげ、俺はそういう見立てもあると思うんだがな」
「そうかな」
震え声。
「まぁ、お前さんには、まだわからんかもしらんな。だが結構重いんだ。子供はまだできねぇのかってプレッシャーは。できた時はホッとしたんじゃねぇかと思うよ? 母ちゃんに聞いてみな」
言ってから久条は安波島少年の母親の状態を思い出した。
「いや待て、今は聞くな。今の母ちゃんがちぃっと参ってるのは、お前さんもわかってるだろ?」
頷く。
「こういう時にこういう質問をすると、後で自己嫌悪に陥って何十年と悔やむようなことを、つい、ポロッと言っちまうんだ。結婚しようと思った女と別れる原因になったから信じてくれて良いぜ」
安波島少年は少し笑った。
「何があったのさ」
「タイミングが悪かったんだよなぁ。親父さんが
内容がところどころ聞き取れねぇぐらいの早口と大声でメチャクチャ言われたぜ。そのうえ、メチャクチャ言ったあっちの方が、俺の顔を見るとメチャクチャ言ったのを思い出すっつって、気まずくなっちまってよ」
なるほどなぁと言うように、安波島少年が体を揺らす。
「まぁそういうことだ。墓まで胸にしまっておく方が良いかもな。聞きたくねぇ答えが出てくるかもしれねぇ質問は、そもそもしねぇ方が良いんだ」
安波島少年は唇を歪めて変顔を作った。いつの間にか久条のクセが伝染したらしい。
「おっちゃん、詳しいんだな」
「仕事柄、色々見るんでな。そうだ、素晴らしき
安波島少年は首の動きで否定した。
「そうか……かいつまんで説明するとだな、人生が嫌になった一人の男が、自分なんか生まれて来なきゃ良かったって願うんだが、その時に自分が生まれなかった場合の世界を見せられるんだ。散々な有様の世界をな」
「おっちゃん、どうせそいつはみんなに愛されてて、何かの拍子に気の迷いを起こしただけなんでしょ」
久条の目が泳いだ。
「いやま、確かに、映画だしな? そういうところはあるよ? お前さんは本当に色々見えるやつだね。ひょっとして本当は見たことある?」
安波島少年は首の動きで否定した。
「ああそう……とはいえ映画ほど劇的でなくてもだよ。例えば、道端にぼんやり突っ立ってるだけでも、それを気にして空き巣や放火魔が仕事をやめて、そのおかげで幸せな家庭が一つ守られる、なんてこともあるわけだよ」
「そうかな?」
「そうだよ。なんでもねぇ人間が、その辺を歩き回ってる。それだけのことに、俺たちゃ知らず知らず救われてるんだぜ? そいつらがいなきゃ、街はまるごとスラム街かゴーストタウンだよ。まさに、縁の下の力持ちだ」
安波島少年の表情は悪くない。風向きは悪くない。
「お前さんは面倒な運命を背負って生まれてきた。お前さんの言う通り、苦労が多いだろうと、俺も思う。とはいえ、捨てる神あれば拾う神ありだ。人生の続きを持ってきたからには、お前さんの人生に、俺も責任を持ってやる」
安波島少年は怪訝な顔をした。
「……ちょっとよく、わからないんだけど、どういうこと?」
「これならやってけるって生き方を一緒に探っていくってことだ。俺はお前さんと代わってはやれないが、道案内ならできる」
「そこまでおっちゃんの世話になるわけにはいかないよ」
「そう言ってくれるな。別に俺はお前さんに恩を着せてどうこうしようってんじゃねぇんだよ。むしろ恩に着るのは俺の方かもしれねぇ」
安波島少年の眉間のシワが深くなった。
「いいかい? お前さんみてぇな運命を背負ってる人間は多くねぇ。多くはねぇが、確実にいる。そいで俺は、そういう人間の命を預かる仕事をしてる。ここまでは良いな?」
頷く。
「そこで足跡が重要なんだよ。お前さんの人生が、次に現れる、お前さんみてぇな運命を背負った人間の道しるべになる。お前さんの生きた道は、人生の地図として受け継がれていくんだ」
安波島少年の目から、いくらか影が薄れた。
「なかなかロマンがあるだろ?」
「でも、俺は、俺がどんなところに行けるっていうのさ」
戻ってきてしまった。
答えは喋りながら考え続けていた。学校生活の経験に乏しく、ひねくれた人格の持ち主の、現代における適所とはどこか。考えるほどに素直というやつは美徳だと思う。
いまいち良い答えが出てこないので、久条は誠実であることにした。
「そいつをこれから一緒に考えていくんじゃねぇか。時間は俺が作ってやる。突っ立ってるだけが能でしたってオチでも構いやしねぇ。さっき言ったことだが、それだけの人間でも知らず知らず役に立ってるもんだ」
安波島少年の表情は、あと一歩のところで芳しくない。人並みには働けない自分を受け入れて、食っちゃ寝の生活を自分に許すことができないのが、この少年の致命的な屈折と言えるだろうか。
それなら、その屈折を利用する手がある。許せないならば、許すための罰を用意すれば良い。
「じゃあ、こういうのはどうだ。手術は受ける。何ができるか、試すだけ試してみる。そいで、石の上にも三年、野球はスリーアウトチェンジだから、三三が九で九年に、ロスタイムとリハビリに必要な時間を足して二十年。二十年で何もできなくて、お前さんが突っ立ってるだけの自分を許せなかった時は、肝臓を利子につけて、その心臓を俺に返すってのは」
「そんなごど――」
そんなことできるのか? だろうか。声が潰れて咳き込んだ。
「できるとも。お前さんが頷いてくれたら、俺は今すぐにでも親父さんに話を通しに行くぜ」
メチャクチャな内容でも、冗談か本気か見分けられるぐらいの信用を積み上げた自信はある。ここが九割にして半ばの分水嶺だ。
安波島少年の頭が動く。まだ咳の波が収まっていないだけだ。
咳の波が止まる。
返事を急かそうとする短気の虫の頭を、強く踏みつけ、じっと耐える。
安波島少年は、頷いた。
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