ティトノスになる前に

 病院が生の福祉施設ならば、廃体.jpは死の福祉施設である。

 明日を生きたい者は病院に、今日が人生の千秋楽と決意した者はこちらに。時折、病院が患者を回してくる事もある。


 その日、廃体.jpを訪れたのは、永菊ながぎくという一人の老婆だった。

 対応に出た平坂は、茶が乗ったテーブルを挟んで向き合い、診断スコアを見て唸っていた。

 それを見て取った永菊が平坂を覗き込む。

「何か、問題がありましたか?」


 問題は、無いと言えば無く、あると言えばあった。永菊の診断スコアは、ちょうど判断を悩むグレーゾーンの真ん中にある。

 生きたくもあり、死にたくもあり。可能なら一旦帰してしまいたいくらいだった。

「問題というか、思い残すことがあるのではありませんか?」


 永菊は今八十六歳で、二十四歳の孫がおり、それがまだ未婚だと話してくれた。

 米寿の祝いに、孫の結婚式、熱心に応援しているアイドルグループもあり、そのイベントだって控えている。

 年相応に体の不調はあるようだが、それでもまだ健康の内だ。もう三年ぐらいは粘ってみようと思っても良いだろう。

 永菊は笑った。

「確かに、思い残すことは多いです。でも、それを言い出したらキリが無いんじゃありませんか? 米寿の次は卒寿、孫が結婚したら、次はひ孫の七五三、イベントが終われば、また次のイベント」


「仰るとおりです。ここまで来るほどですから、よほど熟考されたものと思います。ただ、私どもも多くのお客様をご案内して参りました。その経験上、まだ早いのではないか? と思うのです」


 永菊は上まぶたがたるんで細くなった目を伏せた。

「私も、もう少しやれるんじゃないかと思います」


 長めの沈黙があった。平坂は、じっと続きを待つ。


「でも怖いんですよ。いつか、気付いたら知らない場所にいるんじゃないか。いつの間にか車に乗っていて、ハッとしたら周りに人が倒れているんじゃないか。そんなことを考えるんです」

 永菊は茶を一口含み、長く味わってから飲み下した。口の中に残った香りを鼻に通してから、のど奥へ流れてしまった言葉を引っ張り出す。

「隣の奥さんも、しっかりした人でした。それが、気付いたら救急車で運ばれていて、意識があるのか無いのか、わからない状態で、ずっと病院に置かれているそうです」


「それは、お気の毒に」

 言うのに慣れてしまって自動応答の社交辞令になったセリフだ。これを言うたび、平坂はそろそろ対応スタッフを辞職すべきではないかと考える。

 幸い、永菊は薄っぺらな慰めを特に気にもせず、深く頷いた。

「気の毒です。それが、明日の私かもしれないんです。平坂さん、人間は殺されるか、病気で死ぬか、事故で死ぬかです」


 ギラリと永菊の目が光る。

 慰めの言葉を口にするのには慣れても、殺意が滲む人間の目は、何度見ても額や背筋にぞわりとするものがある。


「テレビはアンチエイジングがどうこうと言っていますが、結局、不老不死なんて夢のまた夢でしょう?」


「そう、ですね。少なくとも向こう十年は、実現の見込みが無いと言って良いと思います」


 永菊は茶の液面を見つめていた。その表情は、いまいち読みきれない。

 恐怖、諦め、不愉快、安心、それら様々な感情が、複雑なバランスで混ぜ合わされたものなのかもしれない。

 複雑な顔が、細く、長いため息をついた。

「そのくせ、どうしようもないものを生かし続けることはできる」

 憎しみが滲む低い声だった。

「主人が、よく言っていました。あ、登山が趣味だったんです。それで、よく言っていたんです。まだ行けると思った時が、引き上げ時だって。もうダメだと思ったら、その時には、もう帰るための体力が無いんだって」

 そう言って少し笑った。自嘲を含んだような苦笑だった。

「主人が元気だった頃は、あーはいはいって聞き流していたのに、こうなってみると、本当にそうねってしみじみ思うんです」


 聞きながら平坂は頭の中で提案できそうなプランを弄くり回していた。

「それでは、このような形ではいかがでしょうか。もうダメだという時には、私どもが必ずお迎えに参ります」


 永菊はハッとしたように顔を上げた。

「できるんですか? そんなこと」


「はい。かかりつけの病院を教えていただければ、例えば、意識回復の見込みがほぼ無いとか、治療の効果が薄く、相当に悪化していると判断された場合、私どもで引き受けてお送りさせていただきます」


 永菊はそのまま勢いでお願いしますと言いそうな顔をしていたが、それが不意に曇った。

「名案だと思いますけど、おかしくなってしまった私がキャンセルしようとすることもありえますよね?」


「そうですねぇ……」

 平坂はうなった。返答に困ったわけではない。即答するより、熟考して出てきた答えのように見せた方が良いこともある。そのためのワンクッションだ。

 真摯な態度とはどういうものだろう? 自分は相手のためを思って行動しているという自信はある。しかし、それでやっていることはと言えば、さっきから詐術まがいのことばかりだ。

 ワンクッションに紛れさせて深呼吸する。

 自分の対応スタッフ適性が、まだ残っているかどうかを考えるのは今ではない。

「それなら、こうしましょう。キャンセルのお手続きは、この窓口でのみ、お受けいたします。ハガキ、FAX、電話のような、直接お会いしない方法では、絶対に受け付けません。

 直接来られた場合は、キャンセル前に診断を行い、本当に気が変わったならキャンセル。病気が原因と判断されれば、その時点でご注文に従う。いかがです?」


 永菊は平坂が言ったことを飲み込めていないようだった。確認しながら復唱することを二度繰り返し、不可解そうな顔をした。

「どうして、そこまでしてくださるんですか?」


「私どもは殺人業者ですが、命を扱う慈善団体であるとも自負しております。その矜持きょうじにかけて、全てのお客様に、満足度の高い人生の終わりを提供したいと考えております」


 永菊は頷いていたが、表情はあまり理解できている風ではなかった。

 診断スコアがグレーの者に、死の慈善団体が抱えるものは、すんなりと理解できるものではない。

 平坂は事務的に続ける。

「先程、自動車の心配をしておられましたが、バスやタクシーに切り替えるのは難しいでしょうか?」


「バス停は少し遠くて、タクシーも、買い物のたびに呼ぶわけにもいきませんので……」


「そうですか」

 貸出車両のカタログをタブレットに表示して差し出す。

「自動運転車の貸出も行っております。今お使いの車を処分してしまって、こちらに切り替えてはいかがでしょうか」

 貸出料金は、普通に自動車を持つ場合の維持費より二割ほど安くしてある。

 永菊は表示金額を小さく呟き、机に指で数字を並べ、止めた。

 こちらに目を戻した永菊を見て、平坂は話がまとまったのを確信した。

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