(12)自称フリーライターの化けの皮
大崎が偽名を名乗っていると判明してから、千尋は週が明けてもそれについて悶々と悩んでいた。
「う~ん、一応これは保管してはいるものの、ジャケットの行方は分からないままだし、第一、この怪しげな番号に連絡して良いものかどうか……。姓名詐称で、身元不明の人だって判明したものね。そんな怪しげな人に電話番号もアドレスも、知られたくはないし……」
木曜の午後に、引き出しから名刺入れを取り出しつつ一人で考え込んでいると、店の外からクロが文字通り駆け込んで来る。
「なうっ! にゃ、にゃあっ! きしゃーっ!」
「え? びっくりした。クロ、どうしたの?」
何やら凄い剣幕で訴えるクロに、千尋が目を丸くしていると、クロは彼女の穿いているスラックスの裾を咥え、有無を言わさず外へと引っ張って行こうとする。
「あ、ちょっと! 噛みつかないでよ! 穴が開いちゃうじゃない!」
「キシャーッ!」
「外に出ろって?」
千尋が慌てて立ち上がると、自分の足元でクロが威嚇するように一声鳴いたと思ったら、店の外に走り出たのを見て、彼女は諦めて後に付いて歩き出した。
「一体、何なのよ……」
愚痴を言いつつも出入り口の戸を閉めて準備中の札を出し、千尋は数歩先にいるクロに向き直った。
「にゃっ!」
「はいはい、付いて行くから」
しかしすぐにクロが、道路の端にある電信柱の陰に走り込んで止まった為、千尋の疑念が深まる。
「何? その電信柱に何かあるの?」
取り敢えずそこまで行ってみたものの、何の異常も認められなかった千尋は、苛立たしげにクロに声をかけた。
「ちょっと。何も無いじゃないのよ?」
「にゃっ!」
「うん? あそこになにか……、え?」
千尋の不満たらたらの呟きを受けたクロだったが、全く気にする様子は無く、小さく鳴いて斜め前方にある家の方に向き直った。するとそこに予想外の人物の姿を認めて、激しく動揺する。
「あれは……、大崎さんよね? でもスーツ姿だし、髪型も雰囲気も、いつもと全然違うんだけど……」
自由業的なラフな感じなど微塵も見せない、如何にも有能な営業マンのオーラを醸し出している大崎を、千尋は唖然として見やったが次の瞬間我に返り、微かに聞こえてくる彼とその家の住人らしき年配の女性との会話に聞き耳を立てた。
「それではまた来週、寄らせて貰います」
「本当に大変ね。いつもご苦労様」
どう考えても電信柱からは身体がはみ出ており、こちらが様子を眺めていたのを大崎に気付かれると思って肝を冷やした千尋だったが、彼が自分がいる方向とは反対方向に歩き出したのを見て安堵した。しかし会話を漏れ聞いて、大崎が件の女性とは顔見知りらしいと察した千尋は、益々混乱する。
「大崎さんって、あの姿でこの辺りに来ていたの? それに今日は木曜日だから、他のエリアを回っているんじゃないの? 第一、ここまで来ていながら、どうしてよろづやに寄らないで帰るのよ? 全然、訳が分からないわ……。あ、クロ! ちょっと!」
大崎の姿が見えなくなると同時に、思考の迷路にはまり込んでいる千尋を放置して、クロが先程大崎が玄関先で話し込んでいた家の門に向かって駆け寄った。それで千尋も慌ててその後を追い、自然に玄関の表札に目を向ける。
「横川さんか。そう言えばバタバタして、ご近所にご挨拶とか全然していなかったな。駐車場を挟んでいるから、厳密に言えば隣じゃないし」
「にゃお~ん! にゅわ~ん! なぁなあ~ご!」
「え? ちょっとクロ! あんた他人様の玄関先で、いきなり何を叫んでるのよ!?」
そこでいきなりクロが家の中に向かって大声で鳴き始めた為、千尋は焦って止めさせようとした。しかしすぐに先程の女性が、訝しげな表情で玄関のドアを開ける。
「何? 五月蝿い猫ね。……あら? あなた、どちら様?」
予想していた猫だけでなく若い女性まで居た事に、彼女は不思議そうに尋ねてきた。一方の千尋は、ご近所に不審者認定されたくは無かった為、必死に頭を回転させた。
「横川さん、初めまして。私は田崎千尋と申しまして、母が入院中よろづやを預かっている者です。母の入院が急な事だったものでバタバタして、ご挨拶するのをすっかり失念していましたが、店に連日子供が集まっていますので、ご近所にゴミを散らかしたり、騒音になっていないか気になりまして。皆さんにご挨拶がてら苦情があればお聞きしようかと、ご訪問させて貰いました」
どうにかそれらしい口実を千尋が口にすると、尚子とは顔見知りだった彼女は、忽ち笑顔で応じてくれた。
「それはご丁寧に。あなたが尚子さんの娘さんなのね? 以前に話を聞いた事があるわ。私は横川節子と言います。初めまして。ところで、尚子さんは大丈夫なの?」
「はい、経過は順調で、予定通り退院できそうです」
「それなら良かったわ。それにゴミとかは道路に散らかったりしていないから、大丈夫よ。気にしないで」
「そうですか、安心しました。それで……、先程こちらのお宅を訪問していた、大崎さんの事ですが……」
そこでさり気なく一番聞きたい事を口にしてみた千尋だったが、途端に節子は困惑した顔になった。
「大崎さん? 誰の事かしら?」
「あの……、私と入れ違えにお帰りになった、スーツ姿の人の事ですが……」
「あれは時任さんよ? 大崎なんて名前じゃ無いけど?」
「ええと……、よろづやにはタウン誌と契約している、フリーライターの大崎達生と名乗っていたのですが……」
「はぁ? だってあの人は、屋根や外壁のリフォーム会社勤務の時任悠人さんよ? その名刺も貰っているし。見間違いじゃないの?」
どうにも噛み合わない会話に、節子が眉根を寄せたのを見て、千尋は恐る恐るスマホに入っている自身と大崎のツーショット画像データを選択し、彼女に見せてみた。
「あの……、その時任さんって、この人ですか?」
「ええ、この人で間違いないけど」
「これ、大崎さんの画像なんですが……」
「…………」
控え目に千尋が主張すると、節子が彼女とスマホの画像を交互に見ながら黙り込む。そんな微妙に気まずい沈黙の中、第三者の朗らかな声が割り込んだ。
「横川さん、こんにちは。回覧板を持って来たから、お願いしますね」
「え、ええ……」
それで我に返った節子は、帰りかけたその女性に慌てて千尋を紹介した。
「あ、立花さん。こちらの方は尚子さんのお嬢さんで、田崎千尋さん。今尚子さんの代わりに、よろづやをやっているそうよ」
「まあ、初めまして。その角を曲がって向こうに住んでいる、立花美和と申します。尚子さんにこんな立派なお嬢さんがいらしたなんて、知らなかったわ」
「宜しくお願いします。店や出入りするお客の事で、何かご迷惑をおかけする事があったら、遠慮無く仰ってください」
「あら、迷惑なんかかけられてはいないから、心配しないで」
「それなら良かったです」
そこで何気なく千尋の手元に視線を落とした美和は、唐突に問いを発した。
「ところであなた、佐原さんとも知り合いなの?」
「え? 佐原さんと言うのは、誰の事でしょうか?」
「だってそれは、あなたと佐原さんとの写真でしょう?」
不思議そうにスマホを指さされて、何の事を言っているのか察した千尋と節子の顔が強張る。
「いえ、これは、自称フリーライターの大崎さんの画像ですが……」
「え? だって佐原さんは、健康食品会社勤務の方よ?」
「…………」
「あ、あの……、二人とも、どうかしたの?」
そこで二人は顔を見合わせて黙り込み、その尋常ならざる雰囲気に美和が、一体何が拙かったのかと恐る恐る声をかけた。すると節子が、押し殺した声で言い出す。
「千尋さん、美和さん。ゆゆしき問題が発生しているみたいだわ。それについて話があるから、ちょっと上がって頂戴」
そう促された千尋だったが、現実的な問題から丁重に断りを入れた。
「あの、申し訳ありませんが……、私は店がありますので……」
「そうだったわね。それじゃあ私達がよろづやに行くから、座る場所を四人分、確保しておいて貰えるかしら? 全員に声をかけて、できるだけ早くそちらに行くから」
「え、えぇ? それは構いませんが……」
「お願いね。美和さん。あなたは、市原さんに声をかけて。私は根岸さんを連れて行くから。十五分後に、全員でよろづやに集合よ。分かったわね!?」
「……はい」
「え、ええ……、分かったわ」
「鍵! 家の鍵を取って来なくちゃ!」
険しい顔で念押しされた二人は、圧倒されて素直に頷き、節子はそのままの勢いで家の中に戻って行った。
「どうしたのかしら?」
「さあ……」
「取り敢えず、市原さんを呼んで来ないと。また後でね」
「はい、お待ちしてます」
そして門を出た二人は左右に分かれ、千尋はクロを従えてよろづやに戻った。
「本当に、何なのかしら?」
そう疑問に思いながらも彼女は店の戸を開け、ガレージの方に手早く自分の分を合わせて五人分の席を用意した。
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