全力疾走

yuyu

全力疾走


─今回は縁がなかった、ということで……


「いや、不採用なら不採用って書けばいいじゃねぇか!!」

いつもはジョッキが思い切り当たる心地よい音と笑い声が響く、居酒屋 疾走しっそうに、今日は怒鳴る男の声が混ざっていた。


「まぁまぁ、たける。どんまいどんまい!」

「これで何十回目だってんだよっ……」

月島つきしま たけるの左手にはくしゃくしゃになった封筒が握られ、右手には大きな空ジョッキが汗をかいていた。木彫りのテーブルには、皿から落ちた枝豆の殻が影をまとっている。


そこそこの大学に入学し、そこそこの成績を取り続け4年目となった健は、就職という高い壁にぶち当たっていた。


「あれ、ってどう書くっけ?」

「え?ゆううつ?」

「いや、なんでもない。」

塩気の効いた枝豆は酒によく合う。ただ、最近の酒はなぜだか美味しいとは感じることはできなかった。




ある日、大学の友達から一本の連絡が入ってきた。

─俺、合格した!◯◯ってとこ!お前も俺に続いて頑張れ!!


健は今日もにいた。右手のジョッキは相変わらずキンキンに冷えていたが、乾いた喉が潤うことはない。枝豆が一粒、テーブルの上にころりと転がった。

「お疲れ、健。」

同じ境遇の友達が隣に座る。

「おう。」


健は思った。どうせ俺は、皿からいつも落とされる、この豆だ。気づかれることもなく、気づかれたとしても知らぬ振りをされる。存在する必要性を、意義を、全く感じない。そんなただの物体なのだ、と。




深夜近くなった頃、健のスマホから音が鳴った。この着信音は母親だ。健は居酒屋の外に出た。

「……もしもし?」

「あ、もしもし。母さんだけど…?」

「うん。ディスプレイ見ればわかる」

「あんた、大丈夫なの?」

「なにが?」

「就職よ、なんの連絡もないから。」


そういえば母親の声を聞くのは久しぶりだ。こんなに腹のたつ声だっただろうか…。いや、腹が立ってるのは自分に、か。


「大丈夫だよ、もうすぐ決まるって」

根拠のない言葉が早口で滑り落ちる。

「そう?それならいいんだけど…」

─ごめんな、母さん。

「健は、健のままでいいんだからね?」

「……。」

「それじゃあ、夜も遅いんだし早く寝るのよ?時々連絡もちょうだいよ?」

「わかったよ、おやすみ」


電話が切れた後すぐには中に戻らなかった。戻れなかった、の方が妥当なのかもしれない。母親の顔が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消える。

─もう……イヤだ。


なんとかして社会に溶け込もうと、自分を押し殺して生きてきた。普通に。普通に。

……でも普通ってなんなんだ?

「俺は俺のまま、ねぇ……」

それが出来たら、それで認められるのなら、どんなに楽か。社会はそんなに甘くない。

健は静かにため息をついた。




友達の元に戻ると、机に落ちていたはずの枝豆は、皿の上の縦横にいくつも重なった殻の中に混ざっていた。居酒屋の外から酔っぱらいの歌が聞こえてくる。何の歌だろう。


小さい頃はこんな俺にも夢があった。飛行機のパイロットだ。かっこいいからというありきたりで、軽率な理由だったが。

大人は子どもに夢を語らせる。それが叶わないことであっても、現実という膜がすぐ目の前を覆っていても、それを知らせないまま。なんて残酷で皮肉なことなのだろう。たぶん、もう、俺もそういう大人の一員なのだろうな。


健は残っていたビールを喉に流し込んだ。このまま永遠に眠ってしまったらどんなに幸せだろうか。健がそうぼんやりしていると、ふと時計を見た友達が慌てて声をあげた。

「健!終電ヤベェ!」




いつぶりだろうか。

健は友達の後を追って、全力で走っていた。大通り一本手前の空いている路地の、まだ明かりのついている居酒屋の前を、風を切って駆け抜けていく。酒を飲んで火照っていたせいか、肌に当たる冷たい風が心地いい。


さっき聞こえた酔っぱらいの歌が大きくなってくる。まだここにいたのか。少しスピードを上げる。横を通りすぎる時、その酔っぱらいと目があったような気がした。さっきは聞こえなかったが、その時口ずさんでいたのはあの有名な「明日があるさ」だ。


「ギリギリ間に合った……。危なかったぁ!」

「おう……」

終電ということもあって、プラットホームに人影はない。電車の中には点々とスーツをきた人の姿が見え、数人はすでに夢の中にいるようだ。

健は、疲れすぎて一声も出したくなかった。だが、なんだか楽しかった。息は切れていたが、清々しい気分だった。

─全力を出すって、こうも気持ちのいいことだっただろうか。




そういえば最近、この感覚を忘れていた。部活やサークルに明け暮れていた自分を思い出す。毎日全力で生きていた、全力で楽しんでいた、あの頃を。


いつからだろう、

全力でいることが恥ずかしくなったのは……。


いつからだろう、

個性の抹殺された社会の中に自ら埋もれていったのは……。




「健は、健のままでいいんだからね?」

そう、俺は俺だ。他の何者でもない。




「俺、パイロットになるかな」

「はぁ?」


あの枝豆は今、他の殻と一緒にゴミ箱の中だろうか。あの酔っぱらいは無事1曲歌い終われただろうか。そんなことはもうどうでもいい。俺には明日がある。


「いや、冗談だよ」

健はふっと笑うと、ビルの明かりで輝く街をその目に焼き付けるようにじっと見つめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

全力疾走 yuyu @yuyu728

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ