縁弧の鈴

 世間でも人気の大学に入学し、サークル活動もバイトも恋愛も経験した。三年までに単位を取得し、就活もそこそこ名の知れた会社に内定をもらった。あとは卒論の最終チェックだけという、まさに順風満帆な大学生活だ。


(大学には週数回しか行かないし、そうなると家賃無駄だな……)


 通学のために実家を出てアパートに一人暮らしをしていたが、実家からでも通えないことはない。

 バイト代で家賃を払っていた僕は、通学日数と実家からの通学時間を天秤にかけ、十一月いっぱいで部屋を引き払うことにした。


「え~? いいけど……。もうあんたの部屋、使っちゃってるわよ」


 可愛い次男の帰りを喜んでくれるかと思いきや、母から返ってきたのは、困ったようなため息だった。

 実家では、年の離れた兄が結婚し、両親と同居している。生まれた姪っ子が自分の部屋を欲しがったため、僕の部屋を使わせることにしたというのだ。


「そんなの僕、聞いてないよ」

「そうだっけ? だって、春からは社員寮って言ってたし、アパートからそのまま社員寮に引っ越すんだと思うじゃない」


 母にとってはもう、離れて暮らす次男よりも可愛い初孫なのだ。

 元々女の子が欲しかった母にしてみれば、姪っ子はわが家初めてのお姫様だ。できる限りの要望は叶えてあげたいらしい。


「そうだ。じゃあ、おじいちゃんの部屋使いなさいよ」

「おじいちゃんの?」


 二年前亡くなった祖父の部屋は、一階の和室だ。

 旅行と読書が趣味だった祖父の部屋は、本とアルバムが溢れていて、処分に困った挙句、まだ殆どそのまま残っているはずだ。


「ついでに、あんた帰って来るまでに、おじいちゃんの荷物整理しちゃってよ」

「え~? 僕が?」

「そう。あんたが一番おじいちゃんに懐いていたんだし、なにを処分してなにを残したらいいか、家族の中では一番わかるでしょ」

「そんなこと言っても、全部わかるわけないじゃないか」

「なによ。あんた、大学にはもう殆ど行かなくていいって話したばかりじゃない。暇なんでしょ」

「そうだけど……母さんは?」

「私、亜香里の習い事のお迎えなんかで結構忙しいのよ。じゃあ、お願いね? いつ来てもいいから!」


『一旦実家に戻るから、僕の部屋掃除しといてくれない?』


 そう電話をかけたはずなのに、なぜか逆に祖父の部屋の掃除を押し付けられてしまった。

 腑に落ちないと思いながらも、諦めるしかないらしい。


(おじいちゃんの部屋か――)


 壁一面の大きな本棚には、アルバムや色々なジャンルの本がびっしりと詰まっていた。

 子供の頃おじいちゃん子だった僕は、その部屋でおじいちゃんに旅の話や、本のうんちくを聞くのが好きだったっけ。

 そんな思い出の残る部屋の荷物を整理しなければならないのは、少し切ない。

 祖父は晩年、様々な場所に旅したことも、たくさん吸収した本の知恵も、ほとんど忘れてしまった。


(――あ、そういえば、寝たきりになっても肌身離さず持っていたアルバムがあったっけ……)


 祖父が自らを忘れかけても、それでも手放さなかったアルバム――。あれは、なんだったのだろう?

 それを考えると、そのアルバムの正体が気になって俄然やる気になった。



 *

 


 リビングのソファで寝ながら、遺品整理をして五日目。祖父が最期まで大事に抱えていたアルバムが見つかった。中は一ページだけ使われており、色あせた写真が一枚と、その横に赤い組紐のついた白く丸いストラップのようなものがテーブで貼られていた。

 写真に写っていたのは、切れ長の目が印象的な、着物姿の美しい女性だった。だが、だいぶ古い写真のようで、輪郭もぼやけ、あちこち擦れてしまっている。


(なんだろう。これ……)


 乾いて硬くなったテープを丁寧に剥ぐと、ストラップのようなものを手のひらに乗せた。指先ほどの大きさのそれは、耳がついており、丸みのある形をしている。元々はなにかが描かれていたのだろう。ところどころに青や黒、赤の塗装が残っているが、ほぼ真っ白だ。


(なにかの動物か? 猫にしては鼻が尖ってるし、犬にしては少し面長――もしかして、狐?)


 鈴のようにも見えるが、振っても中にはなにも入っておらず、小さな穴もない。

 用途がわからないが、やはりこれはストラップのような物なのだろうか。

 もう一度写真を見ると、女性の帯から、このストラップのような物が下がっていた。

 写真の裏には、懐かしい祖父の字で『アノ村に、もう一度行きたい』と書かれていた。


(あの村?)


 あの村とは、一体どこだろう。この女性とそこで出会ったのだろうか。

 僕が幼い頃に祖母は亡くなっているが、この写真の女性が祖母ではないことはわかる。

 僕は祖父の秘密を覗いてしまったような気がした。

 

 事件は起こったのは、その日の夜、家族揃っての楽しい食事の場でだった。

 テレビのニュースはただ流れているだけで、誰も気に留めていなかった。

 亜香里がピアノの発表会で着る服を買いたいとか、犬を飼いたいとか、皆の中心になってお喋りをする。僕もそれに付き合っていた。

 意識がテレビに向いたのは、内定をもらった会社名が、アナウンサーの口から飛び出したからだった。

 画面がVTRに切り替わる。

 真っ青なカーテンをバックに、勢ぞろいした社長を始め、重役たちが顔を歪め、頭を下げた。


 内定企業の倒産――。


 すべてが順調だった僕に降りかかった、人生を変える出来事だった。


 僕の代わりに怒る父に、なんとか宥めようと優しく話しかける母。義姉は早々に亜香里を連れて部屋に戻る。兄は茫然とする僕の隣で、詳細を調べ始めた。

 卒業したら就職して、誰かと出会い、結婚する――。

 さっきまで見えていた自分の未来が、急に真っ暗なものになった。


 それからなにがどうしてそうなったのか、自分でもよく覚えていない。

 なぜか僕は、祖父の思い出の地を求めて旅をすることになったし、僕の気分転換になるならと、家族もそれに賛成した。

 祖父の荷物を整理した僕は、久しぶりに自分のアパートに戻った。ここからの引っ越しは、業者に頼んであるから簡単だ。


「電気とテレビつけて」


 僕の声に反応して、AIスピーカーが作動する。

 テレビはつけたものの、外の喧騒を遮断したいだけで、ソファに座るとすぐにスマホを取り出した。


「あ~。もっとヒントないのかな。あの村って一体どこだよ」


 思わず口にした独り言に、意外な物が答えを出した。


『アノムラ トハ トウホクホクブ ノ ユキブカイバショニアル シュウラク デス ココカラノ キョリハ オヨソ ナナヒャク キロ デス』

「わ、びっくりした!」


 僕の言葉を問いかけだと認識したAIスピーカーが答えたのだ。


「あの村って、存在するの?」

『アノムラ トハ トウホクホクブ ノ ユキブカイバショニアル シュウラク デス ココカラノ キョリハ オヨソ ナナヒャク キロ デス』


 AIは同じ言葉を口にする。

 祖父の書いたアノ村とは、そのまま、村の名前だったのだ。



 *



 目を覚ましてまず思ったことは、「左腕が痛い」ということだった。

 どうやら、僕は生きているらしい。

 どこからが夢なのか、どこまでが現実なのかはわからないが、腕を骨折したらしいということと、生きているということはわかった。

 添え木され包帯でグルグル巻きになった左腕をかばいながら、身体を起こす。

 僕が寝ていたのは、見慣れぬ和室だった。

 やけに広い部屋の片隅には、昔ながらのストーブがあり、その上には大きな鍋が乗っている。

 時折、シュン、シュンと音がするのは、その鍋のようだった。


「目を覚ましたか」

「うわ、びっくりした!」


 人がいる気配などなかったものだから、心底驚き、心臓がバクバクする。

 声のする方を見ると、そこにはアンサンブルにスカート姿で正座している女性がいた。

 彼女の顔を見て、僕の心臓がドクンと大きく打った。

 祖父の写真に写っていた女性と、よく似ていたのだ。

 長く艶やかなストレートの黒髪に、切れ長の目。透き通るような白い肌を持った彼女は、十人が見れば十人全員が『美しい』と思うであろう風貌をしていた。


「あの……。ここは亜野村ですか?」

「お前はなぜ、縁弧えんこすずを持っている」

「――は? ええっと……エンコノスズって、なに?」

「お前が今、握りしめているものだ」


 気づけば、怪我をしていない右手に、祖父の狐のストラップを握りしめていた。


「ええと……鈴って、これ?でも、鳴らないけど……鈴なの?」


 振って見せると、やはりなにも音はしない。

 だが、彼女は表情を変えることなく、続けた。


「鈴が鳴り、縁が結ばれた。我らを、呼んだだろう」


 僕は、頭も打ってしまったのだろうか。

 彼女が当たり前のように話すことが、僕にはまったく理解できなかった。

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