指輪の似合わない恋人

犀川ゆう子

指輪の似合わない恋人

 シンジは物を大切に使う奴だった。

 ボタンがへこんじまったゲーム機とか真っ二つに割れた皿なんかを、一度壊れても自分で直せる限りは修理して、いよいよ本当に使い物にならなくなるまで使っていた。

 そして少しくらい欠点があっても、それが本来の機能を維持していれば気にしなかった。胸に引っかける部分が折れたボールペンとか、コーヒー引っ掛けたけど中身は無事だった箱ティッシュとか。

 あとは俺とか。


 俺は自分で言うのもなんだけどそこそこクズで、時々シンジを放って女と寝るし、家賃滞納して家を追い出された挙句シンジのアパートに転がり込んで1年、生活費は一切入れてない。

 それでもなんだかんだとシンジとこれまでやって来られたのは、ひとえにシンジのそういう性格があるからだった。浮気しても金がなくても家に寄り付かなくても、俺が一応まだシンジを恋人だと思っていて最終的にシンジのアパートに帰ってくるから、俺たちはまだ付き合っている。ところどころヒビが入っていても時々シンジが隙間に接着剤を突っ込んで補修していたから、俺たちはとりあえず恋人同士の形を保っていたのだ。


 それがある日、シンジはもうやめようと言った。

「ケンちゃん、おれたちもう終わりにしようよ」

「は?」

 このときばかりは俺も驚いて吸っていたタバコを落としかけた。シンジはタバコを吸わないし煙も嫌がるが、俺は吸いたい時に好きな所で火を点ける。

「だから、別れようって言ってんの。一緒に住むのもやめる」

「何言ってんの」

 シンジの真剣な表情はそっちのけにその瞬間俺の頭に浮かんだのは「じゃあ俺はどこに住むんだよ」だった。煙と共にそれを吐き出すと、シンジは呆れ混じりの溜め息を吐く。

「さあ。エミちゃんとかマイちゃんとか、女の子が嫌ならユージくんとかのとこに行けば」

 なんでこいつが俺が最近寝てる女の名前を知ってるんだ。ユージだって、少し前に行きつけのバーで引っ掛けた男だ。三十半ばだけど顔も具合も良くて、それはともかく、そいつらの事をシンジが知るはずもない。

「なんでお前がんなこと知ってんだよ」

「なんでって。向こうから来たんだけど。みんなしてうちに来てケンちゃんと別れてって言うし。今まで結構いたよ。マリナとかショウゴとかエイタとか」

 次々と出てくる俺の歴代浮気相手の名前に愕然とする。マジかよ。あいつらいつの間にうちに来てたんだってのもそうだけど、何で全員家知ってんだよ。

「ケンちゃんほんと脇が甘いよね。ヤリチンの癖に」

「うるせえよ。つーか、そいつらが別れろって言うから別れるっての?」

「別にそういうわけじゃないけど。でもケンちゃんさ、ユージくんとはできたんだね、生」

 突然暴露された単語にぎょっとする。生ってのは当然そっちの生だろう。ゴム無し。

「ユージくんが言ってたよ。なんで付き合ってくんないのかと思ったらこんな男と住んでたとかマジ嘘でしょ。ケンイチは絶対俺の方が好きに決まってる。週3でうち来るしって。あとクリスマスに欲しかった時計くれたって言ってたな。けっこういい歳した人が玄関先でわんわん泣きながらケンちゃんが遊びで手え出した女子大生みたいな事言うからさ。おれもう言っちゃったよ。分かったよケンちゃんとは別れるしもう一緒に住まないよって。そしたらユージくんめちゃめちゃ喜んで帰ってった。聞いてない?」

 道理で昨日会ったユージの機嫌がやけに良かったわけだ。つらつらとユージとの会話を並べ立てて一息ついたシンジの暗い目付きを見て、俺の心臓に冷たいものが走る、まだシンジの言い分は終わってない。数少ないシンジとのケンカの経験から、まだ何か言いたい事がある、というかむしろ本題がまだなんだと察した。こいつが一番気に入らないのは浮気相手が次々玄関先で別れろ別れろとまくし立てる事じゃないらしい。

 暗い顔のシンジは俺の方なんか見向きもしないでテーブルに肘を付いた。さもどうでもいいことのような素振りで口を開く。

「その時計っておれがクリスマスにあげたやつだよね」

「ちげーよ」

「嘘。ユージくんが見せてくれた。ケンちゃんが着けてるとこは一回も見たことないけど」

「知らねーよ。偶然だろ」

「そういうと思った。ケンちゃん、シリアルナンバーって知ってる?」

 適当に切ったシラも簡単に論破される。クリスマスの少し前、当日は仕事で一緒に過ごせないからと早めのプレゼントで貰った腕時計を、俺はユージにやった。その通りだ。

「それはまあいいけど、いっこ気になってることがあってさ。なんでユージくんとはできておれとはできないのかな、生。おれが別にいいって言ってるのに毎度ゴム買わせるくらい嫌がるから男とは生ダメなのかなって思ってたけどそうじゃないんでしょ? ユージくんはいっつも中で出してくれるって言ってたし。愛を感じるんだって。ねえ、おれとは生できない理由って何? 教えてくれる?」

 抑えてはいても滲み出る剣幕に、俺はシンジが別れると言い出した真の原因を悟った。現在進行形で5股掛けていることでもクリスマスプレゼントを浮気相手に横流ししたことでも、はたまたこの家でシンジと顔を合わせるのはせいぜい週2程度ってことでもなく、俺がシンジとはやらないくせにユージと生でやっていたのが気に食わなかったらしい。相変わらずシンジの沸点が分かんねえと思いつつ、俺は答える。

「別に理由なんてねえよ」

「病気移したら悪いなとかでもなくて?」

「はあ? 俺が性病持ちなわけねえだろ」

 俺だって相手はちゃんと選んでいる。俺と違って遊んでない奴か、俺と同じくらい遊び慣れてる奴だ。

「ほんと意味分かんない」

「お前の方こそ意味分かんねえよ。そんなことで今更別れるとか」

「あっそう。とにかくおれとケンちゃんはもう終わりだからね。ここも月末には契約切るから、それまでに出てって」

「はあ!? 月末までってどういうことだよ! あと一週間しかねえじゃん」

「一週間あれば荷物纏められるし家に置いてくれる相手も見つかるでしょ。ケンちゃんそういうの得意だし」

 辛辣に言い放ったシンジは俺などお構いなしに立ち上がり、寝室に引っ込んだ。ガチャリと鍵を掛ける音がする。俺をベッドで寝かせる気はないらしい。俺は短くなったタバコを片手にしばらく呆然としていたが、我に返って立ち上がり寝室のドアを叩く。しかし応答どころか物音ひとつしないので、痺れを切らしてアパートを出た。とりあえずどっかで一杯やりながら考えるつもりだった。



 そして飲みながら考えた。だが酒の入った頭では具体的な思考が出来るわけもなく、渋々アパートに帰ると玄関に鍵が掛かっていた。慌ててジャケットのジャケットのポケットを探ってみて、しまったと思う。勢いで出て来たので鍵なんか持って来なかった。何度かベルを鳴らし、ついでにドアも叩いてみたが当然開くわけもない。そもそも深夜二時を回っていたから、シンジはとっくに寝ている時間だった。それにシンジは一度寝ると中々起きない。

 仕方なく電話を掛け、眠たげなユージに泊めろと言う。理由を聞かれたので教えてやると大喜びで了承した。

 ユージは仕事が忙しいらしいが寝る間も惜しんで甲斐甲斐しく世話を焼いて来るし、男の一人暮らしの割に飯もうまくて、シンジに追い出されて三日、今のところ生活に支障はなかった。



 …………という一連の経緯を、俺は行きつけのバーで話していた。相手はセリグチという。歳は俺の一つ上の二十六で、俺と同じくらい遊んでる奴の一人だ。一度だけ寝たこともある。というかそれがきっかけで知り合い、今はただの酒飲み仲間だった。

「んで、シンジくんともう三日会ってねーの?」

「あいつマジ意味分かんねえ」

「ヤバい、すげークズ、笑える」

 セリグチはチャーハンを食いながら大笑いしている。マスターが昔の職場で可愛がってもらった先輩だとかで、コイツが頼めばこういうものも出て来た。俺はテーブルの下でセリグチの脚を蹴る。

「笑ってんじゃねえよ。会ってねえどころか電話もメールもチャットも無視で家にも入れねえんだから。こっちは真剣に困ってんだ」

「え、だってもう新しい寄生先見付けたんだろ? じゃあ別にいいじゃん。相手だって喜んでるって言うし、だったらそっちと付き合っちゃえば」

「セフレと付き合うとか無理だろ。バカじゃねえの」

「え、ケンイチほんとわけ分かんな過ぎてヤバい。シンジくんが本命だってのは知ってたけどさあ、そもそもシンジくんって何で本命なの? お前がメインで住んでるのがシンジくんの家ってとこ以外本命要素ゼロじゃない? セフレのユージと何が違うの? あっ、そっか。生でやんないとこ?」

 自分で言って吹き出しているセリグチに舌打ちすると、瞬く間に眉間に皺を寄せられる。

「きったね、そういうの飯がまずくなるから止めろよ。そんでシンジくんが本命だっていう理由教えて。クズのロジカルに興味あるから」

「別に。ただ一番付き合い古いし都合いいから」

「えっ。それだけ? 付き合いの長さって、そんなこと言ったら前からいた他のセフレはどうなるのさ。シンジくんと付き合ってからはそれ全部切ったの?」

「別に切ったわけじゃねえけど。元々そんな長く続かねえし」

 シンジと付き合いだした頃にも当然セフレはいたが、元々大抵はそう続かないので自然と切れていた。セリグチはシンジと会う前からの付き合いだが、その頃にはもうただの飲み相手だった。

「じゃあ都合がいいって、お金入れなくても家に置いてくれて飯が出て来てやりたい時にやらせてくれるってだけ? それで一番長続きしたから本命扱いなの?」

 頷く。その通りだった。

「呆れた。そんな理由なら別れようって言われて執着する理由ないじゃん。さっさとそのユージに鞍替えしなよ。聞いた感じ年上で稼ぎも悪くないし、喜んで面倒見てくれるしでヒモにはうってつけじゃん。シンジくんは真面目なんだしさ、お前みたいなクズがいたらまともに結婚もできないじゃん」

「するかよ。あいつはゲイだ。俺と違って」

 そう、俺はどちらでもいけるが、あいつは男としか付き合ったことがないと自分で言っていた。本当かどうかは知らないが、事実なら生粋のゲイなんだろう。

「ふーん、シンジくんがそう言うならそうなんだろうけど、ゲイだって籍は入れなくても事実婚みたいなのはあるでしょ、多分。それにお前よりもっとマシな相手いるよ。別れてやんなって」

 セリグチはこの話は結論が出たとして興味をなくしたようで別の話を始め、その日はもうシンジのことは話題に上らなかった。セリグチが次はマスターと話すというので店で別れ、ユージの家に向かう為駅への道を歩く。

 道すがら、シンジのことが頭に浮かぶ。

 シンジがどうして俺の本命なのか。セリグチにはああ言ったが、俺の中で何かが引っ掛かる。とっくに忘れているということはどうせ大した内容じゃないんだろうが、何がシンジの考えを変えさせるか分からない。俺は元々どうでもいいことは忘れる質だし、シンジは俺にとってどうでもいいことに執着したりする。色々記憶をひっくり返し、シンジと付き合う前まで遡り、ようやく心当たりが見付かる。白い息を吐きながら、俺はその頃の記憶を思い出した。






 シンジと会ったのは三年くらい前、あのバーだった。

 いつものように一杯やりながらその日の相手を探すつもりで店のドアを開けると、カウンターの端に男が座っていた。カジュアルなシャツにスニーカー。背格好からして若そうだし顔を見てみようと、隣の椅子を引きながら声を掛けると少し俯いていた男は顔を上げた。思った通り若い。まだ二十歳そこそこだろう。しかし男は泣いていた。

「あ…………」

 それがシンジとの初対面だった。俺を見て小さく声を漏らしたシンジは涙こそ流していなかったが、明らかに涙ぐんでいて目が赤くて、それを見た俺は失敗したなと思った。こういう所で泣いてる奴は引っ掛けやすいが、俺はそういう面倒なのは避けるタイプだ。人違いだったとはぐらかしてしまおうかと思ったが、顔はまあまあタイプだったので少し付き合ってやろうと思い席に腰を下ろす。

「何で泣いてんの? 失恋?」

 大して本気でもないのもあってかなり適当に訊くと、シンジは涙でいっぱいにした目を見開いた。図星かよ、と思っていると目尻にみるみる涙が盛り上がり、いよいよ下を向いて啜り泣きを始める。やっぱり厄介そうだと思い直して腰を浮かしたその時、隣でか細い声が漏れた。

「……付き合ってた、人が、……結婚……するって」

 そう呟くとまた声を殺して泣き始めたシンジの横で俺はうんざりする。あーあ、やっぱ面倒なやつだったじゃねえか。半ば後悔したがこれから他に声を掛けたところで、泣き出した奴を放っておくような男には誰も付いて来ないだろう。ここで投げては今夜の相手探しに響くと判断し、適当に話に付き合ってやることにする。

「へえ、浮気されてたんだ。ひでえの」

「ちが……浮気じゃない……」

「え? だっていきなり結婚するから別れろって言われたんだろ。二股掛けられてたんじゃねえの」

「そんなんじゃない……先輩だって、悩んで、どうしようもなくて」

「はあ? そんな振られ方したのに相手は悪くないとか、都合のいい男だったんだお前」

 多少投げやりな態度とはいえ一応慰めてやっている俺に対して、ぐじぐじ泣きながら未練たらたらに相手を庇って来るシンジに俺は苛つき、つい中々酷いことを言う。普段のナンパならこんなことは言わないが、どうせヤるつもりもない相手に掛けてやる優しさは俺にはない。

「振られたけど、そういうんじゃなくて……っ、なんにも知らないくせに……」

「そりゃそうだろ、今あったばっかの他人だし。名前も知らねえのにお前の事情なんか知るかよ」

 俺がそう言うと、シンジは俯いていた顔をパッと上げこちらを睨み付けた。この調子でキレて店から出るか、俺にどっか行けとでも言ってくれたらいい。内心そう思っていると、シンジは俺を睨みながら口を開いた。

「……シンジ」

「は?」

「だから、名前。そっちは」

「俺? ……ケンイチだけど」

「ふうん。おれ、大学の先輩と付き合ってたんだけどさ。その先輩二個上だからもう社会人なんだ。おれが一年の時から付き合ってたから、三年目だったんだけど」

 話ながら込み上げて来たらしく、シンジは少ししゃくり上げる。何いきなり語り出してんだこいつと思っている俺になどお構いなしに、中身のほとんど減っていなかったカクテルを一気に呷った。

「先輩、会社の飲み会で飲まされちゃって、その飲まされた上司に部屋に連れ込まれちゃって。……それで、子供出来たから、おれと別れて相手と結婚するって」

「へえ。よくある話っぽいけど、マジであるんだそういうの。お気の毒」

「他人事みたいに!」

「他人だろ」

「……先輩、飲まされて無理矢理襲われて、子供まで作らされて……全然悪くないのに、おれに謝って来たんだ。何度も何度も、土下座までしてさ。先輩だって辛かったのに、おれのことばっかでさ。……おれが卒業したら一緒に暮らそうって言うつもりで貯めてたお金、全部あげるって……何もしてあげられないから、せめて受け取ってって、言うんだ……っ」

 ぽつぽつ語っていたのが耐え切れなくなったのか、徐々に声が震え始め、最後にはとうとう本格的に号泣に変わった。嗚咽の合間に「先輩お酒弱いのに」だの「上司だからって無理矢理飲ませたんだ」だのわんわん大声で喚くので店中の注目を浴びている。

「バカ、お前声でけえっつーの」

「だってえ」

 また何か叫び出しそうな素振りを見せたので咄嗟に俺のグラスを口に持って行くと大人しく飲み始めた。その隙にマスターに金を払い、シンジを店から連れ出す。

「ちょっと、何で勝手にお店出ちゃったの!? 今日は飲まなきゃやってらんない気分だったのに!」

「あんな喚いてたらそのうち追い出されるっつーの。飲みたきゃ家で飲めよ」

 やっと面倒な奴と離れられる。じゃあなと背を向けると、背中を思いっ切り引っ張られた。振り返るとシンジがジャケットを握り締めている。

「あ? 何すんだよ」

「……一人じゃ嫌だ。だから店にいたのに……」

 あんたが追い出したから、と恨みがましく言われる。

「知るかよ。ダチでも呼べばいいだろ」

 振り解こうとすると体重を掛けて引っ張ってくる。ジャケットに危機感を覚える遠慮のなさに思わず怒鳴った。

「やめろ! さっきからなんなんだテメエ!」

「こんな話友達にできるかよ! 学校の先輩だぞ! みんな知ってるのに!」

 それもそうだと納得するが、だからといって俺が付き合う義理はない。

「俺には関係ねえ」

「無責任、そっちから話し掛けて来たくせに」

 自分のことばかりで他になんか気が回ってないだろうと思ったら、きちんときっかけは覚えていたらしい。

「下らねえ愚痴に付き合うつもりで誘ったんじゃねえよ」

「じゃあ何。何でおれに声掛けたんだよ、教えろよ」

 しつこく絡んでくるシンジもまさか身体目当てだったとは思うまい。シンジの方へ向き直して後頭部を掴む。キスする寸前まで顔を近付けると、ごくりと息を呑む音がした。

「俺がただ話し相手目的で声掛けたと思ってんのかよ。誘うってのはこういう意味だ」

 鈍そうなこいつに分からせるために、首筋に顔を埋めて舐め上げる。しかし舌を離して顔を見ると思ったより平然としていて、眉根を寄せる。

「お前、意味分かって、」

「分かってるよ」

 先程までと打って変わって落ち着いた調子でそう言うので、何故か俺の方が戸惑う。

「分かってるってお前、男にセックス誘われてんだぞ」

 敢えて露骨な単語をぶつけてやってもシンジは平気な顔で頷く。

「だから分かってるって。最初からナンパ目的なのバレバレだったし、おれ分かってて先輩の話したんだけど」

「それ、どういう意味だよ」

「失恋してますって言ったらチョロいって思ってくれるかなって」

「はあ!? さっきの嘘かよ」

「……嘘じゃない、ほんと。嘘に見えた?」

 見えなかった。アレが単にナンパ待ちに用意した演技だったらそれこそヤバいし、俺は今からでも逃げるだろう。

「……ね、今夜、おれ一人じゃ無理だよ。誰か一緒にいて欲しい」

「……俺はヤリ目だからヨシヨシ慰めてハイサヨナラにはなんねえよ」

 シンジの縋るような目は俺の軽い気持ちとどう見ても釣り合ってないし、それで後々トラブルになると困る。念の為忠告すると、シンジは呆気なく首を縦に振った。

「いいよそれで。セックスで慰めてくれれば。しばらく嫌なこと忘れられたらそれでいい」

「マジで言ってんのかよ。後で嫌だっつっても聞かねえよ。お前男とヤったことなんかねえだろ」

「え、あるよ、そりゃ」

「は? だってお前先輩と付き合ってたんだろ。バイか?」

 シンジがきょとんとこちらを見る。え、と呟いた後、得心が言ったように目を見開く。

「……さっき言ってなかったっけ。先輩、男の人だよ。おれゲイなんだ。女の子は全然無理」

 初耳だ。それを踏まえるとさっきの失恋話の印象が色々変わって来る。子供出来たって相手がかよ。飲ませたのは女上司ってことか。狙った男が靡かず痺れを切らした女に策を練られたということらしい。その女上司もまさか相手がゲイだとは思っていなかっただろうが。道理で、何で堕ろさねえんだろうと思っていたのだ。シンジっつう相手がいながら好きでもない男の子供産んでそいつと結婚までする意味が分からなかったが、そういうことなら合点が行く。どんなに頼み込んだって女が堕ろすわけがない。

「……そこまで言うなら、ま、相手してやってもいいけど」

「ありがとう」

 少し恥ずかしそうに笑ったシンジが俺の横に並ぶ。距離が近いので腕でも組むつもりかと警戒したが流石にそんなつもりはないらしく、携帯を取り出して近場のホテルを調べ始めた。

「どこがいいのかな。おれあんまり行ったことないんだよね、ホテル」

「彼氏と行かなかったのか」

「うん。学生だからお金なかったし、先輩卒業してからはほら、万が一人に見られたら困るから。先輩いい会社入ったから、迷惑掛けないように気を付けてたんだ」

「ふうん。女好みの小綺麗なのととにかく安いの、どっちがいい」

「え?」

「ホテル」

「ああ。ケンイチくん、そういうの詳しいんだ。じゃあさ、せっかくのラブホデビューだしきれいなとこがいいな、おれ」

「へえ、了解」

 俺がよく使うホテルということはつまりバーから近いってことで、歩いても十分と掛からない。部屋選びのタッチパネルにすらいちいち感嘆していたシンジは、部屋に入るなりあれこれ漁り始める。

「へえ、案外普通。もっとすごいの想像してた」

「すごいのってどんなだよ」

「照明がどピンクでさ、ベッドが動いたりするやつ。あとガラス張りのお風呂」

「いつの時代だよ」

 第一女好みと言っているのにそんないかにもギラついた部屋なわけがないだろう。この部屋も内装はごく普通のホテルとさして変わりない。違いと言ったら、部屋の広さの割に大きい天蓋付きのクイーンサイズのベッドだとか、ジャグジーバスくらいだろう。

「あ、ここにローションとか入ってるんだ。ゴムもある。種類多いね。ケンイチくん、どれがいい?」

「いらねえ」

「え? 自分の持ってるんだ、流石」

「何が流石だ。使わねえって言ってんだよ」

「え、使わないの? ヤリ目なのに?」

「ヤリ目だからだろ。こっちは気持ちよく出してえんだ。女でもないのに使う必要ないだろ」

「うわ、最低。すごい、おれとんでもないハズレ引いちゃったかも」

「は? ふざけんなよ」

「ごめんごめん、冗談。おれ酔ってるからさ。許してよ、ね? でも病気とか怖くない?」

「別に。お前そういうのなさそうだし」

「多分ね。ケンイチくんの方こそ大丈夫なの? ヤリチンなんでしょ」

「相手は選んでんだよ」

「その辺りはちゃんとしてるんだ。偉い。あ、シャワー浴びる?」

「ああ」

 酒のせいかやけに陽気なシンジを放ってバスルームに入る。店では泣いて喚いてうるさかったくせに今は上機嫌に室内を物色しているところを見ると、実は酒癖が悪いのだろうか。単に今日は特別不安定なだけなのかも知れないが、今夜が初対面のおれにそんなことは知る由もない。

 シャワーを浴びて部屋に戻った俺を、ベッドに腰掛けてテレビを見ていたシンジが出迎えた。流石に部屋を漁るのには飽きたらしい。

「ケンイチくん、いい身体してる」

「まあな」

「何かやってんの? それとも鍛えてる?」

「見栄えのために鍛えてるだけ。相手が勝手に興奮してくれるから楽だろ」

「確かに。おれもちょっとムラムラして来た。後でちょっと触らせて」

 シンジはそう言い残してバスルームに消えた。ザアザアと水が落ちる音の後しばらくして姿を現したシンジは、なぜかバスローブを着ている。

「何でそんなモン着てんだよ」

「ケンイチくんの身体見たら、自分の見せるのが恥ずかしくなって来た」

「バカじゃねえの。どうせ脱ぐだろうが」

「それはそうだけど」

 苦笑いしながらベッドに乗って来たシンジは、ややぎこちない動きでリモコンを取り、テレビを消した。部屋がしんと静かになる。

 押し倒すと、シンジは恥ずかしいのか目を逸らした。

「おれ、女の子じゃないし雰囲気とかそういうのいいから」

「あっそう」

「ただめちゃめちゃにやってよ。さっき言った通り。起きたら忘れちゃってるくらいで」

 そんなのは無理だ。俺はシンジの言葉には答えずバスローブを剥ぐ。予想通りのひょろい胴体がそこにあった。別に貧相ではないが、引き締まっているとは言えない。俺からしたらひょろいというだけで、まあ普通だ。

「どこ感じる? 胸は?」

 ムードも何もいらないなら、あちこち探ってもどかしく性感帯を探す必要もない。直接的に訊くと、シンジは首を振った。

「胸はあんまり」

「じゃあ他は」

「……首かな」

 さっき店の前で首を舐めた時はけっこう平気そうにしていた気がするが、言う通り耳の下辺りから責めてやる。

「……うなじの方……」

 舌を滑らせると、確かに擽ったそうに肩を捩った。徐々に感覚が掴めて来て、弱そうな所を探りながら下にも手を伸ばす。

「うわっ、あ」

 軽くモノを扱いただけで素っ頓狂な声を出すシンジを睨む。

「お前、ちょっと色気なさ過ぎ」

「……ご、ごめん。慣れなくて」

「は? 経験無しじゃねえんだろ」

「それはそうだけど。先輩以外の人とすんの初めてだからタイミングとか分かんなくて」

「へえ、一途」

 俺が笑うと、シンジは顔を歪め、腕で表情を隠した。別に悪意があったわけでもないけど、俺の言葉はシンジを傷付けたらしい。一途なんて、今のこいつにとっては何の意味も持たないし、むしろそのせいでより深く傷付いたのだから。泣かれると面倒なので、扱く手を複雑にする。

「あ、やだ、やめて」

「忘れてえんだろ。黙ってろ」

 拒んで来るシンジを無視して手の中で弄くってやれば、枕の中で抵抗していた声が徐々に意味を為さなくなる。結構限界が近そうなのはビクビク痙攣するモノの感じで分かっていて、じわじわ滲むカウパーで先っぽに当てた爪をグリグリと滑らせると、分かりやすく背中が反り返った。

「ぁっぁっ、ぁ、ぅぁ」

 枕に回した腕に力が入り、膝を立ててシーツにめり込ませた爪先ががガクガク震えた。

「っけ、ケン…ッイチくん……っ」

 掠れ声で俺の名前を絞り出し、その直後にシンジは盛大にイった。俺の手と自分の腹に精液をぶちまけたシンジは、身体に残った余韻が収まらず小刻みに荒い呼吸を繰り返し、息も絶え絶えといった有様だった。

「すげーイき方」

「…………」

 シンジが何か言おうとしているらしく耳を傾けると、乱れた息の合間に「引いた?」と囁いている。

「引いたっつうか、まあ」

 ごめん、とまた声がした。俺はひとまず次に移るのをやめ、手を拭きながらシンジが落ち着くのを待つ。

「ケンイチくん、やっぱ慣れてる、ね」

「そういう問題か? お前の感度だろ」

「そうかな、いつもはこんなんじゃないんだけど。……やっぱりケンイチくんのせい。テクニシャン」

「酒のせいじゃねえの」

「……そうかな。飲み過ぎてるからかな」

 火照った顔でそう言ったシンジはうつ伏せになり、息を整えながらくたりと枕の上に頭を乗せた。手コキ一回でこの調子じゃ本当に頭ん中全部真っ白に出来そうだなと内心考えながら、さっきシンジが嬉々として漁っていた引き出しからローションを取る。袋の端を裂き、切り口を直接アナルに絞り出した。

「うわ、つめた」

「そうだ、中洗って来たか」

「そりゃ、だって最後までヤるんでしょ」

 シンジの返事を聞き、尻の穴の縁に盛り上がったローションを指で掬って絡めてさっさと突っ込んだ。洗った時にある程度解れたのか中指はすんなりと入り、すぐに人差し指も馴染む。

「流石すぐ入んな。中緩かったら最悪」

「……分かんない、そんなの。ケンイチくんの問題」

 サイズのことを言っているらしい。ムカついたので多少乱暴に中をぐちゃりと掻き混ぜた。

「っ、…っ、ほんとのことじゃん」

「お前の締まりの問題だろうが。チンポばっか敏感でも俺には何の得もねえんだっつうの」

 先程のことを指摘された途端シンジが決まり悪そうに目を逸らす。相当恥ずかしかったらしい。しおらしくなったシンジの中をおざなりに解してやると、粘膜の刺激が快感に変わって来たのか、腰がもぞもぞと動き出す。

「ぃ、っぅ、……っ」

 喉の奥でくぐもった声を時折漏らしてはいるがまだ切羽詰まってはいないようで、気持ちよさそうに目を閉じて腰を揺らしている。中ではそこまで感じないのかと思いつつ慣らしていると、ふとシンジの腰が俺の指が同じ辺りに来るよう、一定の動きでくねっていることに気が付く。

 その辺に当たりを付けて思い切り擦り上げてやると、腰から下が面白いくらいに跳ねた。

「い、ぁ……っ」

「お前、弄って欲しいとこがあんなら言えば」

「は、……っぁ、頼んで、な、」

「腰振って擦り付けてたから察してやったんだろ」

「弱いから、直接触ったらだめ、で、…だから、いいとこにしてた、っのに」

「俺の指でオナってんじゃねよ。一人で楽しみたきゃ勝手にケツにバイブでも入れてろ」

「あ……ごめん、あの、怖くて。さっきもだけど、いつもはこんなになることないんだ。……今度はちゃんと言うから、手加減してくれる?」

「……ああ」

 不安そうなシンジに曖昧な返事を返す。指の動きを再開した瞬間、こちらを見上げていた目が思い切り見開かれた。俺はお構いなしにシンジの性感帯をゴリゴリと潰してやる。

「な、あっ! いあっ、……っひあ、っあ、っ、は、ぅああっ」

 激しく一点だけを責め立てる俺の手を止めようと伸びるシンジの腕を払い退け、なおも指の動きを続ける。指は三本どころか四本まで増えていた。予想外の展開に付いていけないシンジは腰どころか背中まで弓形にしならせて髪を振り乱し、シーツから浮き上がった尻をビクビク突き出す。

「ヒ、ぁッいぅあっ、ァ」

「すげえな」

 ひとしきり乱れてぐったりとへたり込んだシンジはぴくりとも動かない。中の締まり具合からして何度かイったんじゃないかと力の抜けた腰を持ち上げて見れば、半勃ちのチンポとシーツの間に糸が引いた。うつ伏せていたせいか陰毛まで精液まみれになっている。

「うわ、これ何回イったんだよ、お前」

 もしかすると気絶くらいしているんじゃないかと思ったが一応意識はあり、シンジはやや虚ろな表情をこちらに向けた。

「なんで……」

 掠れ声のシンジは、どうしていきなり責めたのかと問いたいらしい。

「お望み通りめちゃめちゃにしてやろうと思って。お前の心の準備が出来るの待ってたらそうもいかねえだろ」

「し、死ぬかと思った……」

「ケツが良過ぎて死ぬとか聞いたことねえよ」

 苦笑する。不意にシンジが俺の手に触れた。

「ケンイチくん、もう挿れていいよ」

「へえ、あんだけよがってたのにいいのか。ヘロヘロじゃん。ほんとに死ぬかもよ」

「からかうなってば。というかおれ、これ以上持ちそうにない。中すごい欲しくて。あとイきすぎて寝落ちちゃいそう」

「……言っとくけど、寝てもやめねえから」

「はは、挿れられたらおれも多分寝てらんない。ほら、こうやって呑気に話してないでしようよ、続き」

「へえ、また滅茶苦茶にされたいって?」

「うん、今度はケンイチくんも一緒にさ」

「お前まだイけんの?」

 言外に下半身を指して言うと、シンジは照れたように笑う。

「……多分? 出なくなったら初のドライでイっちゃうかも。でもおれのことは気にしなくていいよ。ケンイチくんの好きにしてさ。そうやってわけ分かんなくしてよ」

「……知らねえよ」

 指四本を銜え込んだ直後のアナルは口を開けてひくついていた。そこに俺のチンポの先を宛てがうと、待ちわびていたかのように粘膜が吸い付いて来る。しばらくそのこそばゆい感触を堪能し、入口の一番締まる辺りに首までを何度か埋めて押し広げた。ぐるりと襞を伸ばすように円を描いたり首を引っ掛けて焦らしたりと、もどかしい動きにシンジは声を押し殺して堪えている。

 一度中程まで押し入ると、待ち焦がれた刺激に思わずといった風で鼻から高い声が抜けた。すぐに引き抜くと名残惜しそうに締め付けて来る。

 また焦らすのだと思わせるようにぬちぬちと襞に食い込ませ、シンジがもどかしい快感を余すことなく味わおうと目蓋を閉じた瞬間を見計らい、一気に突っ込んだ。

「~~~~~っ」

 声を無くすシンジに遠慮無しにガツガツと打ち付ける。緩そうだなんだと言っておいて具合は想像以上だった。例の先輩としか経験がないと言っていたが、そいつの仕込みが上手かったのだろうか。下で組み敷かれるシンジは堪えるというより声も出ないと言った風で全身を強張らせ、シーツに皺を作っていた。

「あっ、あ、ん、……っ」

 ふと見ればシンジが腰をしならせ、シーツにチンポをぐりぐりとなすり付けている。精液とカウパーが糸を引いていた染みの上で更に濃い円が出来ていた。

「……っ、またイきそうか?」

「んっうあ、っかんな、イきたいけど中やば、そっちでばっか、感じる……っ」

「は、淫乱かよ……っ」

「ケンイ、チくん、のっ、せい……! ぅ、こんな、なるまでじらしてぇ、するからぁ……ッン」

 言いながら夢中で下半身をがくがくさせてシーツの摩擦の些細な刺激を得ようと藻掻くシンジは、壊れたみたいに嫌々と頭を振り乱した。

「も、ゃ、これじゃ出な、もっとぉ」

 ここまであられもない姿を晒してもまだ求め足りないのか。蕩けきったトロ顔で腰を揺らして強請ってくるシンジの玉ごと竿を鷲掴んで苛んでやりたかったが、俺もそんな余裕はなく、ひたすら腰を振りたいという衝動が止まらない。

「イきたきゃ中でイけ……っ。ここがいいんだろ……!」

「ぁい……っい、だめ、ダメぇ、っ……そこだめ…っ」

 背中から覆い被さってゴリゴリに奥まで突いて滅茶苦茶にする。夢中だった。シンジは俺のチンポで粘膜を掻き回される為に女みたいに尻を突き出し、股を開いて快楽に全身を痙攣させていた。今にも力が抜けて崩れ落ちそうな太腿の奥で、もう擦り付ける余裕も失くして放置されたガチガチのチンポが跳ねてビタンビタン腹を打っているのが見える。時折跳ね飛ぶカウパーには精液が混じっているのか白く濁っていた。

 不意にひっきりなしに収縮していた中が急激に締まって、俺のを思い切り締め付ける。

「ぁひっぁああんっ、あぁッイってるう、いまいって、中イキしてるう…っ、初めてっはじめてぇ、おれはじめてなかいきしてぇ……ッ、~~~ッ」

「言わなくてもッ、そんだけ締め付けてりゃ、分かんだよ……ッ」

 見ればシンジの奴は枕元に丸まったバスローブをぐしゃぐしゃにして快感をやり過ごそうと足掻いているが、力が籠もっている腕とは裏腹に腰から下は意志と関係なく痙攣していた。シンジの長い絶頂の間にこちらも限界が来る。

「……ッ」

 根元まで思い切り捻じ込み、強烈な射精感に視界が眩んだ。シンジの中もびくびくと蠢いているのが分かる。いつもより長く感じた射精が終わってみると、自分の息が僅かに乱れていた。長い余韻の後シンジを見下ろせば、半ば放心して四肢を投げ出している。

「おい」

 こんなに相性のいい体は久々だ。一度きりで終わるつもりは毛頭ない。しかし呼び掛けるとシンジは気だるげにこちらを見返すだけで、うとうとと微睡んでいる。

「チッ」

 自分だけ満足して終わりなんて自分勝手過ぎる。俺は問答無用でシンジの腰を鷲掴んだ。な、とかえ、とか驚いているシンジを余所に俺は自分のチンポを軽く扱き、突っ込む。

「……っ、ちょ、ケンイチくん……っ!?」

「飛んでもいいけど締めてろよ」

 しばらくガツガツ打ち付け、ふと気が付けばシンジは本当に意識を飛ばしていた。けれど中さえ使えれば俺には関係ない。気の済むまでヤり倒し、ようやく落ち着いたチンポを引き抜き、俺もベッドに倒れ込んだ。





 目が覚めると、間接照明に照らされた天井が目の前にあった。薄暗い部屋の中でヘッドボードに目を向けると、デジタル時計の緑の表示盤が三時を指していた。何時間寝ていたのかは分からないが全身が重い。上半身だけを起こし、ベッドサイドに据え付けられた冷蔵庫からペットボトルの水を出してキャップを捻る。冷えた水が喉によく沁みた。タバコが欲しくなったがジャケットのポケットの中だと思い出す。ジャケットは数メートル先の椅子の背に掛けたままだった。

「ケンイチくん、おはよう」

 横から腕に触れられる。横に寝転がったシンジがシーツの中から手を伸ばして来ていた。

「お陰ですっきりしちゃった。すごく上手かったね」

「途中で寝た癖によく言う」

 そう返すと掠れた笑い声が聞こえる。

「なあ、タバコ取ってくんねえ」

「ごめん。さっきから起き上がろうとしてるんだけど、腰が立たないんだ」

 仕方なく自分でタバコを取りに行き、ベッドで火を点ける。待ち望んだ煙の味が美味い。

 煙を燻らせていると、シンジがおもむろに口を開いた。

「おれさ、実は昨日死のうと思ってて」

 ぎょっとするようなことを言うので灰を落としそうになり慌てて灰皿を掴む。シーツの端から見えるのは髪の毛だけで、その表情は分からなかった。

「初めは一人でいたらどうにかなりそうと思って飲みに行ったんだけど、気付いたらマジで死にたくなっててさ、手首切るか首でも吊ろうかとか色々考えたんだ。それで、どっちでも帰りにドンキ寄ったら出来るなあ、酒と何かの薬一緒に飲めば苦しくないかもとか考えてた。

 そしたら知らない人が話し掛けて来てさ、何だよおれは今から死ぬんだよって思ってたら、あ、この人ナンパじゃんって気付いて。こんなとこで男にナンパとか意味分かんないと思ったけどどうせ死ぬからどうでもいいし、この変な人の性欲満たしてあげてから死ぬのも悪くないなー、なんて思ってさ」

「ヤった後死なれたら気味悪りい。言わねえで勝手にやれよ」

「ゆきずりとはいえ、おれの最後の男に何かしらの傷跡を残してやろうかなと」

「お前、マジでやめろよ」

 シーツを引っぺがす。すると、その中のシンジは笑っていた。

 俺の脚の付け根に頭を乗せて来て、腹にぐしゃりと髪が当たる。シンジの上目遣いが俺を見上げた。

「はは、冗談。ケンイチくんとセックスしたらもういいかなって思っちゃった。悲しいけど死ななくてもいいかなって。ケンイチくんのお陰でおれ死ななかったよ、ありがとう」

 シンジはにっこりと笑って見せたが、今夜のセックスのせいで目は真っ赤に腫れているし涙の跡は残っているしで酷い顔だった。しかし死ぬ気はないというのは本当らしく、表情は穏やかに緩んでいる。情けなく眉と目尻を下げたその顔が何だか見ていられなくて、俺は煙を吐き出して目を逸らした。

「さっきから思ってたんだけど、おれタバコだめなんだよね」

「……うるせえよ。不細工。すげえ弱そう」

「何それ。ひどいね」

 肌越しに固い喉仏の震えを感じて、シンジが笑ったのが分かった。喉が乾いたと言うシンジに俺の飲みかけの水を渡す。寝ながら飲んだせいで俺の股間に水が垂れてどつくと、シンジが今度は声を上げて笑った。





 ーーーーというのが俺とシンジの出会いだった。シンジはそれからも時々バーに来てはカウンターで一人で背を丸めて酒を飲み、俺は見掛けて気が向いた時は誘った。そんな関係がしばらく続き、俺がアパートを追い出されたのを切っ掛けに転がり込んで今に至る。

 ああ、そういやあの晩あいつを見て、「かわいそうな奴」とか思ったんだっけか、俺。

 自棄になって知らない男と一晩セックスした結果死ぬのやめたなんて馬鹿げてるし、しかもその相手が俺みたいな質の悪いのだとは気の毒だと思っていたのに、当のシンジはフニャフニャ笑っていたのだ。太腿に頭を乗っけて擦り寄って来る様子はまるで子犬か何かで、こいつ、俺みたいなのに縋らないと今頃死んでたんだなとか、そんなようなことを思ったんだと、思い出した。








 俺がアパートの物陰から姿を現すと、シンジは目を見開いて立ち止まった。しかしすぐに平静を装った態度でこちらを一瞥する。

「ああ、久しぶり。何か用?」

「電話もメールも無視だから直接来たんだよ。荷物くらい取りに来させろ」

 シンジは俺の脇をすり抜け、部屋の前でこちらを振り返った。

「荷物って何? 元々そんなに私物なんてなかったと思うけど」

「何でもいいだろ」

「取って来るから、教えて」

「いいから入れろよ。あんなんで納得行くと思ってんのか。……話くらいさせろ」

 俺が詰め寄ると、咄嗟に身を引いたシンジの背がドアに当たる。静まり返った通路に俺の声だけが響き、辺りの様子を伺うシンジが仕方なくといった様子でドアに鍵を差し込んだ。久々のシンジの部屋は、元々大して多くなかった荷物が幾らか片付けられている以外、特に変わりない。

「……それで、話って何」

 上着を片付けながら冷ややかな声で言うシンジから少し離れ、居間のドアの近くに立った。手持ち無沙汰で、タバコの入った胸ポケットを探ろうとしてやめる。

「何じゃねえだろ。いきなり別れるとか言い出して家も追い出しやがったくせに」

「……でも困らなかっただろ?」

「は?」

「おれがいなくても、おれの部屋に帰れなくても、ケンちゃんは全く困らなかったでしょってこと。見たところ元気そうだしさ」

「な……」

「分かってたけど、ケンちゃんにとってのおれってそうなんだよね。おれにとってケンちゃんは特別な人だったけど。……別に俺じゃなくたっていいんだっていうのは初めから分かってたことだし、それで良かったんだけどね」

 シンジは向き直り、暗い目を向けた。

「それでもあれは嫌だったんだ、おれ」

「あれ?」

「……何人浮気しようとケンちゃんにとっては俺も含めて全員同じ、ただの都合がいいだけのセフレみたいなもんだって思ってたからさ。その中におれより特別扱いがいるのが嫌だったんだよ。だからユージくんのこと聞いたとき許せなくってさ」

 目を伏せて自虐らしい笑みを小さく浮かべるシンジを前に、俺は言葉を失う。シンジが俺に対して真情を吐露するのは初めてと言って良かった。

 思わずシンジの方へ手を伸ばしかけたその時、シンジのケータイが鳴った。テーブルの上へ視線を向けたシンジの顔色が変わるのを見逃さなかったが、画面に出ている名前を見ようとしたところで画面が暗転する。

「誰だよ」

 問い掛けに目を逸らしたシンジの表情に嫌な予感がして、身を乗り出して手首を掴む。

「痛い」

 シンジが眉を顰めた。

「誰だって聞いてんだよ」

「誰だっていいだろ。……ケンちゃんには関係ない」

「いいから答えろっつってんだよ!」

 声を荒らげた俺の剣幕にシンジが怯む。

「…………」

「……シンジ」

「……先輩」

 掠れた声で呟かれた名前に、俺は目を見張る。その《先輩》が指すのが誰なのかはすぐに分かって、手首を握り締める力がふっと緩んだ。

「……そういうことかよ」

「え?」

「急に別れたいって言い出したから変だとは思ったが、色々言っといて結局、昔捨てられた男とヨリ戻すのに俺が邪魔だったってことか」

「何それ。誤解しないでよ。おれとケンちゃんの浮気とは違う。一緒にしないで」

「何が違うんだよ」

「会ったのは一回だけだし、ただ話しただけ。もちろん何もしてない。ただ、……」

 口ごもり逡巡する素振りを見せたシンジだが、やがて口を開く。

「先輩が……おれとやり直したいって」

「……は、やり直すって、そいつ結婚したんだろ」

「離婚決まったんだってさ。先輩。……先輩はおれのことずっと忘れられなかったって言ってた。色々あって奥さんと別れることになって、一番に浮かんだのが俺だったって。『あんな別れ方をしておいてどの面下げてって自分でも思うけど、もし今おれに相手がいないならまたやり直してくれないか』ってさ」

「ほんとにどの面下げてだな」

「ケンちゃんに言われたくないね。クズのくせに」

 《先輩》を貶したせいか、シンジが俺を詰る。あの時もそうだった。こいつと初めてホテルに転がり込んだ夜も、あいつは先輩を悪く言った俺にキレた。何でこいつは自分を不幸にした男に甘いんだろう。俺にはこの態度なのに。どんどん頑なになって行くシンジの態度に、俺は溜息を吐いた。

「で、どうすんだよ」

「何が?」

「お前が別れたいって言ってる理由は分かったよ。で? 捨てられて弱ってたお前に付け込んだクズの俺から、お前を捨てたクズのトコに戻んのか?」

「そういう言い方やめろよ。おれがケンちゃんと別れたのは先輩とヨリを戻したいからじゃない。そりゃおれのこと大事にしてくれる人の方がいいに決まってるけど、おれにはそれだけが全てじゃなかったのに。おれにとってのケンちゃんはもっと違う人だったんだよ。先輩とはもっと違うふうに特別だったんだ。もう、ケンちゃんが今まで通りでいてくれてたらこんなことにはならなかったのに、どうしてユージくんと生でしたりしたのさ。どうしてあの人はそういうことをおれの前で言っちゃうんだよ。浮気すんならもっとうまくやれよ」

 感情的に吐き出したシンジの目に涙が盛り上がっていた。服の袖で雑に目元を拭うことで涙を隠したシンジが、何を言いたいのか俺には理解できない。俺に分からないということはきっとそれは真っ当な意見で、悪いのは俺なのだろうが。考えても分かりやしない。本当に面倒臭い。

 この俺がこんな面倒なことをしてまで一体どうしてシンジと別れたくないと思うのか、それを明確な言葉にするのは難しい。過去の記憶をほじくり返してようやく曖昧ながら答えが分かった程度なのは、俺のこれまでの他者との付き合い方のせいに他ならない。目先の欲を発散するだけには、細かいことなんか覚えたり執着しなくても事足りたのだ。シンジみたいなやつは後にも先にもシンジだけだ。もしかすると他にもいたのかも知れないが、俺自身にこんなしみったれたことをさせようとするのはシンジだけだ。それなのにここまで来ておいてらしくないことをしたくないとプライドが邪魔をする。

 今日の俺は本当にらしくない。らしくない動きで早鐘を打つジャケットの中の心臓をシカトして、俺はポケットのーーータバコが入ってる方じゃない、下の右ポケットだーーー中に手を突っ込んだ。乾燥した指の先が引っ掛かる不快な感覚のする箱を引っ掴み、その動きを緩慢に見ているシンジの目に入らないように手の平で覆って投げる。突然物を投げ付けられたシンジはびくりと身を引いて、自分の腹に当たって落ちた四角い箱に目を落とした。

「え、何これ」

 俺が答えないのでシンジは仕方なく箱を拾い上げ、グレーのベルベット地に指を滑らせる。しばらく弄び、怪訝そうに眉根を寄せて箱を開けた。

「うわ」

 シンジはぎょっとした声を上げて目を疑っている。

「……何、これ。どういうこと」

「俺が何言ったってもうお前は聞かないだろ。こっちのがいいだろ。分かりやすくて」

「いいって、何が」

「いいから……よく見ろ」

 指先がこわごわとクッションに収まったシルバーの指輪を摘む。飾りも何もない、ただのプラチナで出来た輪っかに小さい石が嵌まっただけの男物の指輪だった。

「ケンちゃん、こんなの買うお金どうしたの? まさかユージくんに借りた? もしかしてユージくんからのプレゼント横流ししたわけじゃないよ……ね」

 固い声で軽口を言っていたシンジの指輪を弄んでいた手が止まる。シンジの目は指輪の裏側に注がれていた。そこには俺の名前が刻まれている。シンジがはっと俺の左手を見た。その薬指には全く同じ形の指輪が嵌まっている。裏側に刻まれているのは当然、シンジの名前だった。

「……ほんとに、何これ。どういう意味」

「分かったろ。横流しでも、借りた金で買ったもんでもねえよ」

「知らない……こんなのもらったって、意味分かんない」

「……お前をあいつに渡すつもりはねえんだよ」

「そんなのケンちゃんが決めることじゃない。それにどうしてこんなことするのかも分かんない。ケンちゃんにとってのおれって何なの? ここまでしても別れたくないってことかよ」

「ああ、そうだ」

 シンジが戸惑う理由も尤もだ。少し前まで俺にとってシンジは特別でも何でもない、セフレの中で一番都合のいい奴に過ぎなかった。どうしてユージやその他とシンジが別物なのか、惰性で始まった関係がだらだらと続くうちに俺自身ですら忘れていたのだから。

「確かに俺はユージとか他の奴相手にはゴム無しでやったよ。つーか元々生派だったし、お前以外の奴とは全員生でやってた。お前とも初めて寝た時は確かそうだった気がする」

「そうだよ。それなのに次セックスした時から何でだか急にゴムないとしなくなったんだよね」

「お前が前の男と別れる原因になったのがそれだったから、俺はそうしてた。……っつーのをこないだ思い出した」

「は……?」

 シンジが一瞬呆気に取られる。

「先輩がデキ婚したからっておれに気を遣ってゴム使うようにしたってこと? ちょっと意味が分かんないんだけど。おれ男じゃん。子供なんかできないし。しかも初めは生だったわけじゃん」

「その時はまだお前のことなんかどうでも良かったんだよ。絡まれて面倒だったし、一回ヤってそれきりにしとくつもりだった」

「じゃあなんでいきなり次から生やめたわけ」

「いちいち訊くんじゃねえよ」

「訊かなきゃ分かんないじゃん」

「分かれよ」

「無理」

「チッ……、一回目から二回目までの間にあったんだろ、なんかが」

「はあ? なんかって何だよ」

「……ほんとに分かれ。言わせんじゃねえよ。お前がどうでも良くなくなったってことだろ」

 一拍間を空けて意味を理解したらしく、シンジの顔がさっと赤くなる。

「え、なに、いきなり。今になってそんなこと言うとか、やだ。それっぽいことなんか一回も言ったことなかったじゃん。ケンちゃん、どうしちゃったの。こんなこと言うような人じゃなかったのに」

「忘れてたんだよ」

「ば、ばっかじゃない」

「本当にな」

 どぎまぎするシンジが面白くて笑う。俺はシンジの手に転がされていたままの指輪を取り上げた。

「ここまで言わせといてまだあの男にするのか?」

 躊躇うように視線を彷徨わせたシンジに苛ついて手が出る。突然肩の辺りを鷲掴みにされたシンジの身体が緊張し、強張った。

「でも、だからってケンちゃんがいきなり変わるわけ? 急にセフレみんな切っておれだけになるなんてあり得ないでしょ?」

「ああ、そうだよ。俺は多分これからも変わんねえよ。今だけ軽々しく口先でいいことばっか言ってやったっていいけど、それでお前が納得したって意味がねえ。後でまた同じことの繰り返しだろ。俺はクズのまんまだろうけど、お前のことは特別にしておいてやるって言ってんだ。次は忘れねえようにこうやって形にしておいてやるって言ってんだよ」

「……あのさ、今っておれに捨てないでって言いたいんだよね? 頼むから先輩のとこに行かないでって、おれに縋り付いて来てる感じなんだよね?」

「……そうだよ。悪かったな、分かりにくくて」

「ほんとだよ」

 シンジが小さく笑う。

「ケンちゃんがこんな情けなく見えるの初めてかも。新鮮」

「そういうことは言うんじゃねえよ」

「はは、やっぱり? ごめん」

 シンジは俺の手の中の指輪を取って嵌めた。それが何の躊躇いもなく左手の薬指だったので、俺の方が動揺する。

「何でそんな顔なの。もっと喜べば。これってこういう意味でいいんでしょ? おれに先輩諦めさせるって言うんだから、ケンちゃんだってちゃんと覚悟しなよ」

「諦めるって」

「そうだよ。おれはもうケンちゃんのものになることにした。あのケンちゃんがここまでするんだって思ったら、ま、なってあげてもいいかなってさ」

「……んな簡単に割り切れるもんなのかよ、お前の先輩って」

「そんなわけないじゃん。何年も掛けてやっと吹っ切ったんだよ。先輩が連絡してきた時、今のおれにはケンちゃんだけだからって思ってた。その時にユージくんが来てちょっと不安になったけど。おれにはケンちゃんだけなのにケンちゃんが他に行っちゃったらどうしようって。ユージくん年上だけどかっこよかったし、あとケンちゃんを甘やかすのがうまそう」

 シンジは指輪を見て、でももう心配いらないね、と呟く。

「これがあるから。あ、他の人にも指輪とかあげないでよ。同じやつ作ってお揃い~とか」

「作るかよ、バカ」

 そんな質の悪い結婚詐欺みたいなことはやらない。俺は元々割り切ってやれる都合のいい奴が好みだったのだから、関係を続けるために自分からしがらみを作るなんて、後々面倒になりそうなことは絶対しないのだ。今の俺は本当にらしくないことをしているだけで。

「それでケンちゃん、ひとつお願いがあるんだけど」

「なんだよ」

「好きって言ってみて」

「は?」

「だってケンちゃん言ったことなかったと思うんだけど。今まではまあ、ケンちゃんにとっておれは都合のいいセフレ何号だったからそういう言葉がなくても良かったけど、今は違うんでしょ。だったらそういうの口に出してよ、これの分だけ」

 そう言ってシンジは左手に目線を落とす。シンジが調子に乗っているのは分かっていたが、俺の方もここでシンジの要求を突っぱねられない。

「お前めんどくさい女みたいだな」

「知ってたろ、おれはめんどくさいよ。初めて会った時からそうだったと思わない?」

「……そうだったな」

「愛してるじゃないだけマシだと思ってよ。ケンちゃんがこれをくれたのは自分が忘れないようにでしょ。おれは初めから忘れてなかったけど、不安になっちゃったから。おれの言いたいこと分かってくれる?」

「不安にさせるなってことだろ」

 明確な言葉で形にして安心させろと言うのだろう。今日のシンジは本当に面倒で、たまに当たるハズレの女みたいだった。こっちにはそんなつもりは微塵もないのに勝手に期待する。そういうのがこのアパートを突き止めてシンジに詰め寄っていたんだろう。俺が何も言わないからシンジに言わせようとして、たまたまユージがそれに成功したのだ。そして次はない。

「…………」

 今日は本当にらしくないことばかりさせられる。期待の浮かぶシンジの顔を見ていられなくて、俺は癖で胸ポケットを探った。箱の角に指に嵌めた硬い物が当たって、俺はタバコを吸うのをやめた。







「それで、結局あいつ言ったの、好きって」

「ふふ、秘密」

「やだねー! 惚気てんなあ! シンジくんあいつと付き合って何年目さ、今更色ボケとか勘弁してよ」

「ごめんなさい」

 そう言ったシンジが尚も頬を緩ませているのを見て、セリグチはやれやれと息を吐く。珍しくシンジが店に来ていると思ったらやけに上機嫌なので飲ませて聞き出そうとしたはいいが、これは始末に負えない。彼の予想通りケンイチ絡みではあったのだがその話に出て来る男があのケンイチとは俄に信じ難く、しかしシンジの薬指に光るプラチナのリングには紛れもなくケンイチの名前が彫られているのだ。

 道理で少し前にここでケンイチ本人と顔を合わせた際にその後どうなったのかを訊ねても無視されたわけである。ケンイチがそこまでして誰か一人をものにしたがるなんて、天変地異の前触れになりかねない。そういえば最近はここに顔を出す頻度も減ったなと気が付き、セリグチは更なるむず痒さに襲われた。

「あ、もうこんな時間かあ」

 カウンターにしなだれ掛かっているシンジが携帯を出して呟き、もぞもぞと身を捩って財布を取り出した。

「あ、待ちなってシンジくん、ちゃんと立てる?」

 セリグチが散々飲ませたせいで、シンジの足下が若干覚束ない。それでもシンジは立ち上がろうと腰を浮かせたのだが、セリグチが止めに入る。

「危ないって。タクシー呼ぶ?」

「どうしよ……ケンちゃん呼んでみようかなあ」

「え、あいつ? 迎えに来んの?」

 セリグチは耳を疑う。彼の知るケンイチという奴は酔い潰れた人間を迎えに来たりなんか絶対にしない。少し前まではシンジだってそう思っていたはずなのに、シンジはとろけた目で画面を操作している。

「あ、もしもし、ケンちゃん? えー、だって文字うまく打てなくってさあ。うん、そう。いつものお店。……ありがと。待ってるね」

 彼の知る二人の間では有り得ない会話がシンジの酔ってふやけた声で交わされたのを、セリグチは背筋の凍る思いで聞いていた。

「ケンちゃん、ちょうど仕事帰りで駅だから拾ってくれるって」

「マジで」

 その言葉通り、十五分もしないうちにケンイチが店のドアを押し開けた。真っ直ぐに二人の方へやって来ると、半分目を閉じて酔い潰れているシンジを一瞥してセリグチを睨む。シンジの肩を揺さぶるその手にリングを見付け、思わずセリグチの顔が引き攣った。

「……おい、寝てんな。起きろ」

「あ、ケンちゃん」

「文字打てないほど飲んでんじゃねえっての」

「ごめん」

 ケンイチはシンジが握り締めていた財布から金を抜き取ってカウンターに置き、空いたグラスで重石をした。半ば引きずっているとはいえ酔っ払いを立たせてやっているケンイチの姿に目を疑うセリグチの脚が思い切り蹴飛ばされる。

「いって!」

「自業自得だろ」

 普段羽目を外さないシンジに酒を勧めたのがセリグチだと、ケンイチは見抜いているのだった。痛がるセリグチには目もくれず、ケンイチはシンジを引きずって店を出て行く。後に残されたセリグチは信じられないと言った風に首を振り、残った酒を呷るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

指輪の似合わない恋人 犀川ゆう子 @poltmine

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ