思考停止
恋人から恐ろしい告白を受けた翌日も、わたしはいつも通り会社へ行った。
どんなにジャンキーな嗜好品や娯楽よりも人間が抜け出せないもの、それは習慣というものだと思う。
JRに1駅だけ乗り、バスに乗り換える前にコンビニに立ち寄り、リプトンのミルクティーを買う。
バスは駅前の混雑を抜け、工業団地へ入ってゆく。
バス停の名前にもなっている勤め先の工場の名前がアナウンスされ、「とまります」ボタンを押す。バスが停まり、運転士さんに通勤定期を見せながら降車する。
タイムカードリーダーの後ろの壁にお昼の仕出し弁当の希望チェックリストがあり、備え付けのボールペン(インクがかなりかすれている)で自分の名前の欄に◯を付けてから、エレベーターで3階のオフィスに上がる。
工場の朝は早い。
8時20分、それでもまだ人の少ない暗いオフィスでミルクティーを啜るのが、わたしの習慣だ。
だけどやっぱり、この朝は何を見ても何をしても、どこか他人事のようだった。
ストローをくわえながらパソコンを起動しても、メモに走り書きしてある昨日やり残したタスク一覧に目を通しても、「
誰か、他人の日常を代行しているような感覚。
和佐も普段と変わりなく出勤していったはずだ。
早朝、いつものように先に起きたわたしが寝室の隅にあるドレッサーに向かって化粧をしていると、スマートフォンのアラームが鳴り、和佐がむっくり起き上がった。
鏡の中で数秒、目が合った。
おはよう。いつものトーンを意識して言ってみると、和佐もわたしの背中――あるいは鏡の中のわたしの顔――に向かって短く「おはよう」と言い、そそくさと洗面所へ向かった。
先に家を出るわたしが「行ってきます」と声をかけると、朝食の納豆ごはんを口に運ぶ手を止め、困ったような傷ついたような笑みを浮かべて「気をつけてね」と返事をした。
まるで、あんな理不尽なことを言われたのが自分であるかのように。
理不尽なこと。そう、とても理不尽なことのはずなのだ。けれど、涙は出ない。
悲しいと感じるのは、その残酷な言葉が事実であると認めた結果だ。
悲しいのか、腹立たしいのか、いやきっとその両方でありそれ以上なのだろうけれど、わたしの心は昨日の和佐の言葉の意味を咀嚼することを拒んでいた。だから、涙も出なければ怒りが湧くこともない。
ただ、胃のあたりの鈍い違和感だけはどうにも消えなかった。
和佐とわたしは、丸9年の付き合いになる。一緒に暮らし始めてからは4年だ。
同棲を始めるにあたって、わたしの実家で和佐はきちんとわたしの両親に頭を下げてくれた。「由麻さんと、結婚を前提に一緒に暮らしたいと思っているのですが、お許しいただけないでしょうか」と、語尾まではっきり発音して。
あのとき盗み見た和佐の真剣な横顔と、手土産にふたりで選んだフィナンシェのアソートセット、一緒に手をついた和室の畳の感触までをも思い出して、わたしの胸はちりりと痛んだ。
そうだ。わたしと和佐は、恋人であるだけでなく、同居人であり婚約者なのだ。それが何をどうすれば、「もうひとり、彼女ができたんだ」になるのだろうか。
昨日、結局あのソルダムの実たちは、ひとつも和佐の口に入ることはなかった。
詳細も訊かずに「いいよ」と応えたわたしに対し、和佐はしばし困惑の表情を浮かべて硬直していた。
わたしが取り乱すことを、予想していたのだろうか。
ソルダムの皮を剥き終え、つやつやと輝く赤い実をガラスの器に入れて和佐の座る食卓へ運ぶと、和佐は突然、わたしにというより目の前の赤い果実に向かって
由麻と別れたいわけじゃない。けっして、そうじゃないんだ。
ただ、もうひとり、どうしても付き合いたい人がいる。中途半端にできない。ちゃんと恋人として扱いたい。
キスもセックスもしないし、外泊もしない。
でも、週に何度かは逢わせてほしい。できれば週末とかも。
自分の心の動きを見守りたいんだ。
話すだけ話して、それでもわたしが無反応と見てとると、ふらふらと立ち上がって自室へ引き上げていった。
思考停止したまま、わたしは彼が座っていた席に腰を下ろし、8個の果実をひとりで黙々と胃に収めていった。
一生分のソルダムを食べた、と思った。
不意にオフィスの照明が付けられ、視界が明るくなる。正社員の誰かが出勤してきたのだ。
足元のくず入れを引き寄せて飲み終えたリプトンの紙パックを捨て、今日の業務に取りかかる。
ぼんやりしすぎていつのまにか再びパスワード入力画面になってしまったパソコンに、和佐のイニシャルと誕生日を組み合わせた文字列をよどみなく打ち込んでゆく。
やっぱり、どこか他人事のように。
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