炭酸水と犬

砂村かいり

プロローグ

 もうひとり、彼女ができたんだ。


 和佐かずさがその恐ろしい言葉を口にしたとき、わたしはキッチンに立ってソルダムの皮を剥いていた。


 オリーブグリーンの表皮をめくると、ルビーのように真っ赤な実が現れる。

 酸っぱいものが好きな和佐のためにたっぷり20分近くかけて剥いていた籠盛りのソルダムの実の、最後の1個に取りかかるところだった。


 心臓か肺の辺りに物理的な違和感を覚えた。小さな鉛の弾が音もなく打ち込まれたような、鈍い痛み。

 意味は、その後で降ってきた。

 呆然と和佐に視線を向けると、わたしの恋人、であるはずの人は食卓で顔を覆っていた。

「ごめん由麻ゆま。 ……ごめん」

 そのまま食卓にうつ伏せてしまった。

 いつかの誕生日にわたしがプレゼントした、色褪せたラガーシャツの肩が細かく震えている。


「いいよ」

 和佐を見つめながら、そんな言葉がわたしの口からするりと出てきた。

 謝らなくていいよ。彼女が増えたっていいよ。どうでもいいよ。

 そんなことより、ソルダムを剥いてしまわなくちゃ。

 和佐が顔を上げた気配がしたけれど、わたしはそれ以上言葉を継がずに果実に爪を立てた。

 完全に思考停止に陥っていた。

 キッチンの窓から西日が差して手元を眩しく照らし、こんなときなのにわたしは世界を美しいと思った。

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