第十六話 不思議の国の俺 2
気が付くと、再び真っ白な世界にいた。淡い光を発しているように辺りは光に包まれているが、その光はすぐ目の前から発せられているのか、はるか彼方から届いているのかはわからない。
俺はこの場所をよく知っている。のえると精神が入れ替わってしまってから、時々陥ってしまう状況だからだ。ひょっとすると、まだ完全に定着していない精神が、一時的に身体から切り離されるために見える光景なのかもしれない。
脳とも切り離されているために、記憶の中にある映像を見ることもできない。唯一見える自分の身体も映像として見えているのか概念として存在しているだけなのか区別がつかない。だから、今俺の目に見える両手は『自分の手』であり、のえるの手でもあり佐々木 雄一の手でもあった。
その手を見つめていると、ゆっくりと伸びていって人の形に変化する。正確に言えば時間の経過に従って変化したのではなく、気がつくとそうなっていたという感じ。その人の形は美しい少女の姿になっていた。
……のえるだ。
「雄一くん。元気そうだね」
自我の中ののえるが俺に語り始める。
「あたしね、雄一くんに伝えなきゃいけないことがあるの……」
彼女が話してる途中だったのに、カーテンから差し混む眩しい平和がまぶたを優しく焼いていく。
目が覚めたのは古い和室だった。木目が印刷された天井からぶら下がる丸い蛍光灯には、竹と和紙を模した安っぽい樹脂製のシェードがついていた。
部屋の壁には何枚ものオートバイのポスターが貼られ、本棚にはバイク雑誌が並んでいる。
そう言えば純次はバイクが好きだった。
ここは俺達兄弟の部屋だ。男兄弟だったし家はさほど裕福とは言えなかったから、俺が物心ついた頃から十年以上弟と同じ部屋で寝起きしてきた。六畳間には勉強机が二つとデカイ本棚が一つ。そこに布団を二つ敷いてしまうとそれで部屋はいっぱいになってしまう。
俺は今、その布団の一つに横になっていた。洗いたてのシーツの匂いがする。
そして、俺の隣には大柄の男がイビキをかいて眠っていた。
弟の純次だ。
デカイ裸の背中が地を這うように響く轟音に合わせて上下する。おそらくパンツ一枚の姿なのだろうけど、掛け布団が腰のあたりに丸まっているために全裸で寝ているようにも見えてしまう。
横たわる純次の背中はまるでブロンズの彫刻のように見えた。
浅黒くて筋肉質の背中を真っ白で細い指が這っていく。力強い男の身体を愛おしそうに優しく撫でていく女の指先が見える。肩を滑らかに滑っていく指が肩甲骨をなぞって背骨の辺りに近づく。まるで手のひら全体で肌の滑らかさを確認するように。
その圧倒的なまでにエロチックな光景に俺は心を奪われていた。
これはのえるの指だ。彼女の美しい指先がゆっくりと動いていく。そう言えばさっきまで彼女の夢を見ていたのだ。俺は彼女から大事な話を聞かされた。だけど、夢の記憶は霧散してしまってもう思い出すことはできなかった。
美しい彫刻がふいに動き出す。首を回して俺を見る純次は、なぜか目を見開いていた。
「なに……してんの?」
え?
純次の背中を撫でていたのが自分の手だったことに、言われて初めて気がついた。俺はいったい何をしていたのだろうか。
「いや……あの、その……でっかい背中だなぁって……だから、ちょっとだけ……、えーと……」
ごまかす理由も思い浮かばないが、正直に言おうにも自分でもどうしてやったのかわからない。でも、考えてみれば兄が弟の背中に触るのに、いちいち理由なんているものか。
「……触りたかったから?」
疑問形で答えながら微笑む。女の微笑みは事態を収集する特効薬なのだ。純次は眉をへの字にして口角を吊り上げた微妙な表情をした。
昨夜、のえるの
俺は純次から聞いた話で眩暈を起こし、彼に連れられて佐々木家に泊めてもらうことになったのだ。夜中に物音で起きてきた両親に事情を説明するのは厄介だったが、純次が適当な物語をデッチあげて見事説得に成功した。
古くて狭いマンションのせいか、兄弟の部屋と両親の部屋は障子で仕切られているだけの簡素な造りだ。万が一、寝ている間に純次が襲いかかってきたとしても、すぐに両親が起きてしまうだろう。
おかげでぐっすりと眠ることができた。ここは俺と純次が育った部屋。今の俺にとって安らぐことのできる唯一の場所だった。
「あたしも子供の頃、何度も家出したものよ。お婆ちゃんが厳しい人でねぇ。夏休み初日に頭を金髪にして帰ったら大喧嘩よ。染め直してくるまで家に入れないって言うもんだから、真っ黒に染めてから、今度はドレッドヘアにしてやったわ。そしたら家を追い出されちゃった」
「まったく! やめてくれよぉ」
母親の武勇伝に純次が辟易して抗議する。俺だって母さんの若い頃の話は聞いたことがない。この母にそんな子ども時代があったなんて。
「落ち着いたらちゃんと家に連絡しておくのよ。どんなに喧嘩したって母親は子供を心配してるものだからね」
テーブルについた俺と純次の前に目玉焼きとソーセージが乗った皿を並べながら母さんが言う。
『母さん。俺だよ。雄一だよ』
言いたい言葉を努力して飲み込む。
三人で朝食をとる横で、テレビのニュースが流れていた。トンネル内で起こった玉突き事故。有名な企業で起きた高額な横領事件。海外で起こった大規模テロ事件。しかし、代議士の息子の水死事件もなければ、民家の風呂場で頭の割られた屍体が発見されてもいない。
まだ見つかっていないのだろうか。それとも、報道規制されているのか。こんな平和な朝を迎えていると、どちらの出来事もまるで夢かまぼろしだったみたいに思えてしまう。本庄は本当に死んだのだろうか? 奴の仲間はどうなったのだろう。そして……痴漢野郎は無事なのだろうか。朝食の前に、以前かけた番号に電話をかけてみたけど繋がらなかった。
あの時、逃げ出さずに引き返していれば……救急車だって呼べたし、最低でも安否の確認はできたはずだった。どうして俺はあの時、彼の言うことを聞いて逃げてきてしまったんだろうか。
考えるまでもない。彼のプライドを守るために従ったのだ。女ならそうするべきだと判断したから。彼があまりに俺のことを女扱いするものだから、きっと勘違いしてしまってたんだろう。本物の女でもないくせに……。
そう思うと目頭が急に熱くなってくる。
涙が溢れてくると今度は、泣けば済むと思い込んでいる馬鹿な女に自分がなってしまったみたいで惨めだった。
「……うぅ……」
堪えきれず小さな嗚咽が漏れてしまう。母さんが俺の頭を優しく抱きしめてくれた。柔らかくて暖かい手が頭を撫でる。俺は堪らなくなって大声をあげて泣いた。母さんの手の温もりが気持ち良くて、ずっとこうしていたかった。
◇◇◇
ヘルメットのシールドの向こうで景色がものすごいスピードで流れていく。
俺は純次のバイクのタンデムシートにまたがって、彼の背中にしがみついていた。
体が剥き出しのまま、こんなに速く走る乗り物なんて生まれて初めてだった。振り落とされてしまうのが恐くて、純次の腰に両腕を回して力一杯しがみつく。彼の背中に胸を押し当ててしまうけれど、何も言わないところをみるとこのサイズでは当たっていてもわからないのだろう。
高級住宅街の樹々の間にのえるの家が見えてくる。ひょっとしたら警察に囲まれているかもしれない。なにかおかしいところがあったら何食わぬ顔で通り過ぎるように純次には頼んである。しかし、立花家はいつもと同様に静まり返っていた。
自宅に戻るのは恐かった。
のえるの父親に制裁を加えたことは今でも正しかったと思っている。娘を愛する優しい父親の仮面の下に、家庭という密室の中で性的虐待を繰り返すケダモノの素顔を隠していた男。
愛するのえるがいったいいつからそんな目に遭っていたのかと考えると、激しい怒りで身体が震えてくる。そして再び、彼女が力づくで蹂躙されていく記憶がフラッシュバックする。
俺の魂が宿ったこの身体があの男に陵辱されていた。形容しがたい嫌悪感に襲われて全身が総毛立つ。
それは、一言で言えば恐怖だ。
自宅の様子を見に行こうと思いついたのも、その恐怖の対象がどうなったのか確認しておきたかったからかもしれない。
数十メートルほど通り過ぎてからバイクを停めてもらい、歩いて自宅の前に戻る。ドアに鍵は掛かっていなかった。俺は出掛けに鍵を閉めただろうか? 覚えていない。
玄関に入って耳を澄ますが物音一つ聞こえない。廊下を進んで突き当たりの磨りガラスのドアを見る。ガラスの向こうの脱衣所はうす暗くて中の様子はわからない。廊下はまるで何か目に見えない密度の濃い物質で満たされたようになっていて、浴室に近づこうとする俺を拒絶する。それでも扉を開けて確かめなくてはならない。
萎縮する脚を無理矢理動かして脱衣所のドアに手を伸ばす。俺の心臓はこれ以上ない程の鼓動を刻み、視界がどんどん狭くななって今にも失神しそうだった。どうしてこのドアを開けなくてはならないのか、もうわからなくなってくる。
それでも苦労してドアノブを回す。
脱衣所の向こうのドアは開け放たれていた。そこで俺は見た。
今まで感じていたものとは完全に異質な恐怖に支配されて、俺は指一本動かすことができなくなってしまった。
浴室には何もなかった。
父親の屍体も、出血の跡さえも。
肩を揺すられて気がついた。
ゆっくりと顔をあげると、純次が俺を覗き込んでいる。彼の顔は酷く歪んで悲しそうに見えた。
「遅かったから様子を見にきたんだ。でも、いったいどうしたの? 何があった?!」
俺は彼の質問に答えられない。文字通り、そこには何もなかったからだ。
寒いはずもないのに身体が勝手に震え続けて抑えることができない。カチカチと鳴る小さな音が自分の歯がぶつかる音だと気づくのにしばらくかかった。
弟に格好悪い姿を見せるのは抵抗があった。でも、今の俺は純次の兄……佐々木 雄一ではなく、お嬢様学校に通う女子高生、立花 のえるなのだ。だから構わないだろう。
俺は腰が抜けたような無様な格好で四つん這いになりながら純次のジャンパーにしがみつくと、すがるようにその胸に抱きついた。
恐い。恐い。恐い恐い恐いっ!
のえるが恐れている。この状況を恐がっている。
◇◇◇
「もっしぃー。のえる? なんか用?」
電話の向こうから祥子の退屈そうな声が聞こえる。
俺はあの後、恐怖に耐えきれずに自宅を飛び出した。昨夜の出来事が本当にあったことなのか、それとも夢でも見ていたのか……どちらにしてもあの場所に留まるのは恐かった。純次のバイクで駅前のファミレスに戻ると、もう一つ気になることが残っていたのを思いだした。
テーブルの上に置いた手を純次が握ってくれている。本当は抱きしめていて欲しかったが、彼にそこまで要求できない。身体の震えはだいぶ収まってきていたし、変に誤解されたくなかった。
「聞きたいことがあるの。佐々木 雄一っていう人に助けられた時のことだけど……」
そこまで言うと祥子の語調がいきなり変わった。
「あんたまだそんなこと言ってるの! ちょっと、マジカンベンしてよぉ! あんた、どのツラ下げてその話してんのさぁ?」
「え? あの……」
唐突にキレだした祥子に俺は呆然としてしまって何も言えない。彼女が言ってることがまるでわからなかった。
「あんたが、助けられたのは自分だって言いふらしたんだろ! ちょっと顔が可愛いと周りはみんなダマされるんだ。おかげであたしが嘘吐きにされたよ! 人の人生盗みやがって! ふざけんな!」
自分だと言いふらした? 人生を盗んだ? やはり俺が助けたのは祥子だったのか?
俺は必死に記憶を辿ろうとするが、掴もうとすると霧の中に消えてしまう。昨夜の浴室と同じだ。自分の記憶が信じられなくなってくる。
でも、祥子が言ってることが本当に真実なのだろうか?
「それって……」
ここで真偽を問いただしても正解は得られない気がした。
「紗江もそう言ってるの?」
俺はもう一人の友達の名前を出す。
「紗江だって? ワッケわかんねぇー! 紗江ってのはあんたが逆ナンするとき使う名前じゃねぇか!」
紗江が……のえるの偽名? クラスメイトだろう? 友達だろう?
「違うの……か?」
俺の思考がそのまま口から漏れていく。しかし、激昂している祥子はそれには答えない。
「可哀想だと思って仲直りしてやったのに、いい加減にしろよ! もう電話してくんなっ!」
そう怒鳴って一方的に電話は切られた。
俺は呆然となってアイフォンを見つめていた。
紗江が……いない?
「大丈夫か?」
純次が心配そうな顔で俺の目を覗き込む。祥子の声があまりに大きくて、きっと彼にも聞こえていたのだろう。
俺は思いついてアドレス帳を開いた。紗江の名前を探す。
番号交換だけをして一度もダイアルしたことがないクラスメイト達の名前の列の中に、どういうわけか紗江の名前は見当たらなかった。何度探しても同じだ。
そして再び愕然とする。仲のいい紗江の苗字が俺にはどうしても思い出せなかったのだ。
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