第十五話 不思議の国の俺 1
今回少し暴力的なシーンがあります。ご注意ください。
◇◇◇
浴室の壁に埋め込まれた給湯器のコントローラーは四十度を表示している。しかし、ステンレスの浴槽はどういうわけか驚くほど冷たい。肌に触れる金属の感触は滑らかなのに、いくら湯船に浸かっていても身体は温まらなかった。
聖華女子高等学校の室内プールから……あの忌まわしい復讐の現場から逃げ出してフェンスの前でうずくまっているときに、迎えにきたのは父親だった。のえるの父親、立花
その時俺は、置き去りにしてきた痴漢野郎のことで頭が一杯になっていた。このまま彼を放っては帰れない。なんとかして助けに行かなくては……。
「ぁの……ちょっとまだ、……ぇえと」
必死に考えを巡らせるけれど巧い言い訳が浮かばず、煮え切らない返事を返してしまう。今すぐに助けを呼ばないと彼が死んでしまうかもしれない。でも、本当に仲間が来るのなら、ここで騒ぐわけにはいかない。思考が散り散りに迷ってまとまらない。
「そう言えば、大通りの正門の辺りに人が集まっていたよ。よく見えなかったけど、病人だか怪我人だかを運び出してるみたいだったなあ」
彼のことに違いない。……ってことは、ちゃんと助けが来たんだ。……良かった。
もちろんそれでも心配なことに変わりはないけれど、今は彼の無事を祈るくらいしか俺にできることはない。
落ち着いてくると自分の格好のあまりの酷さに気づいた。
しかし、今の俺は彼の大きなワイシャツを羽織っただけ。妖艶な黒レースのガーターベルトでストッキングを吊っているけれど、ワイシャツの下はノーブラノーパンなのだ。靴も履いていない。
「さあ、早く来なさい。そんな格好で風邪でもひいたら大変だ」
ここで下手に抵抗して問い詰められたらかなわない。俺は仕方なく父親の後についていく。こんな格好を間近で見られたくなくて黙って後部座席に座った。
母親はすでに眠ってしまっているのだろう。起こさないように静かに家に入ると、父親は風呂を沸かし直してくれた。
給湯器のコントローラーは午前四時を表示していた。
脱衣所に誰かが入ってきた気配がする。
「のえる。湯加減はどうだ?」
父親の声だ。
「……大丈夫」
短くそれだけ答える。あんな恥ずかしい格好をしていたのに車の中では何も聞かれなかった。娘が落ち着いてから詳しい話を聞こうと思っていたのだろう。『友達の家に黙って泊まりに行ったが、喧嘩して飛び出して途方に暮れていた』という言い訳を車内で考えていた。裸ワイシャツにガーターベルトなのは女子会の罰ゲームということにしておこう。うん、この言い訳ならなんとかごまかせそうな気がしてきた。
「ありがとう、パパ。来てくれて助かった」
「のえるが出かけたのは気がついてたよ。遊びに行くのは構わないんだが、帰りが遅かったから探しに行ったんだ」
父親がドア越しに答える。
浴室のドアの磨りガラスを通して父親の姿が見える。その姿が服を脱ぎ始めた。どうしてそこで着替えをするのかと考えていたら、風呂場のドアが静かに開けられた。
まさか入って来ようとしているのか?
「まだ、私が入ってるよっ!」
そう言った声が聞こえなかったかのようにドアは容赦なく開けられ、父親が意外そうな顔を覗かせる。服は着ていない。
俺は無意識に湯船の中で胸を隠した。
「どうした急に? いつも一緒に入ってるじゃないか。しばらく忙しくて入れなかったけど、急に恥ずかしくなったのかな?」
父親が微笑みながらそう言った。
のえるは高校生にもなって父親と一緒に風呂に入っていたのか?
いや、まだ冗談だっていうオチもあるかもしれない。
しかし、そんな考えを巡らせる時間はわずかだった。
父親は躊躇なく浴室に入ってドアを閉めると、手桶で湯を体にかけ始める。のえるが日常、父親と一緒に風呂に入っていたのなら、ここで拒絶したり逃げ出したりできないし、ましてや驚いたりするわけにもいかない。幸いと言うべきか、のえるの中身は今、この俺……佐々木 雄一だ。見た目は女子高生だけど心は男。恥ずかしい感情もない。
そう、タカをくくっていた。
父親は、洗い場に座って先に体を洗いだした。髪をざっと洗ってからカミソリで髭を剃る。それをぼぉっと眺めていたら、急にこちらを振り向いて目が合った。
いけない。父親の入浴を凝視していたなんて、変に思われたらどうしよう。そう思った刹那、一気に顔が紅潮するのを感じた。
「のえる、交代だよ」
父親が手招きする。仕方なく身体を隠して立ち上がると、できるだけ見られないように気をつけて湯船をまたぐ。しかし、洗い場にしゃがんだ父親の目線からは全部見えてしまっているだろう。
そう考えると、甘い疼きが腰の奥深くから駆け上がって来そうになる。余計なことを考えるな。
父親の前を通って素知らぬふりをしてドアに手を伸ばすと手首を掴まれた。
「まだ洗ってないだろう?」
「今日は出かける前にも入ったから……」
そう言って腕を引っ張ったけど、掴んだ手は離れない。
「ダメだよ、のえる。今夜はプールで男の子達と遊んできたんだろう? 汚れた体は綺麗にしなきゃ」
父親の声に楽しげな音色が混ざる。なんだって?
「どうして……」
この人がそのことを……?
「うん? どうして知ってるかって? 見ていたよ、学校の外廊下から。お前が風呂から上がったあと出かけて行ったのは知っていたけど、いつまで経っても帰って来なかったからね。この間みたいにジーピーエスで検索して迎えに行ったんだよ」
目の前が真っ暗になる。あのあられもない光景を見られていたのか。
「お前があそこでうずくまっていたのをパパが偶然見つけたと思ってたのかい?」
言われてみれば確かにそうだ。しかし、痴漢野郎のことが心配で他のことは考えられなかった。裸ワイシャツの言い訳も考えなくてはならなかったし……。
「男がお前を沈めようとした時には驚いたよ。でも別の男がすぐ助けにきてくれたね。彼はまるで姫の危機に駆けつける
自分の娘が殺されそうになっているのを見というのに、この父親はまるでドラマでも観ていたように話すのか。
「さあ、パパが洗ってあげるから、ここに座りなさい」
父親はそう言って立ち上がり、俺を椅子に座らせる。両手が肩に触れた瞬間、背筋にゾクリと嫌な感覚が走った。
父親はそんなことなどお構いなしに俺の後ろにしゃがみ込むと、両手で石鹸の泡を立て始めた。泡立てた手で娘の身体を洗おうというのだろう。
父親の手が背後から伸びて、乳房を包み込むように泡を擦り付ける。
「ちょっと!」
俺は乳房を掴む手を押さえ、身体をよじって抵抗する。
「あんな扇情的な格好をして男達と遊んできたんだろう? パパはそんなことで怒ったりしないよ。でもね、複数の男とエッチしたままのカラダでパパに抱かれるつもりかい?」
抱かれる……だって?
その言葉の意味を理解するまでしばらくの時間を費やした。風呂どころではない。俺の最愛の彼女が、血の繋がった父親と関係を持っていたということだ。
信じ難い事実がゆっくりと俺の精神に浸透すると、実の娘に性的虐待を行っていたこの男に対して、抑えようのない激しい怒りが沸き上がる。さっきまで優しい父親の顔だったものが、今は薄汚い中年男の嫌らしい
怒りはどす黒い殺意となって俺の心を支配した。俺はおもむろに振り返って父親の手を払い除けると、感情に任せて猛然と殴り掛かった。
だが、俺の攻撃はことごとくかわされて、反対に両手首を押さえられてしまった。
まただ、女の腕力は男のそれに比べて驚くほどか弱い。いくら法律に庇護され倫理に助けられていようとも、現在進行中の物理的な暴力から女を守ってはくれない。本来は女を守るべく与えられた男の強さがそのまま女に向けられてしまったら、女は甘んじてそれを受け入れるしかないのだろうか。
「やめろぉ! 離せバカヤロー!」
悔しさに涙が溢れ、俺の怒声は涙声になっていた。
父親は俺の両手首を片手で押さえると、空いた右手のひらで俺の頬を殴った。首が急激にねじれて、浴室の壁が一瞬で視界を流れる。視界の端に星が光って見えた。短いが鋭い痛みが襲う。口の中を切ったらしく鉄の味が口中に広がった。
「パパにそんな口をきいたらダメじゃないか」
父親の口調は相変わらず静かで優しい。しかし行動はまるっきり逆だった。
今度は掴んだ両手首を右手に持ち替え、左手で俺の右頬を打つ。
「パンッ!」
さらに手を変えて、逆側の頬を打つ。
「パシンッ!」
苦痛と悔しさと、そして恐怖から両膝がガクガクと震えて止めることができない。
このままでは殺されるかもしれない。それは俺自身の死であると同時に、のえるの死でもあるのだ。彼女を穢し続けてきたこの男が、今度は彼女を殺そうとしている。この男の罪は本庄となんら変わることはない。到底許すことはできない。
俺は掴まれている両手首を支点にして飛び上がり、狭い浴室の壁を蹴って父親に体当たりした。着地で怪我をすることなど考慮せず、のえるが持っている力を使って最大のダメージを与えられるように……。
不意打ちを食らった父親は、倒れながら床で足を滑らせて、タイルを敷き詰めた浴室の壁に後頭部を激しく打ち付けた。タイルの下は板壁ではなく鉄筋コンクリートだ。
父親は一瞬で昏倒した。だが、まだ息をしている。
許せない。
俺は白髪の混じり始めた男の髪を乱暴に掴むと、背後のタイルに力の限り打ち付けた。何度も何度も。打ち付ける度に自分では見たハズのない陵辱シーンが繰り返しフラッシュバックする。幻影の中ののえるは泣き叫んでいた。許せない。許せない。絶対に許せない……。
腕が疲労で上がらなくなるまで俺は打ち付ける手を止めなかった。
父親の髪を掴んだ指は硬く握りしめられていて、左手も使って一本づつ広げていかなければ離すことができなかった。
クリーム色のタイルに鮮血が飛び散り、ゆっくりと流れて床で石鹸の泡と混じり合っていく。父親はすでに息をしていないように見えた。
死んだのだろうか。
不思議な気分だ。人を殺したかもしれないというのに、何の後悔も罪悪感もない。それどころか、今まで感じたことがないほど心は幸福感に満たされていた。
俺は身体に飛び散った血を洗い流し、風呂から出てTシャツをかぶるとデニムパンツを履いた。
あれだけ大きな音を立てたのに母親は起きてこない。いつものように睡眠薬を常用しているのだろう。
◇◇◇
駅前のファミレスは明け方近い時刻にもかかわらず、何組かの客がテーブルを埋めていた。
「大丈夫? 何があったの?」
バイクのヘルメットを片手にターコイズブルーのライダースを羽織った若い男がテーブルに近づいてくる。さっきまで眠っていたのだろうしきりに生あくびを繰り返すその顔は、俺の弟である佐々木 純次だ。
「こんな時間にゴメンね。寝てたよね?」
「のえるちゃんに呼び出されたら、どんな時でも俺は駆けつけるよぉ」
調子のいい返事をしながら向かいの席ではなく俺の隣に腰を下ろす純次。
「あのね、急にこんなこと言ってもわからないと思うけど……お兄さんの身体は死んでしまったけれど、魂はまだ生きてるんだよ」
純次は俺の話を聞いてもキョトンとして、まるで新興宗教の勧誘にでも遭ってしまったような顔をしている。できるだけわかりやすい言葉を選んだのだが、逆効果だったようだ。だけど、のえると俺の心が入れ替わっていて、兄の魂はまだここにあるんだと言っても、信じてもらえないだろう。
本当はわかって欲しかった。家族に悲しい思いをさせたことを謝りたかった。そして、俺の魂は変わらずに生きていることを伝えたかった。
でもこれでいいのだ。のえるを苦しめていたものすべてを壊して俺達の復讐は完了した。純次がその詳細を理解していなくても構わない。
「私、以前レイプされそうになったことがあるんだ。もうダメだって思った時に、お兄さんが助けてくれたんだよ」
「え? 兄貴がのえるちゃんを助けたって! そっかぁー。そいつぁ、兄貴らしいなぁ」
純次は遠い目をして嬉しそうに微笑む。ああ、こいつは馬鹿だけど素直で最高の弟だ。身体をなくしてしまうまで、そんなことに気づかなかった間抜けな兄を許して欲しい。
「それでね……」
その時、襲った連中が俺の身体とのえるの精神を……。
「そう言えば、兄貴を襲った連中も以前女の子を拉致ろうとして兄貴にコテンパンにされたことがあったみたい。逆恨みってヤツ? もう逮捕されてて、今事情聴取ってゆうの? ソレやってるらしいよ」
逮捕された? 本庄はプールで死ななかったのか? でも……何かおかしい。
「被害者の女の子が証言してくれて起訴に持ち込めるみたい」
ちょっと待て。その被害者って、のえるじゃないのか?
「その人ってなんていう人?」
「市内に住んでる高校生で名前は確か……
……そんな馬鹿な。
祥子はのえるの仲のいい友達だ。俺が助けたのは、のえるじゃなく祥子だったというのか?
何がどうなっているのかまるでわからない。俺は強烈なめまいに襲われて、そのまま何もわからなくなった。
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