第十一話 復讐するは俺にあり 1

 短かくカットされた金髪にブルーのカラーコンタクト。ゴールドとブルーの派手なスタジアムジャンパーに細身のデニム。足先は黒のコンバースハイカット。四角くて大きなショルダーバックを肩にかけてガラス戸を開けて入ってきたのは、トム・クルーズを小柄にしたような男の人……だった。


「おう、早かったなあ。ミッキー」


「アンタが早く来いって言ったんじゃねぇーかよっ!」


 ミッキーと呼ばれた人は妙に甲高いしゃがれ声で怒鳴り返す。それからこちらに向き直ると、俺のつま先から頭のてっぺんまでゆっくりと眺めた。


「こんな幼い娘、どっから拉致ってきたんだよ? この変態野郎!」


「うるせぇババア! 手前ぇは黙って仕事しろ」


 変態野郎が怒鳴る。ババアだって? このトム・クルーズさん、こんな男らしい見た目なのに女性なのか? 俺は驚くと同時に奇妙な親近感を覚えた。性同一性障害なのか単なる男っぽい性格の人なのかわからないけれど、この人は自分の心に合わせて外見を変えていったのだろうか。

 ミッキーさんは俺を椅子に座らせると、肩から降ろした大きなショルダーバッグを開ける。中は何段にも仕切られていて、色とりどりの様々な化粧道具が入っていた。


「さて……と」


 そう言ってミッキーさんは俺の左右の髪と前髪をクリップで留めて、化粧品のビンから手のひらにとった液体を顔に軽く叩きつける。その後、なんだかわからないクリームのようなものやら何やらを顔に塗りたくられた。顔中がベトベトしているようで気持ち悪い。

 小さいペンを俺のまぶたに沿って動かしていく。ペン先が目に入りそうで思わず瞼を閉じて怒られた。

 銀色の器具を使ってまつ毛を挟んでから黒いブラシのような物で撫でていく。これもまた目の近くの作業だ。

 何度も筆を取り替えて、筆先で頬を軽く撫でる。

 小さなハサミを駆使して眉の辺りを弄り出す。時折、毛を抜かれて痛い。

 最後に小さな筆に口紅をとって、俺の唇を丁寧に塗りつぶした。

 ミッキーさんはそのまま俺の髪を降ろすと、水で軽く湿らせてブラシとドライヤーで巻き始めた。


「おぉー! 相変わらずいい腕だなあ。俺の趣味にピッタリだ」


 ヘアメイクが完了した俺の顔を覗き込んで痴漢野郎が感嘆する。


「ったり前ぇだよ。何年アンタのワガママ聞いてると思ってんだい!」


 ミッキーさんはドライヤーを片付けると俺の目の前に鏡を出した。


「ほぉら、シンデレラのできあがりぃー」


 鏡を見た俺は驚いた。そこに映った女性に不覚にも心を奪われて、身じろぎ一つできなかった。しばらくの間、息をするのも忘れてしまうほどに……。見慣れてしまったのえるの顔ではなく、大人の清楚さと妖艶さを併せ持つ女のかおだった。俺は鏡に映ったのえるの瞳から目が離せなくなっていた。


「いつまで自分に見惚れてるんだ。さっさと行くぞ」


 痴漢野郎はそう言うと俺の手首を掴んで店の前に停めた車の助手席に押し込んだ。


「忘れ物だ。まとめて来月支払えよ」


 店長さんが助手席の窓から黒革のハンドバックを突き出した。バッグを持った手がそのまま俺の胸に当たる。俺は急いでバッグを掴んだ。


「恩にきるよ」


 痴漢野郎は運転席からそう答えると、ゆっくりと車を発進させた。


◇◇◇


 果たして、奴らはまだダーツバーにいた。店の奥のテーブルに陣取って騒ぎながら順番にダーツを投げている。


「いらっしゃい」


 カウンターの中から声がかかる。ここ最近通い詰めた入り口近くの席を避けてカウンター席に座った。

 店内が暗いため、いつもと全然違う格好をした俺が店員にはわからないのかもしれない。何かと構ってくる常連も今日は一人も見当たらない。その方が都合が良かった。

 俺はカシスオレンジをオーダーした。

 腕時計を見て誰かを待っているようなフリをして髪をかきあげる。その瞬間に奥のテーブルを盗み見た。奴らは俺に気づいていないのかあるいは興味がないのか、こちらを見ようともせずにただゲームに熱中している。


 店に入る前に、痴漢野郎と簡単な打ち合わせを済ませていた。


「いいか。その格好でカウンター席に座るんだ。五分経っても釣れなかったらそれ以上待っても意味はない。俺が行って痴話喧嘩を演じて注目させよう」


「そんな単純な作戦が成功するのか?」


 俺は不安になって聞き返す。


「どんな高尚な芝居でも観客が観て理解できなきゃ何の意味もない。今夜の観客はあいつらだ。芝居は馬鹿でもわかる単純なものがいいんだよ」


 そして俺は、痴漢野郎が言う『馬鹿でもわかる芝居』のために頬を殴られ罵声を浴びせられて店に一人で置いていかれることになったのだ。

 ハンドバッグからハンカチを取り出して目尻を押さえる。せっかく涙がこぼれたのだからそれを有効活用させてもらおう。

 バーテンダーが氷で冷やしたおしぼりをくれた。じんと痺れて熱を持った頬に当てると冷たくて気持ちが良い。

 痴漢野郎が消えて店内が元の喧噪を取り戻す頃、俺の座ったカウンターに誰かが近づいてきた。


「いやぁ! 凄かったねぇー」


 ゆっくり振り向くと茶髪ポニーテールが視界の端に映る。奴らの仲間の一人……『ヒロ』だ。

 俺はわざと奴を無視する。ここで焦らして本命が出てくるのを待つのだ。

 ヤツは舌打ちするとそのまま何も言わずに帰って行った。直後、奥のテーブルからドッと笑いが沸き起こる。ヒロの失敗を笑っているのだろう。さて、本命は登場するだろうか。

 奥のテーブルの笑いが落ち着いてから数分。カシスオレンジのお代りをオーダーしようと顔を上げると、バーテンダーの視線は俺の背後に注がれていた。


「この人にお代りを……」


 男の声にバーテンダーがニッコリと笑って頷く。

 ついに来た。この声を聞き間違えることはない。本庄だ。俺の全身に急速にアドレナリンが行き渡り、戦闘に備えて脈拍が上がる。

 バーテンダーが黙ってカシスオレンジを目の前のカウンターに置く。俺は一旦本庄を視界の隅に入れてからゆっくり前に向き直り、奴から贈られたカクテルに軽く口をつける。それを承諾の合図だと判断して、奴が右隣のスツールに腰掛けた。まだ俺には一言も話しかけてこない。


「俺にはウーロン茶を」


 どんな決め台詞が出るのかと思っていたら、ボケてきやがった。こちらから突っ込ませる作戦らしい。馬鹿馬鹿しいと思いながらも反応してやらなくてはならない。


「ぷっ!」


 軽く吹き出してから、身体を震わせて笑いを堪える演技をする。上手くできてるだろうか。


「こんばんは。俺は本庄。時々ここでダーツ投げてる。君は?」


 ボケが受けたからか気を良くした本庄が自己紹介を始めた。こんなセクシーなドレスを着てプロのメイクをしているからか、自分たちが以前乱暴しようとした女だとは気づいていないようだ。しかし、本名を名乗るのは危険かもしれない。


「サエ……」


 俺の口からとっさに紗江の名前が飛び出す。言ってからしまったと思ったが、どうせこいつらと紗江が顔を合わせることはないだろう。


「サエちゃんかあ。今日はエロカッコイイね」


 歩いている女子高生を車に連れ込んで乱暴する最低野郎のクセして、女を口説く時のこの慎重さは何だろう。どうせ、目の前で男に振られたばかりの女だから、落としやすいと思って這い寄ってきたのだろう。馬鹿め。

 もちろん、こいつがこんなに最低な馬鹿だからこそ、痴漢野郎の作戦で見事に釣り上げることができるのだ。こんな馬鹿に襲われて殺されたのえるが本当に不憫でならない。

 ウーロン茶をギネスに替えて飲みはじめた本庄が、俺に向かって饒舌に話し始める。でも口から出るのはダーツの話ばかりで、それ以上は一向に踏み込んでこない。隣に座って五分経っても口説かない男は何年待っても口説かないんだ……なんて、痴漢野郎なら言うかもしれない。こういう時どうすればいいか打ち合わせていない。

 困った。男をナンパする方法なんて知らないぞ。


 焦ってそわそわしていると、低いバイブレーターの音が聞こえてきた。電話だ。ハンドバッグからアイフォンを取り出すと、画面には痴漢野郎の電話番号が表示されている。出ても大丈夫か一瞬迷ったが、店内にも彼の仲間がいて情報を送っているはずだ。

 それでも念のために本庄のいない左耳にアイフォンを当てる。


「『うん』か『ううん』で返事しろ」


 痴漢野郎がささやき声で話す。


「うん」


「どうだ? このままではダメそうか?」


「うん」


「これから俺が店に戻るが、奴には知らせるな」


 一体どうするつもりだろうか。しかし、それを聞く方法はない。


「うん」


 俺は仕方なくそう答えて電話を切った。


「さっきの彼氏?」


 本庄が興味津々で聞いてくる。


「ううん。友達ぃー」


 俺が適当に答えると、本庄はまた自分語りに夢中になった。こんな奴に惚れる女なんているのだろうか。余計なお世話だと思いながら考える。

 そこで、バーのドアベルが鳴った。本庄の視線がドアに向かい、その瞳が一瞬開かれる。ドアの方を向かなくても本庄の顔を見ているだけで誰が入ってきたのかわかった。それから本庄はゆっくり目を細めて口元に薄い笑いを貼り付けた。

 不安になってドアの方に顔を向ける。

 痴漢野郎はもったいぶった態度で店内を見渡し、カウンターの俺を見つけていやらしく笑った。一瞬、背中に悪寒が走る。こいつは本当に俺の味方なのだろうか。

 ニヤニヤ笑ったままカウンターにやってくると、俺に向かって口を開いた。


「なんだ。一人寂しく泣いているかと思ったが、楽しそうじゃねぇか」


 どうやらさっきの芝居の続きのようだ。しかしこんな場面は打ち合わせにはない。俺はなんと言ったらいいのかわからず硬直してしまう。

 すると彼は、隣の本庄に向かってこう言った。


「兄さん。こいつを口説こうとしても無駄だぜ。やめときな」


 低いドスの効いた声音だが、妙にゆっくりした優しい口調だ。威勢がいいだけのチンピラとは違う、本物のヤクザを彷彿とさせるしゃべり方だ。その言葉に店内が再び静まり返る。そういえば俺は痴漢野郎の職業さえ知らない。こいつ、本物のヤクザなんじゃないのか?

 奥のテーブルで、奴の仲間が椅子を蹴って立ち上がる気配がした。しかし、本庄が片手を挙げて制したので、それ以上近づいてこない。


「彼女を口説くつもりなんかねぇよ」


 本庄が微笑みながら答える。目の前の男のリアルな迫力に気圧される様子は微塵もない。いやまて、俺を口説く気がないならここまで近づいてはこないハズだ。

 しかし、痴漢野郎も怯まなかった。


「それは良かった。なんてったってコイツは俺のモノだからね」


 そのセリフで俺はさっきの奴隷の話を思い出してしまった。痴漢野郎が俺のすぐ後ろに立っているからか、あるいはドレスの背中が大きく開いているせいなのか、無防備な背中を駆け上がる快感に嫌というほど蹂躙されて、胸の先端が痛いほど反応してしまっている。その上、彼の左腕が俺の肩から前に回ってきて、大きな手のひらでノーブラの胸を掴まれてしまった。

 痴漢野郎は薄いドレスの生地越しに尖った乳首の感触を手のひらで確かめるように弄ぶ。俺は恥辱に染まった顔を見られるのが嫌で俯くしかなかった。


「この女はなぁ、俺がじっくりと時間をかけて調教した最高のメス奴隷なんだよ。前も後ろも俺のチンコにピッタリと合うようになってる。しゃぶれと言えば何時間でも旨そうにしゃぶるし、俺が耳元でイケって言えば何度も腰を振って絶頂する可愛い女なんだよ」

 そう言って俺の左胸を優しく揉み始める。彼の言葉のせいでスツールに座ったまま腰が小さく何度も跳ねてしまって抑えることができない。本庄を煽っているのか俺を辱めているのか、どっちなのかわからなくなってくる。


「そこまで調教されちまった淫乱な奴隷のくせに俺以外の男にはまったく感じないんだよ」


 ひと呼吸開けて言葉を続ける。


「こいつはな。世の中のすべての男を馬鹿にして見下しながら、ただ一人……俺にだけかしずいて絶対の服従を誓うんだ。この可愛い顔と身体でなぁ。どうだ? 最高の女だろう?」


  痴漢野郎がそう言うと、とたんに本庄の目の色が変わるのが俺にもはっきりとわかった。


「俺を見下せる女なんかいねぇ」


 低く押し殺したような声で本庄は反論し、痴漢野郎を睨みつける。


「兄さんは男前だからなあ。ああ、わかってるよ、今まで口説いて落ちなかった女なんていないんだろう?」


 痴漢野郎がそう言って相手を持ち上げる。


「だがなあ、コイツは特別な女なんだ。兄さんにだって口説き落とすことはできないよ」


「何だと?」


 本庄が猛烈に反応する。どうやらすでに痴漢野郎の術中に嵌っているようだ。


「おっと、兄さんは違うと言いたいようだな? じゃあ一度試してみるかい?」


 痴漢野郎はそう言ってニタニタと笑った。

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