第十話 黒いドレスの俺
男の分厚い手のひらが風を切り、派手な音を立てて俺の左頬に当たった。
その瞬間、辺りは水を打ったように静かになり、雑談をする者、酒を飲む者、ゲームに興じる者、誰もが手を止めて俺達の方を見た。
俺と、そして目の前に立つダークスーツを着込んだ優男を。
その時俺は、金ラメが入った黒のワンピースのドレスを着て、爪先に金のチップが輝く黒のパテントのハイヒールを履いていた。ドレスの裾は当然のごとく下着が見えないギリギリの長さだ。
殴られた頬が熱い。血の味がする。どうやら口の中を切ったらしい。俺は叩かれた頬を押さえて、頭一つ分高い位置にある男の顔を睨みつける。
「勘違いするなよ。お前の代わりなんていくらでもいるんだ。嫌なら今すぐ帰れ。そして二度と顔を見せるな」
男がドスの効いた声で吐き捨てるように言う。しんと静まり返った店内に男の暴言がゆっくりと浸透していく。それが胸に鋭く突き刺さってきて、いくら演技だとわかっていても、睨んだ目からうっかり涙が溢れてしまった。
「オイオイ、女優か? お前は。末恐ろしい女だな」
男が小声で囁く。
「うるせー。痛かったんだよ。アイツが見てるぞ。黙って続けろ!」
俺も負けずに囁く。
俺だけに見える角度で顔しかめると、男は踵を返して立ち去ろうとする。
「待ってよ」
焦りを含んだ……それでいて絶妙に甘えが混ざる声を苦労して出すと男の腕に両手で縋りつく。しかし男は躊躇なくその手を振り払うと、そのまま振り返りもせずに店を出て行った。
ここは隣町、繁華街のハズレにポツンと建っている場末のダーツバーだ。
俺……佐々木 雄一の身体が倒れていた現場に近い繁華街を、場所を変えながら毎夜のように張り込んできた。張り込み中は髪を三つ編みにして帽子を目深に被り、地味な色のトップスにジーンズという格好だ。しかし、ほぼ二週間、何の手がかりも得られなかった。
そんな収穫のない作業に焦りを感じてきた先日、やっと奴らの仲間の一人を発見した。そいつを慎重に尾行して、ついにこのバーにたどり着いたのだ。人探しのノウハウも何もない高校生にとっては大変な仕事だった。のえるも俺を見つけるために連日駅で張り込んでいたようだが、こんなことを続けていたのか。
雑居ビルの入り口から地下へ向かう階段を降り、以前はスナックだったらしい昭和風の木製のドアを開けると、間取りこそ古めかしいものの、意外と洒落た現代風のインテリアに迎えられた。店の奥側に全自動でスコアの計算と記録ができるダーツマシンが数台並んでいる。
のえるを襲った男の一人。金髪ソフトモヒカンで両耳ピアスがリーダー格の
奴らはここ最近、毎週末にここに集まってダーツを投げているそうだ。俺は慎重に店に通ってバーテンダーと顔なじみになり、本庄に興味があるフリをして情報を集めた。
その間にわかったことだが、のえるは意外にも酒が強かった。俺は未成年だし元々飲まないが、一人でカウンターに座っている若い女に奢りたがる男というものはどこにでもいるものらしい。
フルネームは本庄
「……んでよぉー。高校生のガキがビビりながら言うんだよ。命だけは助けてくださいって。手前ぇーで喧嘩売っといて、ウケルだろぉー? 最後にゃあこれで助けてくれって時計をよこしやがった。どんないい時計かと思ったらオメガの安物じゃねーか。まあ、最近時計壊して不便だったから貰っといてやったけどなー!」
店じゅうに響く本庄の武勇伝に、周りの客がドッと笑う。みんなは酔っ払ったドラ息子の戯れ言だと思って受け流しているのだ。しかし俺にはわかる。あれは佐々木 雄一だったのえるを殺した時の話に違いない。彼女は、生まれて初めて体験する壮絶な恐怖と戦いながら守ろうとしたのだ……その身体を、無事俺に返すために。
俺の全身が青い怒りの炎に静かに焼かれる。こいつは……こいつだけは生かしておくわけにはいかない。しかし、今の俺は非力だ。例えばナイフを使ったとしてもこいつら相手に致命傷を与えることができるかどうかわからない。だから俺は計画を立てたのだ。綿密な計画を。
純次に手伝わせることは最初から考えてはいなかった。あいつだって兄を亡くして悔しい思いをしているだろうと思う。しかし、相手は『人を殺しても罪に問われない人種』なのだ。死んだことになっている俺に続いて万が一、純次まで命を落とすことになったら両親はどれほどの悲しみを背負うことになるのか。それ以前に、俺は弟に殺人の罪を負わせたくなかった。
もちろん祥子や紗江にも手伝わせるわけにはいかない。これは自分の手でやらなければならないのだ。でも……どうやって?
自分の部屋に帰って途方に暮れていた時に、壁のハンガーに掛かったままになっている紳士物のコートが目についた。あの日、ベンチで動けずに震えていた俺に羽織らせて、そのまま消えてしまった痴漢の親玉のコートである。
手にとって裏地を見る。名前はなかったけれど、内ポケットに何かカードのようなものが入っているのに気がついた。取り出して見るとそれは一枚の厚紙だった。名前が書いてあるのなら名刺と表現するのが正しいだろう。しかし、その紙には十一桁の数字が書いてあるだけだった。
俺は無意識にアイフォンを掴むと、紙に書かれた番号をダイアルしていた。
呼び出しベルが十回以上鳴った後、ようやく相手が電話に出た。
「もしもし」
電話の向こうで低い男の声がそう言ったきり黙りこむ。先日の痴漢の声だったかどうか、これだけでは判断できない。
「コートに名刺が入ってたから……」
そこまで言って相手の出方を伺う。
「なんだ、誰かと思ったら変態のお嬢ちゃんか」
「変態じゃないっ!」
やっぱりこいつは先日の痴漢だ。間違いない。
「変態じゃないだって? 電話でも嘘を吐くつもりか? そんな嘘吐き女に用はないね。切るぞ」
「待って!」
この男に対してイニシアチブをとるのは非常に難しい。少なくとも今の俺には無理だ。こいつは他人をコントロールする天才だ。俺の直感が、この能力は使えると叫んでいた。
「ちょっと話があるんだけど……」
俺はこれまでの経緯をかいつまんで話す。レイプされかけたこと。その犯人を見つけたこと。そいつらは法の網をかいくぐっているから、なんとかして仕返ししたいこと。
電話の向こうにいる相手はマコ様と同じタイプの人間だ。下手な嘘はすぐ見破られる。そして『どうして嘘を吐いたのか』という心理にこだわって肝心の話は置き去りにされてしまう。十分注意して会話しないといけない相手なのだ。もちろん、のえると入れ替わったことには触れない。
「ふーん。そいつらに復讐したいのか。で、具体的にどうやるつもりなんだ?」
「それはまだ……。どちらにしろあんたに迷惑をかけるつもりはないよ。うまくどこかに呼び出してくれれば、あとは自分でやるから……」
言ってて自分で馬鹿馬鹿しくなってきた。こんな杜撰な計画……いや、計画とさえ呼べない与太話は鼻で笑われるに違いない。なにか他にコイツに協力させる方法を考えないと。そう思っていると意外な答えが返ってきた。
「いいぜ。付き合ってやるよ」
「ホントに?」
「だがなあ、俺だって暇じゃない。ただで動くとは思うなよ」
そう言って男は笑う。
まあ、そうだろう。金を要求されるのは想定していた。問題は金額だ。
「いくらいるんだ?」
のえるの机のひきだしに貯金通帳があった。アルバイトでもしていたのか高校生の割にはまとまった蓄えがあった。もしそれで足りなければ、あの優しい父親を騙してでも用意するまでだ。
「金なんか要らねえよ。食うに困ってる訳じゃない……そうだな。アンタの身体を丸一日自由にさせろ。じっくりと時間をかけてこないだの続きをしてやる」
その言葉を聞いただけで、俺の下半身が自分でも驚くほど反応した。電流が背中を駆け上がりゾクゾクと身体を震わせる。力が抜けて崩れそうになる膝を手で押えなくてはならなかった。深呼吸してなんとか自分を落ち着かせる。
またあの症状だ。しばらくなかったから油断していた。コイツには電車の中で酷い目にあったのだから警戒すべきだったのだけど、まさか電話で話しただけでこんな状態されるなんて。
「どうした? まさか今のでイッちまったのか?」
男が大げさに驚いたフリをしてからかう。
「ィって…… なぃ………」
気力を振り絞ってなんとかそれだけ答える。腹に力を入れても自然と甘い息が漏れてしまう。
「なに色っぽい声出してんだ! 思いっきり感じちまってるじゃねえか。そんなことで復讐なんかできるのか? 返り討ちにあって輪姦されるのがオチじゃねえのか?」
男の声が呪いのように俺の頭に陵辱のイメージを突き立てる。
「あぅっ……!」
想像してしまった集団レイプの生々しい光景から、再び強烈な刺激に襲われて思わず声が漏れてしまった。
「オイオイ。まさかそっちが目的なんじゃないだろうな? そんなことになったって俺は助けてやらねえぞ」
そんなことはわかってる。そう言ってやりたかったが、言葉にすると変な声を出してしまいそうで、俺は手で口を塞いで耐える。
「いいか? 手伝ってやる以上はお前は俺の奴隷だ。所有物だ。俺がこの手で念入りに調教して女の最高の悦びを教えてやる。それまでは小便臭いガキどものオモチャになんかなるんじゃねえぞ」
男の台詞を聞き終わらないうちに、俺はまたしても強烈な快感の波にさらわれて意識を失いかけていた。最後に何か口走った気がするが、内容はまるで覚えていない。
◇◇◇
翌週の金曜の夜。仲良くなったバーテンダーから連絡があった。本庄がダーツバーに顔を出したらしい。ヒロと……もう一人、えーっとラリホーだか何だかそんな名前の奴も一緒だ。イレギュラーでもなければ、このまま深夜までダーツを投げながら酒を飲むのが習慣になっているそうだ。
俺はゆっくりと風呂に浸かり、両親が寝入ってしまうのを待ってから痴漢野郎に電話をかける。音を立てないように注意しながら玄関の鍵をかけて夜道を少し歩くと、路上に真っ黒なセダンがエンジンをかけたまま停車していた。
運転席に座っていた痴漢野郎が俺を見つけると親指を立てて後部座席を指し示した。
後部のドアを開けて車に乗り込む。
「何だお前、その格好は?」
開口一番、男が大げさに驚いてみせる。俺は聖華女子の制服を着ていた。
「この方が油断させられると思って……」
「馬鹿かお前、二十歳前の坊やが制服見て勃起するかよ! 仕方ねえな。三十分繰り下げだ」
そう言って男は乱暴に車を出した。
◇◇◇
「やってるかい?」
男はガラスの引き戸を開ける。繁華街の裏道で、飲み屋とコンビニ以外で唯一灯りがついていた店だ。間口が狭くて細長い店内に手前から奥に向かって延びる長いハンガーが設えてあり、派手な色の服がたくさんかかっていた。こんな深夜に営業している服屋があるのに驚く。
「ここはなぁ、ホステス相手に服や靴を売る店だ」
男がそう言うと、店の奥から痩せた白髪の男が顔を出す。
「やあ、久しぶりじゃないか。最近どうしてるんだい?」
「余計なこと聞くんじゃねえよ、ジジイ。ちょっと服をもらっていくぞ」
男はぞんざいに言うと、店の奥に入って行って何着か黒っぽいドレスと靴を持ってきた。それを俺に放ってよこす。
「それに着替えろ。制服の百倍はセクシーになる」
「今、ここで?」
「当たり前だ。フィッティングルームなんて洒落たもんがある店に見えるか?」
俺は躊躇して男と店長の顔を交互に見た。
「そこのジジイはもう八割がた棺桶に入ってる。死人と同じだから気にするな。あ? 俺のことか? 俺はお前の尻の穴まで見てるんだから、今さら恥ずかしがらなくていい」
何を言っても無駄のようだ。
俺は諦めて明るい店内で聖華の制服を脱ぎ捨てる。
「何だそのパンツは? こないだのエロいヤツ、履いてこなかったのか?」
男は再び店の奥に入って行くと、今度は真っ赤な下着を持って戻ってきた。レースの透ける素材でできた下着で、後ろはTバックになっている。
「これを履け。それからブラもとるんだよ。こういうドレス着たことねえのか?」
ドレスの背中が開いていて肩と背中が丸出しになっている。確かにこういう服装でブラのストラップを出してる人を見たことはない。
結局、俺は男と店長の目の前で全裸になって下着を履き替えることになってしまった。年老いた店長は鼻の穴を広げて遠慮の一切ない視線をこちらに投げてくる。どこが『死人と同じ』だよ。心の中で悪態をつきながら、顔が熱くなっていくのを感じる。胸の鼓動も速い。
できるだけ脚を開かないように注意して真っ赤なTバックを履く。こんな下着を履くのはあの痴漢の日以来だ。ナイロンの素材が肌にフィットした瞬間、自分が濡れているのに気がついて嫌悪感で頭が一杯になる。ティッシュで拭きたかったが手元にないし、そんなこと口には出せない。
ドレスを脚から履いて上に引き上げる。すべすべした裏地が腰に、腹に、裸の胸に擦れる感触が心地よかった。服を着ることがこんなにも気持ちいいものなんだと俺は初めて認識する。
結局、二人の前で何度も裸を晒して着替えさせられた末にやっとドレスが決まった。ノースリーブのホルターネックで胸元は完全に隠れているが、代わりに背中が腰の辺りまで開いている。
「ガキ相手でもこれじゃあちょっと足りないな」
俺の全身を眺めてそう言うと、男はまた奥に行って黒いレースの下着を持って戻ってきた。
「これをつけろ。ストッキングを履いてこのスナップで留めるんだ」
スカートを捲り上げてレースのガーターベルトをつける。スカートを戻してから椅子を借りてストッキングを履いた。
履き終わると男が急に俺の正面にひざまずいて脚を掴んだ。
「動くな」
驚いて脚を引こうとした俺に男がぴしりと言い放つ。
俺の足に黒いパテントのハイヒールを履かせると、しばらく眺めてから手首を掴んで立ち上がらせた。
「うーん」
そう言って男はまた奥に行く。こんなことをしている間に奴らが帰ってしまったら元も子もない。俺は焦ってきた。
「早くしないと……」」
「うるせぇ! こういうことは入念な準備が必要なんだ。文句があるなら帰れ」
取りつく島もない。
「後ろを向け」
男の指示に従うと、目の前に金色の派手なネックレスが降りてきて胸の上に着地した。
「髪を上げろ」
言われるままに両手で髪をかきあげると、ネックレスを首の後ろで留める気配があった。その直後、腰を掴まれてくるりと反転させられる。
「うん。うんうん。いいじゃねえか。俺は天才だなあ」
そう言って、腰に手を回して抱き寄せられた。高いヒールを履いているせいで足を踏ん張ることができず、いいように扱われてしまう。
男は満足した様子で携帯電話を取り出した。
「ミッキーか? 仕事だ仕事。五分で爺さんのブティックに来い。寝てただあ? 仕方ねぇな。十分……いや、七分で来い」
なんだかまだ何かあるようだ。時間が気になったが、どうせコイツがいないと計画が先に進まない。男達の遠慮のない視線に舐めまわされながら、俺は諦めて次の展開を待つことにした。
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