第四話 俺はそれを我慢できない

 その美人は、やや不機嫌そうな表情で廊下を向こうから歩いてきた。

 細い顎と小さく尖った鼻、白人の少女のようにコンパクトな輪郭に真っ黒の瞳と眉、長いストレートの黒髪という一見アンバランスな要素で構成された顔立ち。鋭い吊り目には真っ赤なフレームのメガネをかけていた。

 白衣を羽織っているところを見ると化学の教師だろうか。

 ハイネックの黒いニットを突き上げる胸が白衣の前を左右に押し開いている。まるで隠されていた秘密兵器が、攻撃の瞬間を待って格納庫から顔を覗かせているように。

 体つきはスリムに見えるがバストサイズは紗江に匹敵するのかもしれない。しかし、ワイヤー入りの固そうなブラでガッチリ固定されているようで、歩く振動にも微動だにしない。


 俺の視線は彼女の胸……いや、彼女自身に釘付けになっていた。


「……なぁーんて事を昨日のテレビで言ってたんだよー。ニノくんがさぁー……。ちょっとのえる聞いてるぅー?」


 祥子の声が反対側の耳から抜けて行く。

 数メートルまで近づくと白衣の彼女と目が合ってしまった。じっと見ていたことを悟られたくなくて急いで視線を逸らすその刹那、彼女は俺に向かって密かにウインクしてみせた。

 祥子と紗江は気づかなかったようで、何事もなかったように喋っている。

 何だ? まさか俺に一目惚れ……なんてことはないな。今の俺は女子高生、立花 のえるなのだ。

 そんなことを考えている間に白衣の彼女は通り過ぎて行ってしまった。


「どしたの? のえるぅー」


 俺は振り返って後ろ姿を目で追っていた。ヒールがリノリウムの床を叩く音がゆっくりと遠ざかっていく。彼女は一度も振り返らなかった。


「マコ様と約束してたの?」


 マコ様? なんだ、そのヤンゴトナイお名前は!


「約束ってなんだ?」


「のえる何ボケてんのー? 予約だよ予約。保健のセンセーだもん」


 いやいや、お前の言ってる意味こそ俺にはまったくわからない。


「祥子ちゃん違うよ! マコ様はスクールカウンセラーだよぉー」


 横から突っ込む紗江。でも祥子は無視して叫ぶ。


「わかったー! 今日の身体検査のセンセーだよ、きっと!」


 わかったのはきっとお前だけだ。

 いや、突っ込むところはそこじゃない。今日が身体検査だとぉ? のえるからは何も聞いてないぞ……なぁんて普通なら驚いたり慌てたりするところだが、女子高生になった俺に隙はない。そんなことは想定の範囲内だ。しかも身体検査とは都合が良い。

 それと言うのも、 ダンベルを買ってから一週間。俺は筋肉のかけらもなかったこの身体にストレッチと軽い筋トレを毎日繰り返してきた。もちろんバストマッサージも忘れずに……だ。

 努力の甲斐もあってか、だんだんブラがきつくなってきた。おそらくはここ数日でバストサイズに大きな変革がもたらされたに違いない。身体検査で胸のサイズを測るのが今から楽しみだ。


◇◇◇


 廊下を体操服姿の生徒達が一列になってすれ違って行く。みんな手に自分の身体の詳細が書かれたファイルを抱えている。

 上はノーブラで体操服、下は制服のミニスカートという何ともマニアックな格好で教室を移動する生徒たち。これも聖華女子の伝統のスタイルなのだろうか。

 彼女たちは数人づつ出席番号順のグルーブに分かれて保健室に入っていく。


「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇー」


「はいはい。みんなやるんだから静かに!」


 中から生徒たちのブーイング。そしてそれをなだめる大人の女性の声が聞こえた。


「何だろうね?」


 祥子が興味津々で保健室のドアを見つめる。紗江は出席番号が離れているので列の後ろの方にいた。


 呼ばれて入った保健室は、簡易な処置室とベッドが三つあるだけの小さな部屋だ。

 その中で内科検診が行われていた。検診医は男だ。

 期待していたわけではないけれどマコ様の姿は見当たらなかった。


「はい、みなさん。ここでは心臓の音と呼吸音を聞いて、病気があるかどうか検査します。正確に検査するために、先生の前に座ったら体操着を捲って胸を出してください」


「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇー」


 さっきと同じブーイングが巻き起こる。原因はこれか。

 どうやら男性医師に胸を見られるのが嫌だということらしい。


「はいはい、文句を言わない。これ以上騒いだら触診追加するよ」


「やだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー」


 生徒達が一斉に抗議の声を上げる。

 相手は医者なのだから女性の裸を見ても何とも思わないだろう。しかも女子校の検診に来るくらいの医者なら、高校生の胸など嫌というほど見ているはず。見る方も嫌だし見られる方も嫌なのならば、女子高の身体検査など誰の得にもならない無意味なイベントなのではなかろうか。

 つまりは医者の視線など気にすることに意味はないのだ。そんなことは考えなくても解ると思うが、それでも見られたくないのがオトメ心というやつなのだろうか。女子は不思議だ。


「ダメだわ。センセーが若すぎる!」


 前方を覗いていた祥子が、医師の顔を見てささやき声で抗議する。

 確かに、検診医は三十前後で比較的精悍な顔立ちをしている。

 若い医者はなんでダメなんだろう。中年のオヤジに見られるより百倍マシなんじゃないのか? まさか、祥子が医師の経験不足を論じているとも思えない。

 今の俺は外見こそ女子高生だが、中身はバリバリの男子高校生なのだ。見られたくないなんてオトメな感情は持ち合わせてはいない。

 しかし、愉快かと聞かれればそうではない。どちらかという不愉快だ。これは、最愛の彼女の裸を若い男性の医師に見せることへの嫌悪感か、クラスメイトの心を一瞬にして奪った地位のある大人の男に対する嫉妬心だろうか。


 祥子が先に呼ばれる。

 彼女は隣に立つ中年の女性看護師にファイルを渡すと黙って椅子に座った。

 検診医がペンライトで祥子の目や口の中を診る。


「はい、じゃあ捲って」


 看護師の非情な指示が飛ぶ。その瞬間、祥子の身体がわずかに震えた。

 彼女はおずおずと体操服の裾を指で掴むと、検診医の顔から目を逸らしてゆっくりと捲り上げる。向こうに背けた顔は見えないが、セミロングの髪の間から覗く耳たぶは真っ赤に染まっていた。

 祥子。お前も女子だったのか……なんて、女子ですらないくせに俺は感動する。

 彼女は捲り上げた体操服の裾を落ちないように指で押えて胸を張っている。俺にはそれがとても淫靡な姿に見えた。

 もう何度も見慣れたはずの彼女の裸なのに、授業で着替える時とは明らか何かが違う。

 裸を見せるのに抵抗がある若い男性の前で自ら服を捲って胸を曝け出している祥子。彼女は今、一体どんな気持ちなのだろうか。


 のえるの名前が呼ばれる。

検診が済んだ祥子とすれ違うとき、彼女の目にうっすらと透明な液体が溜まっているのが見えた。


「早く座って!」


 祥子の涙に気を取られていた俺は、看護士に怒られて慌てて椅子に座った。


 そして俺は見た。祥子が見ていたものを。


 座高の低い女子の視点からは、目の前に座った検診医がとても大きく力強くそして威圧的に見えた。

 そう感じたのは視点のせいだけではない。これから、この男の指示に従って恥ずかしい格好をしなくてはならない……そんな状況のせいもある。

 まるで自ら望んでいるかのように服を捲り上げて、若い乳房を晒さなくてはならない。それはこれ以上ないと思えるほど屈辱的な行為であり、それを受け入れることは目の前の男に服従することになるのではないか……そう考えてしまったら、もう男の顔を見上げることが出来なくなった。


「どうしたの? 顔を上げて」


 男が口を開いた。今まで一言もしゃべらなかったのに、どうして?

 それは、低く響く心地よくて優しい声だった。

 男の大きな手がゆっくりとのえるの小さな頬に触れる。その手のひらはとても温かく、さっきまで感じていた威圧感が少しずつとけていくのを感じた。

 男の手のひらに促されて顎を少しだけ上げる。


「目を開けて」


 言われるがままに目を開けて男へ視線を移すと、自然と上目遣いで見上げる格好になった。

 ペンライトの光が瞳に刺さる。眩しさに慣れると男の顔が想像以上に近くにあって驚いた。


「口を開けて」


 そのままさらに顎を持ち上げられてしまう。

 仕方なく口を開ける。


「もっと大きく」


 優しいが鋭い指示が飛ぶ。


「もっと大きく開かないかな」


 失望感が混じったような声でそう言うと、男は冷たい金属製の器具を喉に差し入れてきた。ステンレス製の舌圧子だ。それは少しづつ奥に侵入してきて、喉の粘膜にゆっくりと苦痛を与える。

 喉の痛みと吐き気から、まるでアヒルのように浅ましい声が出てしまう。その苦痛がまるで永遠に続くように感じられて涙が溢れた。

 のえるの喉が好き勝手にいじくられた後、差し込まれた時と同様に突然舌圧子が抜かれた。

 喉が苦痛から解放されて激しく咳き込む。


「苦しかったね」


 穏やかな声が優しくささやく。まるで小さな子供に話しかけるような声だ。

 苦しいのはわかっていたはずなのに……。咳き込みながらそんなことを考える。

 そして、声は次の検査の指示を出す。


「では、胸を見せて」


 ついにきてしまった。

 さっき見たばかりの祥子の姿を思い出す。俺も彼女と同じことをしなければならないのか。そう考えた瞬間、背中に電流のようなものが走った。

 そういえばつい最近も似たような事があった。水泳の授業でクラスメイトたちの前で着替えた時に感じた感覚。腰から背中にかけて突き抜けるような衝撃が走って自分がコントロールできなくなる。あの時も、最初はこんな感じだった。

 そして気がついたら更衣室の床に座り込んで体を震わせていた。あれは一体何だったのか。見当もつかない。

 しかし、この検診医の前であんな醜態を晒したくない。

 それだけは絶対に避けなければならない。しかし待てよ。どうしてそれを回避しなければならないのか。何のために? 誰のために? 俺の頭は糖蜜のように混濁し、理性的な思考ができない。


「何をしているの?」


 苛立った様子もなく男の声がうながす。


「早くしないと次のグループが来てしまうよ」


 その言葉に辺りを見ると、どういうわけか俺はグループの最後になっていた。他のクラスメイトは検診を終えて先に保健室を出て行ったようだ。祥子の姿も見えない。

 俺は急に心細くなってしまった。


「君のお陰で次のクラスの検診に影響が出てしまう。早く脱ぎなさい!」


 さっきまで優しい口調で話す医師だと思ったのに、クラスメイトがいなくなった途端に手のひらをかえすように態度が変わった。

 こんな奴の命令になど従ってたまるか。俺は両腕で胸を庇い、男の顔を睨みつける。


「自分で脱げないのかい。それとも手伝って欲しいのかな?」


 手伝って欲しいか……だと? 冗談じゃない。

 オヤジ……と言うほど歳を食っているわけじゃあないけど、男の手で服を脱がされるなんて考えただけでもゾッとする。そう思った瞬間、俺の背中にさっきと同じように鋭い電流が不意打ちのように駆け抜けた。


「んぅ……」


 椅子に座ったままの姿勢で腰が跳ねてしまい、思わず声が漏れる。

 俺は急いで口を押さえた。何かとてつもなく甘い感覚がお腹の中から湧き上がってきそうになる。これはおそらくヤバイ状況に違いない。

 このままだと本当に脱がされてしまう。男の強い力でムリやりに……。純次のいやらしい笑い顔が浮かぶ。


 びくん。


 再び腰が跳ねる。今度は何とか声を出さずに耐えた。

 脱がされないためには一体どうすればいい? 自分で脱ぐ? このまま保健室を逃げ出したらどうだろう。

 逃げたとしても、後日こちらから出向いて検診を受けるはめになる。どの選択肢を選んでも、結局はこの男の前で裸になるのだ。

 ならば自分で見せるしかないだろう。意を決して体操着の裾を掴む。

 ついさっき見てしまった祥子の姿が眼に浮かぶ。まるで自分から望んで男に胸をさらけ出しているような、ひどく淫靡で限りなく破廉恥な姿。

 服をめくる前に胸に違和感を感じた。襟ぐりから覗いてみると、乳首が両方とも腫れ上がっているように見える。大きく膨らんで固く突き出している乳首は痛いくらいだった。

 それを見て、俺は男の身体だった頃の性器の勃起を思い出す。

 これは、女の体が性的に興奮しているということなのではなかろうか。だとしたら、こんな状態の乳首を他人になんか見せるわけにいかない。

 こんなところを誰かに見られたら、内科検診で興奮していた変態だと言われてしまう。

 そして……そして、自分が知るすべての人から蔑まれてしまうかも知れない。

 俺はもう自分を止めることができなかった。

 体操着の裾を再び掴むと、乳首の先が擦れるくらい思い切り捲り上げた。

 今まで胸を包んでいた布地の感触が消えて、自分が今どんな格好をしているのか改めて認識させられる。

 そして唇を噛んで固く目を閉じると、若い男性の検診医に向かって両乳首を差し出すように胸を張った。

 やってしまった。このいやらしく勃起した乳首を、いま自分が性的に興奮してしまっているという明確過ぎる証拠を男の目の前に曝け出してしまった。

 目の前の男は、その淫靡な証拠を見せつけられて一体何を思うだろう。

 腰の奥の方から背中にかけて三度目の電流が走った。


 来た。


 それは今までよりも強烈で、身体は一切のコントールを受け付けずにガクガクと痙攣のような震えを繰り返し始める。

 検診医は俺の状態を見て何事かと驚くだろう。看護師は慌てて何か口に噛ませるものを探すかもしれない。

 しかし俺にはそんな様子を想像することしかできなかった。

 更衣室の時よりもさらに大きな幸福感と快感の奔流に飲み込まれて、もはや自分がどんな姿勢をしているのか、手足はどこにあるのか、声は出てしまっているのか、そして……呼吸をしているのかどうかさえ、もうわからなくなってしまっていた。


◇◇◇


 どこか遠くでチャイムの音が聞こえて目が覚めた。

 辺りを見回すと、まだそこは保健室のようだった。検診医も看護師もいないが、目の端に見覚えのある姿が映る。


「目が覚めたのね。気分はどう? 立花 のえるさん」


 今朝、廊下ですれ違った『マコ様』が、パンストに包まれた細い足を組んで保健医の椅子に座っていた。


「貴女、あたしに何か相談したいことがあるんじゃないかしら」


 そう言うと、マコ様は俺を見下ろしながら微かに微笑んだ。

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