2-12.黒い光と豚

 村の中でゆったりとしていた白靄が少し晴れ、ようやく視界がはっきりとしてきた。いくつかの大きな靄の固まりは歩みをレフと揃えるカインの足にぶつかって左右に流れているが、頭部に陽の暖かさを感じるほどくらいまでには消えかかってきている。村というより、やはり集落と呼ぶべきここに、確かに見覚えがあるような気がしてカインは周りを確認する。


 牛舎のようなものが一つと、手で数える程度しかない家が数軒。ナナカマドの実の赤さは白を基調とした風景にまぶしい。藁はそこら中の家にくっつくように積まれていて、それを運ぶ女と目が合った。怯えを残して逃げられる。見知らぬ女性で、向こうもカインを知る様子は微塵もなく、落胆のため息をつく。他に誰かいないかと辺りを探すが、残念ながら人影一つ見当たらない。


 初夏の訪れを祝う村祭りで踊る男女、延々と続く枯れ木と荒野、顔の見えない誰かと笑い合った酒場、断片のような景色が脳裏に現れては消えていく。白き集落を歩けば、少しは何か、自分の根本に繋がるものを思い出せるかと期待したけれど、周りの靄がそれこそ頭の中に入りこんだように上手く思考を働かせてくれない。


「すみません、カインさん」


 カインとノーラへ集落の存在を口外しないことを約束させたときよりも、幾分か穏やかな口調でいきなりレフが言うものだから、カインは思わず足を止め、己の胸より低い位置にあるレフを見下ろした。彼の顔近くにたゆたう白靄と比べて、レフの髪や瞳は神秘的な青味があってなんとはなしに見入ってしまう。


「なんのことだ?」

「ベリさんと喧嘩のような真似までさせて」

「……喧嘩?」


 全く思い当たるところがなく、カインは小首を傾げた。確かに先程、ノーラは石目蛇バジリスク討伐には着いて来ず、代わりにイグローへの手紙を書くため待機する、という結論を出した。イグローは未だ帰還せぬ己らに疑問を抱いているだろうし、不審に思われぬ理由を作り上げなければならない。だから、ノーラは残る。妥当だとカイン自身納得できたし、何よりそろそろ一人で討伐をこなせるようになるのも大事だ。それらを決めるまでのやり取りが、レフには喧嘩のように映ったのかもしれない。


「あれは、いつもの会話だ」

「そうなんですか? でも、ベリさん、少し機嫌が悪そうでした」

「彼女はあまり朝に強くはないらしい。大抵不機嫌だ」


 己でも不器用な誤魔化し方だ、と内心で苦笑する。きっとノーラは違うこと、カインの知らぬ理由でなんらかの怒りにも似た何かを抱いている。そのくらいわかる程度には、ようやくなれた。でも、わざわざ事実をレフに伝える必要はないだろう。心に潜む感情を共感させてくれないことに、ほんの少しだけ悲しみのようなものを抱いてはいるけれど。レフは話をはぐらかされたことがわかったような面持ちをしているが、ありがたいことにそれ以上追求しては来なかった。


 レフがようやく、再び足を動かして少し先を行くのを見てからこっそり、気付かれぬ程度の呼気を吐く。嘘は相変わらず苦手だが、それをすらすら口に出せるようになってしまったのは成長と呼ぶべきものなのだろうか。カインにはわからない。周りにはやはりほとんど人は見当たらず、耕された畑やむき出しの農作物が寒々しい。


「ここには人が、あまりいないんだな」

「今は眠っているものがほとんどです。昼くらいでしょうか、動き出すのは」

「それもここの決まりというものなのか?」

「交代で買い出しや見張りはしますね。当番制にしてあります。最近は井戸が使えないから、よく水を買いにはぼくも行きますよ」

「石目蛇が出て何日経っている?」

「一の週を過ぎました。一応、井戸の辺りには蛇に冬だと思わせておく術は交代でかけてますけど、そろそろ皆限界で」


 石目蛇は冬には出ない、それはノーラも話していた。詳しい討伐の方法は、カインが報酬代わりに出した提案をレフにこなしてもらってから一度家に戻り、それからのことだ。


「そう言えば、本当にいいんですか? 報酬の話」

「ああ。塔の中を見せてくれるだけで構わない」

「そうですか……」


 それはカインが決めたことだった。本当は別に、この村に伝わる古代の金貨とやらを提供してくれるはずだったらしい。だがそれを断り『詞亡くしものいじん』のいる塔の内部を確認させてもらう、それがカインの出した交換の報酬だった。記憶に関わるかはわからないが、少しでも何かを掴むことができればいい。どんな財宝より、カインにはそっちの方が重要だ。


「変なことを頼む、と思っただろうか」

「はい、ちょっとだけ……ああ、あれです、見えてきました」


 少年特有の生真面目さを口にして、レフは右奥を指す。そこには鉄の扉で周囲を拒む、石造りの塔があった。木造のものが大半の集落で、やはりそこだけ異質なようにカインは思う。塔はキュトスス領主の館にあった見張り塔より小さく、でも、殊魂術アシェマトで存在しないと思わされていなければ、エペーサや街道からも覗けるくらいには、高い。見上げるカインを置いて、レフが衣の隠しから鉄の鍵を取り出す。やはり長ということもあってなのだろう、管理は彼がしているようだ。二つあるうち、手慣れた手つきで一つの鍵を差しこみ、それから辺りを見渡した。


「……外部の方を入れるのは、ぼくが長となってはこれが初めてです。絶対に口外しないで下さいね」

「約束は守る」


 頑なさをこめて頷くと、レフは一瞬、ためらうように手を止め、それからゆっくりと鍵を回した。重い鉄の扉が開かれ、辺りに錆ついた音をこだまさせる。レフは素早く中に入り、カインを手招きした。小さな隙間へ体を押しこむように、カインは無理やり塔へと入った。


 塔の中には腐臭に似た何かが立ちこめていた。むせかえるような匂いは胃をひくつかせるものではなくて、鼻の奥にこびりついて離れない粘っこさを孕んでいる。窓がない、しっかりと隙間を固められた石造りの塔には射しこむ光などなく、全てが暗闇だ。だが、頭のどこかが痛んだ。それと同時に水妖馬ケルピンを殺したときに見た、チカチカと点滅するような黒い瞬きは上から降り注いでいるように思えて光源を探したけれど、そんな奇妙な輝きを放つものはまだ見当たりそうにない。


 でも、とカインは胸の辺りを抑え、唇を噛んだ。どこかで見たことがある暗闇だ。体臭などの臭気によどんだ空気にも記憶の端がくすぐられ、先が気になってたまらない。後ろでレフが火打ち石を鳴らす音を立てる。直後、暖かみのある炎が周囲を照らした。それでも奥に固まる闇は深く、一つの明かりでは曝かれない強固さを持って存在している。レフが円形の一階を周り、全ての松明に火をつけると、中央に螺旋状をした階段があるのが見えた。でも、火が灯されてもなんの音もせず、塔の中は恐ろしいほどの沈黙を保っている。


「『詞亡くしもの』たちは、上です。行きましょう。足下に気をつけて」


 レフが持つ一つだけの松明は確かに灯っているが、この塔の中ではずいぶん頼りなさげに思えた。少年に先導され、ゆっくりと上を目指す。階段を一つ上るたびに嫌な音が立ち、作られたかのような沈黙の中大きく反響する。螺旋を登っていくたび匂いは濃くなり、カインの心臓は大きく脈打つ。気配はないけれど、嫌な気配がしてならない。


「十数年前に詞亡王しむおうがここいら、キュトスス近くの海岸までに現れたことがあります。外にいた人間はことごとく餌食にされました」


 まるで自分に課しているみたいな、落ち着き払った声音はレフをいっぱしの大人のように見せ、かがり火に光るおもてはそれでもどこか青ざめているように感じる。事実だけを述べている声に抑揚はなく、白い容貌は周りの暗がりと相まって不気味さに拍車をかけていた。


「その大半が討伐されましたが、残りはここに」

「『詞亡くしもの』は、そんなに恐ろしいものなのか?」

「誰もが怖れる、それは当然だと思います。詞亡王の手足となって全ての命を壊すために働く、そんなを忌まない人間はいないでしょう」

「だが、人……だったものなのだろう?」


 己が漏らした心情に、レフは足を止めて顔だけをゆっくりとこちらへ向ける。


「人というものは、何をして人たり得るのですか?」


 青色を仄かに光らせた白の瞳に絶望を見て取り、カインは思わず唇を引きしめた。それほどまでに、レフの顔は氷のように凍てついていた。


「動けて口がきけること? 殊魂アシュムを持つこと? でも、そのどちらも彼らにはない。喰われてしまったから。ならばぼくたちは、彼らを他になんと呼べばいいのでしょうか」


 レフの問いに対する答えを、カインは知らない。『詞亡くしもの』に対する恐怖も絶望も、また。多分レフが背負う重さの微塵もカインは持ってはいない。けれどカインが何かを口にしようとする前に、孤独のような寂しさを壁にしたレフは前を向き、心なしか足取りを速めた。謝罪するべきか、でもそれも何かおかしい気がして、カインは黙って彼の後に続く。そうして二人とも無言のまま塔の天辺に辿り着くと、より深い臭気がカインの鼻に滑りこんできた。松明に浮かび上がった鉄檻は一つではない。


 最上階に作られた鉄でできた檻の中には、何人もの人間――だった存在が押しこまれ、積み重なり、匂いもそこから立ちこめている。体臭と腐臭の二つ。そこにものは誰もが死んでいるようで、まだ生きている。無表情をこちらに向けていたり、ここではない何かを見つめていたり様々だったけれど、彼らが共通して背負っているものは、虚無だ。黒い髪には蠅がたかり、四肢のどれかを失ったものの断面には蛆がたかっている。


 生命の尊厳、最低限の自由である自害すら奪われた彼らを見て、カインの脳裏は考えることを放棄した。けれどやはり、どこかで見たことのある光景が、彼らから目を背けることを許さない。レフもまた、己が背負うもののために目を逸らさず彼らを見つめている。彼らは松明の炎ではない黒い瞬きを周囲にまぶしていて、それが点滅するごとにカインの頭蓋は押されるように痛んだ。おぞましいほど気味の悪い光景を、果たして己はいつ、どこで見たのだろう。


「近いうちに誰か、また死にますね。燃やさなければならない」


 坐に還る、その言い方を良しとしないレフの言葉は酷薄で、でも何も言えなかった。『詞亡くしもの』に土葬は許されない。存在を消す証したる火葬でもって、ようやく彼らに安らぎが訪れる。檻からはみ出た鶏がらのような細い指に、壊さないような優しさでカインは触れた。黒い光が集まり、そのつど指先が氷でできているように冷たくなっていく。瞬きはぞっとするような悪寒をともない、己の中に入っていくように感じた。寒気にも似た怖気はカインの顔から血の気を奪わせ、体のぬくもりをすらむしばんでゆく。


「これでもまだ、彼らは生きてます。飲み物を注げば反射的に吞みこむし、柔らかい食事なら咀嚼する。でも、それ以外になんの反応も見せません。声をかけても……それこそ触れられても」


 カインの所作に、レフは追い討ちをかける言葉を呟く。もしかしたら昔、少年も似たような真似をしたことがあるのかもしれない、そんな懐古すら思わせる顔つきでカインを見つめたまま、カインが自然と膝を突くのを待った。


 黒い瞬き、むせかえる悪臭、蠅の飛ぶ音、あらゆる五感を不快に刺激され、カインの脳裏に記憶の断片が浮かんでは消える。でも、それこそ淀をふさぐ檻のようにカインの記憶は頑なさをもって動かない。喉元に何か、小骨でも引っかかったようなむず痒い感覚。取り出せぬ難しさと彼らの境遇に対する同情が、カインの顔をうつむかせる。黒い瞬きは蛍が川に集うようにカインの周囲を飛び交い、わからないままの不安を揺り動かすように瞳に焼きついて離れない。


「……一度、戻りましょう」


 どのくらいカインがそうしていたのか、己自身もわからなかった。記憶にはっきりとした光が戻ることはなく消え失せ、残ったのは胸に堆積する苦く重い悲しみだけだ。そんな心を慰めるようにかけられたレフの声音はあまりに優しく、透き通るような柔らかさを持っていた。


「討伐は、夜です。半日過ごすには、ここはあまりにも寒すぎる」


 声に導かれるようにして、カインはゆっくりと少年を見上げた。あきらめの境地に達した顔は、苦渋すらつゆほど感じさせないくらいに暗闇の中で動かぬままだ。人とは何か。レフの言葉が頭の中で何度も何度も繰り返される。わからない、とカインは暗い感情をともなった思考のまま、誰にともなく首を振る。殊魂すらわからぬ己に、答えを出せるはずがない。差し出された片手をも拒んで、カインはしばらくの間つららのような指に触れながら、記憶が動いてくれることを待った。


  ◇ ◇ ◇


 ノーラはレフがくれた羊皮紙をほっぽり出して、家の中をくまなく探索していた。棚や家具、洋服から寝台の下まで確認した後、やはり自分の勘はあっていたと確信する。ここにはもう一人、誰かがいる。でも気配なんてなく、唯一探せていないのは木造の家に似つかわしくない、頑丈な鉄の扉の奥だけだ。かかっている鍵を見るが、手持ちの武器で上手く開けられるかはわからない。鍵開けの技術はあまり得意ではなく、でも重く冷たい錠にこじ開けようとした痕跡を見て取る。大切なものを曝こうと必死に、何度もつけられたであろう傷痕を見たノーラの理性は警鐘を鳴らしている。これは、レフの仕業ではない。錠に触れた指に、血液の香りにも似た鉄錆がついている。傷をつけたであろうその力は強く、少年ではこうはならない。しかも開けようとしてできた傷を上から鉄錆で覆い、あまりわからないように工作すらしている。故意につけられた傷と家の持ち主をあざむく悪意が、ノーラの背筋を震わせた。


 誰かがいるとしたら、この中しかない。かといって鍵を開けるにはあまりにも私的な事柄に過ぎて、ためらう。そのとき、不意に誰かの気配を外から察知し、ノーラは反射的に影蛇を出した。そして獣脂の灯火でできた壁の闇へと滑りこむ。カインの足音ではないし、レフのものにしては軽すぎる。物陰に隠れた影蛇と繋がった視野が、裏口から入ってきた中年の男をとらえる。


 男は辺りを注意深く気にしながら、慣れた足取りで真っ直ぐ鉄の扉へ向かった。そして堪らずといっていい勢いで、鉄の錠をせわしなく動かしはじめた。耳障りな音がする。狂ったように鍵を開けることに熱中する男は蛇の視線にも気付かず、どこか夢中になった様子で針金を鍵穴へ入れている。恐ろしいまでの集中に、ノーラは闇の中で見知らぬ男への警戒を強めた。飛び出そうか悩んでいるうちに、激しい錠の音が止む。家の中が少し軋んだのは扉を開かれたことを意味していた。男は熱に浮かされたように扉の奥へ入っていく。橙の色をした粗末な光は蝋燭の明かりで、影蛇を通し、ノーラは見た。閉ざされていた部屋の奥、そこに一人の少女がいることを。


 齢はレフと同じくらいだろう、白い簡素な衣は痩せた体に大きく、その分胸の膨らみが目立つ。ざっくばらんに切りそろえられた背中までの髪に艶はない。けれど、美しいといっていい少女だった。寝台に寝そべったまま天井か、遥か先のどこかを見つめて微動だにしないその瞳が黒でなければ。髪もまた、黒くなければ。『詞亡くしもの』。ノーラは氷を胸中にぶちこまれたかのような衝撃に堪え、手で口を覆う。でも影蛇の目は自分の瞳と同化しており、その先すら見つめてしまう。


 忌避すべき少女へ、しかし男に怖れる様子はこれっぽっちもなかった。まるでここが、その部屋は自分のものであるかのように我が物顔で、横たわる少女の上へ覆い被さる。荒い息が聞こえる。興奮を抑えきれず涎を垂らす男の姿は、獣以下に思えた。少し厚い唇を舐められても、衣の中から肌を無骨にまさぐられても少女は動かない。否、動けやしない。五感も言葉も奪われて、ただ生きた屍と化した少女は、男の慰み者になっている。おうおうと豚の鳴き声にも似たあえぎが漏れ出たと共に男の体が激しく前後に動き出し、寝台が揺れる様子まで確認した後、ノーラは耐えきれず影蛇を消した。視界が闇に包まれる。冷たく、何も聞こえない闇の中で、ノーラは人の所行とは思えぬおぞましさにただ打ちのめされている。吐きそうになり、胃の痙攣を必死で堪えても、目に焼きついた光景は離れてくれそうになかった。行為そのものに嫌悪はない、娼館を営む友人だって中にはいる。けれど、これは許されざることだ。決して人が冒してはならない領域を、男は易々と踏みにじり、摘んではならぬ花を手折っている。


 術にだけ集中し、波動を切らぬよう必死で耐える。今部屋に上がったら、ノーラは間違いなく男を殺す。男の命がある限り死ぬことを放棄するくらいにまで、残虐なやり方で苦痛を与え続けるだろう。そうしろと感情はいう。けれどそれを理性が止める。レフは、とこみ上げる胃液の苦さと男の醜さに顔をしかめながら、波動の熱さと怒りを抑制し、思う。こんな非情を、あの大人びた少年はどのように許しているのだろうか。

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