2-11.防人の村にて

 目が覚めた瞬間からすぐにノーラは行動を開始していた。武器の有無、今いる一軒家の間取り、窓、出口、裏口とそれぞれ確認してから自分たちが今、軽い軟禁状態にあることを理解し、取られることなくあった斧を影に隠した。ため息をついて、唯一ある居間の窓に目をやる。外は一面白い靄のような霧に覆われていて、その層は厚い。まるで手ですくえるかと思えるほどに。近くに木々はあるようだが、その梢すら白い靄に覆われ秋風に震えている。家の内装は簡素で、でも扉だけはやけに頑丈だ。鉄でできた鍵がつけられている扉は二つあり、どちらも開かない。いっそ壊してしまおうと思ったが、穏やかすぎて間抜けに見えるカインの寝顔を見てその気力を失った。


 朝の陽光は靄を通して薄く、かすかに家の中を照らしている。食器や本、木の机と椅子、それらは大人が使うものばかりで、眠りに落ちる前に見た白髪の少年を連想させるには難しい。自分に異変がないかあちこち探してみたけれど、取り立てて何も奪われておらず、されてもいない。夢すら見ずに目を覚まして、それからちょっとした時間の隙間に家を探索してみれば、なんてことはないただの小さい一軒家にいるだけのことだ。だけどそれは自分の状況を変えるほどの発見ではなく、仕方がないからノーラは未だ、自分が目覚めた床に転がっているカインの頬を軽く叩いた。


「ちょっと、ねえ」


 健やかすぎる寝息に腹が立ち、もう一度強く叩いてもカインは目覚めそうにない。これが刺客であったなら、とノーラは目をすがめた。もう、二人とも死んでいる。寝ている間に死ぬのはごめんだ、とノーラは再度ため息をついて、カインの側に座る。今いる部屋に寝台はちゃんとあるが、多分運べなかったのだろう、使われることがなかった寝布は綺麗にぴしりと広げられたままだ。肌寒さを感じてそれを引っぱり、くるまる。そのとき鍵をいじくる音がして、誰かが入ってきたのをノーラは肌で感じ取った。


 殺気は怖いくらいない。カインも起きそうにない。それでも、いつでも戦えるように髪飾りに模した指にはめる形の鉤爪バーナウを片方だけ取り、それを隠すように寝布に体をくるませたまま、居間でせわしなく動いている人物に近付く。音を立てぬ足運びに、居間にいる少年は気付かない。間違いない、昨夜の少年だ。少年が持ってきたのか机の上には麺麭ブケが四個、それから生の林檎やイチジク、少し黄ばみの強い牛酪の塊があり、筒盃フィッザもちゃんとある。


「それって私たちの朝食?」

「わっ」


 慣れたような手つきがノーラの言葉で乱れ、少年は危うく果物を切ろうとした短刀を落としそうになる。その様はとても武道に長けたものではないとわかるほど鈍いが、ノーラは緊張をほどかない。少年はようやく手に収まった短刀を机に置いた後、心底驚いたようにノーラを見つめる。首までの髪も瞳も白く、瞳孔は微かに青いが、どこまでも薄い。まつげすら白くて持っているだろう殊魂アシュムを想像し、ノーラは内心ぞっとする。ここまで強い白を持つ人間は、そういない。


「ええと……おはようございます」

「……おはよう。おかげで久しぶりにゆっくり寝られたわ」

「まだ早いですよ? 朝鐘も鳴ってませんし」

「あんな状態で眠れる人間じゃないの、あっちとは違って」

「すみません、寝台に運べなかったんです」


 少年はこれまた申し訳なさそうに言って、眉を下げる。年の頃は推定して十二、三か。声変わりもはじまらないほど柔らかい、女の子のような声音はやけにしっかりした口調だ。背筋も伸びていて、風格すらある。少年から敵意なんて微塵も感じられず、ノーラは完全に毒気が抜かれた。ちぐはぐな感情が沈黙を呼び、でもそれも、遠くから反響する鐘の音に破られる。朝を知らせる鐘は寝ているカインに届いているだろうか、そう考えたとき、背後の部屋で小さな呻きが聞こえた。


「連れが起きたわ。呼んできた方がいい?」

「そうしてくれると嬉しいです。あの、すみません、あなたを巻きこむつもりはなかったんです」

「用があるのは彼、そうね?」

「はい」


 ならばとノーラは大股で寝布を引きずり、ぼうっと窓を眺めて座りこんでいるカインの元へおもむいた。手元にある剣を確かめようともしないカインへ苛立ちの混じった嘆息を投げかけると、初めてカインは起きてから、ノーラの方を見た。


「おはようお寝坊さん。ずいぶんぐっすり寝てたみたいだけど、調子はどう?」

「……ここは」

「どこかの家」


 カインは答えに満足した様子はなく、困惑しきった顔を作る。それからもう一度窓を眺める。どこか遠くを見定めるかのように。


「俺は、ここを、知っているかもしれない」


 絶望の淵に残った希望を、あっさりと見つけてしまったかのような声音。窓の外を見つめるカインの髪が、靄を透かした朝日にまたたく。ノーラは思わず立ちつくして口をわずかに開いたまま何も言えない。しばらくの間考えこむようにうつむき、それからカインは希望の灯火を不意に失ったみたいに頭を振る。


「思い出せないが、似たようなところなのかもしれない。外に出ないとわからない」

「……そう」

「だがこの腐臭は、どこかで嗅いだことがある気はする」

「腐臭?」


 ノーラは思わず鼻をひくつかせた。木や本の香りがわずかにかすめていく程度で、カインの言う匂いなんて微塵もせず、言葉の意味がわからない。もしかしたら突然訪れた記憶の発芽で、わずかに残っていた何かやどこかの過去を混乱して思い出しているのかもしれない、とノーラは勝手に考えた。


「とりあえずあなた待ちの人がいるから、ちょっと居間にきて」

「……わかった……」


 呆けたままでカインは小さくつぶやいた。その姿はどこか儚げだ。記憶を失うということは、生きていく指標を失うことだと寝布をたたみながらノーラは思う。カインはきっと悩み続けているのだろう、軽く丸まった背中を見てからそっと視線を外した。もし自分に置き換えたらどうなるか、そこまで考えて止めた。気付かぬ恐れから目を背けるように。


  ◆ ◆ ◆


「僕は、レフ。レフ・エニュナと言います。闘技会で優勝したカインさんに、どうしてもお願いがあってここに連れてきました」


 四つの椅子のうち、一つを空席にしたまま会話ははじまった。残念ながらこの家自体にも、少年――レフにも見覚えはなく、彼もこちらを知る様子はなかったが、筒盃に注いでもらった葡萄酒に口をつけながら、奇妙な名だなとカインは小首を傾げる。白の九。名前を直訳するとそうなる少年は、正方形の机を囲む中で異質なほど存在感が強い。ハンブレも美形だが、少年もまた負けてはいなかった。でもそれは、少年と青年の間にだけに持てる頃合いが与えた貴重なまでの美しさだ。


「なるほど、私はとばっちりってわけね」

「はい、そうです。すみません」


 イチジクをつまみながら肩をすくめるノーラにレフは謝辞を述べるも、決して気弱なものは感じない。歳のわりにしっかりしている、そうカインは感じた。


「すまないが、ここはどこら辺にあるんだ?」

「エペーサの町近くにある小さな集落です。でも、皆は防人さきもりの村と呼んでいます」

「え、防人の村? ここが?」

「知っていますか、防人を。ええと」

「……ベリ。ベリ=ノーラ」

「ベリさんは、防人のことをわかっているんですね」


 ほのかに悲しみを含ませた微笑みを浮かべ、レフがまたカインを見つめる。防人という単語が何か引っかかりそうで、でも掴んだのは空虚だ。軽く首を振ると、レフは納得したかのようにうなずいた。


「防人は『詞亡くしものいじん』を監視する役割を持ったものたちのことです。防人の村は他にもあって、大半が領主様から直々に勅命を受け、その任に当たります」

「なるほど、昔ながらの方法を採ってるってわけね。さすがキュトスス樸公ぼくこうだわ」

「どういうことだ?」

「最近は『詞亡くしもの』を見つけた場合、すぐに殺す場合が多いの。いつ襲われるかわからないから。天護国アステールの法律が十数年前に変わったのよ。神殿の過激派は反対しているけど」

「なぜだ?」

「実験ができなくなるから」


 ノーラの声は簡潔を通り越して寒々しい。おもてに表情はなく、だからこそ余計に丁寧な食事の所作が目立つ。


「この集落、まさかキュトスス内の『詞亡くしもの』を一箇所に集めてるの?」

「いえ、さすがにそれは。僕たちは領都近くだけを担当しています。それ以外は、その、ベリさんが言ったようにしているようです」

「だが……相手は人、なのだろう?」

「正確に言うと元は人ね」


 どこか検のある物言いには棘がふんだんに含まれており、もしかしたらノーラは彼らを嫌っているのではと予想がよぎる。荊のように固い声に反論が上手くできず、カインは黙って切り分けられた牛酪の欠片を口に運んだ。


「この村には塔があり、そこに『詞亡くしもの』は収監されます。僕たちはその動きを監視、もしくは」

詞亡王しむおうが現れた場合、殺害」

「……そうです。詞亡王の武器は本体でもあり、同時に『詞亡くしもの』全てでもありますから」


 レフは唇を引き締め、ノーラの答えを素直に認めた。でも、どこか辛そうに体を硬直させている。カインにはなんとなくその気持ちが分かる気がした。例え五感と言葉を失う生きた屍となろうが、やはり人は人として感じたい。そう思うのは間違っているのかわからず、カインは知らずのうちに食事の手を止めていた。レフも飲み食いすることなく顔を軽くうつむかせたままで、でもおもてに刻まれた苦渋の跡は彼を大人のように見せる。


 外を覆う靄よりも重い沈黙。ノーラだけがゆっくり林檎を食べていて、話を元に戻そうとはしない。林檎を咀嚼する音は遥かに大きく耳に入り、訪れた苦しい静けさは思わずカインの口を開かせる。


「塔があるなら……かなり巨大なもののはずだ。人を、その、収監するというなら。だがここの塔などどこからも見えなかった」

「それは、見えていないようにするんです。白の殊魂術アシェマトで。そこにあるけど見えない、そういった結界を張っています、かなり昔から」

「長のあなたを初めとして、かしら」

「どうしてわかるんですか?」

「あなたは白の名前を冠している。それくらい少し考えればわかるわよ」


 そういうものか、とカインは心の底から感嘆した。相変わらずノーラの知識と頭の回転には驚かされる。同時に、奇妙な名に合点はいった。白の九、という名は、九番目の長だということを示しているのだろうか。まだ年端もいかぬ子供へずいぶんな重荷を背負わせる事実に、己のどこかが痛むようにうずいた。


「それで、彼にお願いって何? 私たち先を急ぐんだけど」

「あ、はい。お願いしたいのは、村の外れに巣を作った石目蛇バジリスクの討伐です」

「石目蛇……鶏冠竜コクトルスの亜種だったな、確か」

「そうです、気付いたときにはもうかなり大きくなっていて」

「待って。それっておかしいんじゃない? 道理に合わないわ」


 確かに、とふと芽吹いた疑惑がカインの思考を覆う。領主管轄の村なら騎士はいるだろうし、何より領都に使いを出して依頼するのが筋だ。でも、レフは秘密をそっと暴くような小声でささやく。


「この村は秘匿とされています。エペーサにも領都にも近い。そんなところに『敵』となる存在が集められている村なんてあったら……」

「潰されると?」

「正直に言ってしまえば、そうです」

「それだけじゃあ説得力に欠けるわね。ここが何年前からあるのかは知らないけれど、領主が管轄している以上、跡目もそれを知っているのが当然でしょう。にだって内密にでも頼めるはずよ」


 ノーラの切りこみは鋭く、容赦がない。レフははっきり言われて少し顔をしかめた。机に置いた拳を握り、迷っているみたいに唇を噛む。


「……この村にいる全員は血縁者です。そして皆の殊魂が、白。ぼくは確かに世間に疎いですけど、そんな村、他に聞いたことはありません」


 白は貴重。そんな旨を述べていたフィージィの言葉を思い出して、カインは思わず溜めていた息を一気に吐き出した。


「ここが知れたら、それこそ神殿が動き出します。ベリさんが言っていたように、過激な神官も中にはいますから……跡継ぎの彼女も神官で、しかも殊魂学者ですし」

「普通の組合に頼むこともできず、領主は頼りにできない、そういうわけね」

「はい。なのでその、代表としてぼくが信用できそうな強い方を探しに出たんですけど」

「どうして俺なんだ?」

「強いのは闘技会の戦いぶりでもわかりましたし、それに、見ていて驕りがないというか」

「隙があったから、とか?」


 ノーラの揶揄するような口ぶりに、恥じ入るようにレフは顔を赤くした。カインは己の以前を思い出し、確かに邪気以外に気を払ってなかったことを内心認める。ノーラは、もしかすればそんな己に怒っているのかもしれない。なんの感情も出さぬ彼女の思考を読み取るまでには、あまりに己の技量が不足していて、レフの前で訊くこともできないのだけれど。レフが注目を集める老人のようにした小さい咳払いで、ようやく我に返る。


「村から少し出たところに井戸があるんですけど、そこに住み着いてしまって。普段<妖種ようしゅ>なんてここに入って来ないのに」

「一般よりも強力、というわけか」

「そうだと思います、一体だけですけど……でも、普通に戦えるような人間はこの村にいません」


 無力さを悔やむかのような声音はカインの心に素直に響いた。同じ長でもイグローとはこうも心象が違うものか、カインは先程から驚いてばかりだ。少なくともイグローよりレフの方が好感が持てるし、力になりたいと自然に思わせる。ノーラはどうだろう、レフから彼女に視線を移せば、人形みたいな顔のまま腕を組み、椅子に背を預けたまま動こうとはしない。勝手に決めていいのか一瞬悩んだけれど、村を見るいい機会だ。頭の底でうごめく何かが、カインの心を決めさせた。


「わかった。そういうことなら、俺は手を貸す」

「私は」


 かぶせるように続けたノーラが静かに、閉じていた瞳を開ける。


「私は、行かない」


 濃淡を描く青い瞳が、まるで氷をまぶした雪のようにきらめいた。

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