2-7.あらがえぬ衝動

 まるで脳天に穴を開けられて、そこに雷を直接叩きこまれたかのような感覚をデューは覚えていた。叫びたくて溜まらない衝動を、まだ止まない熱気の渦に押されて吐き出したくなる気持ちを必死に耐え、くぐもった呻きだけが漏れる。歯が痛い。薄っぺらい茣蓙ござに座って麻痺した尻のことも気にならないくらいに。ぎりぎりと頭の奥を締めつける感覚。息もうまくできなくて、外套と頭巾を被ったまま、気付いたら握りしめていた拳を片手で押さえる。周囲の歓声は止むことを知らぬように、空になった闘技場中心に向けられていて、そこに飛びこみたい思いだけが強い。


 カインのやつ、と心臓を早鐘のように脈打たせながら、デューは唇だけを震わせる。やりやがった。シェパトの野郎を一回で叩きのめしやがった。一人観客席で動かぬデューを、誰も気に止めてはいない。誰として、一人も。鼻の下までを覆う布が荒い呼気で湿る。高い位置にある観覧席ではイグローが満足したような顔を浮かべていて、その横にいる姉は、フィージィは当然だと言わんばかりに誇らしく胸を張りながら、彼と何やら話を続けている。もし、あの場で立っていたのがオレだったら、彼女はどうしただろう。答えは分かりきっている。彼女はここに来ない。


 自分が五戦してやっと勝てた相手を、カインはたったの一戦で倒した。その手腕は見事で見習うべきだと理性は告げる。でも結局勝てたのなんて、と暑苦しい空気の中、デューの気持ちは見えないけれどしみ出してくる影みたいな何かに取って代わり、それはまるでほこりのように蓄積して確かな存在となる。うるさく反響する歓声の中、カインを呼ぶ声が大きくて、なぜだかそれが耐えられそうになくて、デューはゆっくりと席を立って歩き出した。後ろの男が罵声を浴びせてくる。男は自分が『閃風せんぷうのデュー』だと知っているのだろうか。でも、そんなことやっぱりどうでもいい、些細なことのように思えてデューは背を丸めて階段を降りていった。本当に、と唇を噛む。名前を呼ぶ声が、うるさい。


  ◆ ◆ ◆


「……はい、これで終わり。骨折してなくて良かった」


 体中あちこちを軟膏まみれにされたあげく、全身の大半を包帯でぐるぐる巻かれ、あまり身動きが取りないカインの肩を叩くノーラは上機嫌だ。音が外れた鼻歌が出ていることにも多分気付いていないほど気分は良さそうで、疲労しているカインはちょっとだけ羨ましく思う。そして推測する。多分己が勝つ方に賭けていたな、と。


「軽く見たけれど、肉離れも起こしてないみたいね」

「ベリ、しゃべり方が」

「別に個室だし、二人きりだからいいじゃない。人の気配もしないし」


 石で囲まれている部屋に、ノーラの鼻歌だけが響いていること、そして樫の木でできた頑丈な扉の外には確かに誰の気配もしないことを確認してから、カインは石目模様の天井から視線をノーラにやった。彼女は手にしている袋に貝ではなく、平べったい丸い器の中に入っている軟膏を片付けはじめており、その器に刻まれている精緻な模様から大分値が張るものだとカインにもわかった。やく軟膏の中でも、自己治癒能力を多少強める効果があるもので、それにはすり潰した鉱石が混ざっていることをカインは知識の中で知っていた。


「閉会式が終わったら、一応医者に診てもらいましょうか。速いところ治ればそれに超したことはないんだし」

「……そうだな」


 医者は患者のどこかにあるという鉱石の波動と波動をあわせ、治癒をもっと速くうながす術や骨接ぎのやり方を持つこともわかっている。でも、と軽く体を寝台の上で動かしてみるが、そこここが鈍痛と筋肉の軋みを上げるだけで、骨に異常はなさそうだ。先程までとは違い、意識と目線もはっきりしている。軽い頭震盪ずしんとうを起こしたのだろう、とノーラが言っていたような気もする。ただ、己が気付いていない箇所で問題が残っていたら、それこそ鶏冠竜コクトルス退治に支障が出てしまう。


 運びこまれたと思われる個室は狭い上に少し肌寒く、寝台も適当なものだ。あとは机と椅子が一脚あるだけで、窓もないためか殺風景にも程がある。そこに、中性的な美貌を持つ琴弾きの姿はなくて、カインは小首を傾げた。


「ハンブレはどうしたんだ?」

「イグローのところ。報酬をもらいに行ってるわ。後は時間稼ぎね」

「時間稼ぎ?」

「すぐにでも閉会式をやろうと思ってたみたい、イグローは。でもあなたは気絶してたでしょう。それで」

「なるほど。借りができたというやつか」

「好きでやってることよ、あいつが。気にすることはないわ」


 言って、薬をしまい終えたノーラがそっと手のひらを額に当ててくる。冷えた手が気持ちよく、ちょっと互いの顔が近付いて、軟膏のつんとする匂いを抑えて涼やかで甘い香りがすきま風に乗り、ノーラから流れてくる。


「まだ熱があるわね。解熱剤は飲ませたんだけど、もう少し量が多めの方が良かったかしら」

「……どうやって飲ませた?」

「鼻つまんで口に入れたわ。まだ残ってるから、少し待って」

「そ、そうか」


 一瞬、己は何かとんでもないことを想像したように思えて、軽く頭を振った。机にある水瓶を取りに立ち上がったノーラをぼんやり見つめながら、己の上半身が裸であることにようやく気付いて内心、慌てる。彼女が治療していてくれたということは裸体を晒したということで、それがなんだかとても恥ずかしく、同時に情けない。口に残っていた嘔吐の後も綺麗に拭われており、前髪が少し湿っているから、多分そこにもついていてノーラが拭いてくれたのだろう。まるで、と気付かれない程度にため息をついた。本物の病人だ。


 機嫌が良いノーラと反して、カインの心は岩を上積みにされたかのように重かった。鈍い痛みがそのまま胸を押しつぶすような感じだ。闘技会で勝った、これで通行証が出る、それでいいと思う反面、己が現した凶暴な一面に戸惑いを覚えている。勝利した喜びなんてこれっぽっちもなく、耳を噛み千切ったときのいやな感触がまだ、こびりついて離れそうにない。覚悟して出た、そして戦いを楽しんだはずなのにそれらの片鱗などカインのどこにもない。達成感をどうにか鼓舞して己を慰めようとするも、見えない壁が邪魔をするかのように上手く働いてくれない。


 またつい、ため息をこぼしそうになったそのときだ。控えめに扉が数回叩かれて、ノーラと顔を見合わせた。彼女は手にした水瓶と筒盃フィッザを元に戻し、すぐに外套の頭巾を降ろした。赤い光が胸元で輝く。


「誰だ」


 ベリに戻ったノーラが鋭く問うも返答がなくて、ノーラは一瞬カインの方を見る。話を聞かれていたかもしれないと思い、手近にあった闘技用の剣に手をかけようとした瞬間。


「オレだよ」


 くぐもった、小さな声がする。聞き覚えのある声は一発でわかった。


「デュー?」


 ノーラもわかったのだろう。眉をひそめた彼女がそっと扉を引いて開けると、そこには青緑の外套を被った人物が静かにたたずんでいた。身じろぎもせずに。戸惑うくらいの時間を経てようやく少しうつむかせていた顔を上げたデューが、ノーラを見てまばたきするのが見えた。


「誰?」

「……私だけど」

「ノーラの姉ちゃん? なんで変装してんの?」

「一身上の都合。あなたこそ、来てたの?」

「ん、まあ」


 デューの言葉はどうにも歯切れが悪く、様子からも覇気が見受けられなくてノーラは困ったような顔をした。カインも同じだ。気力がない、そういうものではないように思えてつい立ち上がろうとしたとき、腹部の痛みで膝を折り曲げてしまう。咄嗟にノーラが腕を出してくれてそれに掴まるも、あまり上手く力が入らない。


「急に立ち上がっちゃあだめよ。デュー、中へ」

「……ああ」


 ノーラの肩を借り、再び寝台に座る。デューは不気味なほど静かに扉を閉め、部屋の隅っこに背を預けている。青緑の外套に頭巾、そして口を隠す布、変装しているという点ならデューも同じだ。わざわざここに来るのに、そんな格好をしたというのだろうか。カインにはよくわからない。


「やっぱシェパトの一撃は、重いか」

「シェパト……入れ墨の男の名前だろうか。ああ、重くて鋭かった」

「だよな、わかる」


 ぼそりとつぶやいて、でもそれ以上会話を続ける気がデューにはなかったようで、空気が濁ったような沈黙が降りる。居心地が悪いのを察してだろう、ノーラが小さな呼気を吐いて、それも大きく聞こえるくらいには静かだ。


「水汲みに行ってくる。後は二人で、どうぞ」


 持ち直された瓶に入った水が鳴るくらいには中身は入っていることくらい、カインにだって、そしてきっとデューにもわかっているはずだ。だがデューはノーラを止めようとせず、カインは言葉に詰まる。沈黙が、痛みよりも大きな重しとなってのしかかってくるように思えてならない。頭巾を深くかぶり直したノーラが外に出て、扉が閉まり、ついに部屋にはカインとデューの二人だけになってしまった。


 何から話せばいいのか、何を話したらいいのか、なぜか頭に浮かんでこなくてカインは焦る。色々会話の種はあるはずなのに、舌がもつれて上手く話せない。いや、実際に舌は動いていなかった。また無事に再会したら笑って己が知ったこと、見たものをたくさん話すつもりだった。なのに、デューが無言の圧でそれをさせてくれない。言葉がないことを盾とするように、デューにはまったく隙がない。まるで、とそこまで考えて顔がこわばる。敵でも見てるみたいだ。その奇妙な緊張がカインに話題の選択を誤らせた。


「……そういえば、フィージィも来ていたみたいだが。一緒に来たのか」

「冗談言うなよ、姉貴がオレと一緒に動くことなんてあると思うか?」

「ならば、一人で?」

「ちょっと仕事があって、話を聞いたから来た。馬で」

「その、ソズムたちは……」

「別に無理に話そうとしなくていいぜ」


 先に苦笑で会話を断ち切られ、本当にカインは困ってしまった。すきまから入ってくる風は相変わらず冷たい。でも、デューの態度もどこか同じだ。少し遠くに観客の声とも思えるものが聞こえてくる。この部屋は地下にあるのだろう、観客が動くたびに天井から石の粉がぱらぱらと降って、カインはぎこちなさを隠せないまま近くにあった上着を羽織る。腕を組み、軽く膝を曲げて壁にくっつけているデューはほとんどカインを見ようとしない。いつもの朗らかな顔は微塵もなく、その眼光は野犬みたく光っている。


「シェパト、強かったろ」

「……ああ、強かった」

「アイツに勝ったときは嬉しかったな。女買って酒かっ食らって、ともかく皆におごったりして」

「そうか」

「お前はどうだ、カイン。嬉しいか?」


 初めて率直に聞かれ、カインの頭は痺れ、一瞬体中が固くなった気がした。強敵に勝てた、そのことは実感としてなんとなくある。けれど喜びや楽しさなんて霧よりも軽く、見えない霞程度にあって、掴もうとしても実感は空虚だ。


「嬉しいというより……」


 カインは迷う。また、迷っている。心の裡を白状すべきか、とどめておくべきかで。さ迷い、頭の中で考えを働かせてみても糸が絡まったかのようになり、それをほどく術をカインは持たない。体から全部の感覚が消え去り、でも残っている血の巡りがどくどくと、鼓動を早くしてカインを責め立てる。


「できたな、という方が、近いかもしれない」

「かも?」

「その、イグローが、ああ、町長補佐が。鶏冠竜退治のために、力試しをしようとしていて」


 何を喋っているのだろう、さっぱり己自身でもわからない。開けるたびに唇は裂けているのか痛み、でもその痛覚すらどこか鈍い。


「……お前、なんで」


 言って、再びデューは口を閉じた。唇を噛んでいるのか、少し震えている。何か言って欲しい。言ってくれなければわからないことが多すぎて、カインはただ願うばかりだ。けれどまた沈黙の帳がカインとデューを包んで、捉えて放そうとしない。やっぱりノーラかハンブレがいてくれた方が良かったかもしれない、そう思い、すがる自分が馬鹿だと思った。


「カイン」


 デューが顔を、今度ははっきりと上げた。翡翠の瞳は妙に光っていて、粘っこい何かを孕んでいる。敵意にも近い何かを感じ、カインは思わず身構える。それほどまでに強い意志がデューの瞳にこめられていて、視線を逸らすことなどできそうになかった。


「オレと――」

「ああ、儲かった儲かった! 気前がいいね、ここの町長さんは」


 まるで気配はしなかった。それだけデューに集中していた。叩く作法なんて忘れられた古代の言葉みたいに扉を無造作に開け放って響いた喜びの声は、不気味なほどこだましてカインの耳に飛びこんだ。


「……あれ、ベリは? ってなに、お客様?」


 入ってきたのは、札束を隠そうともしていないハンブレだ。カインは初めて確かな怒りを彼に覚えた。先程すがったことさえ忘れた、身勝手な怒りを。デューは即座におもてを下げて、美しく、けれどそれ以上に忌まわしいものに見えてならない琴弾きから顔を隠す。張り詰めた糸が一気にたるみ、見えないどこかへ落ちていく感覚を空気で感じた。でもその糸はとても大事に光っていて、失ってはいけないようなものにカインは思う。取り返せるだろうかとハンブレに声をかけようとしたとき、デューが動いた。


 目をぱちぱちさせているハンブレの横を、顔を下げたままのデューが過ぎ去る。近付いてくる。目も顔ももう見えない。


「優勝おめでとう」


 右肩を強く握られ反射的に眉をひそめた瞬間、耳元でささやかれた言葉に風とは違う寒気を覚える。氷の塊をそのまま胸に突っこまれたかのような、全身から血をじんわり抜き取られていくような怖気がしたのは、きっと祝いの言葉にふさわしくない暗いものを含んでいたからだろう。デューは、と小さく息を吐く。本当に、心から祝ってくれているのだろうか。尋ねることも返事をすることもできないカインを捨て置くように、デューが離れていく。妙にゆっくりとした光景が気持ち悪く、吐き気がする。声が出ない、出るのは小さな呼吸だけで苦しい。呼びかければ振り向いてくれるのかもしれない。でもその後は? わからない。デューが、よく、わからない。


 カインがようやく手を少し持ち上げることができたとき、部屋のどこにもデューはいなかった。扉側に体を押しつけて外を不思議そうに見ているハンブレだけがいる。糸がぷつりと、音を立てて切れた気がした。なんの糸だろう、カインにも良く、わからないままなのだけれど。

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