1-21.もっと苛烈に
黄色の石畳を埋め尽くす人混みの中、カインは目当ての店に向かって一人で歩いていた。朝の領都は相変わらずにぎやかでせわしない。あちこちから商人の呼び声やかけ合いの声が渦巻いて、でも混沌とした活気は嫌ではない。一人で何かをするということに最初はとても不安を抱いたのだけれど、吹いてくる潮風やほの明るい雰囲気がカインを自然と慣れさせた。見知った顔がなく、また、己に話しかけてくるものが誰もいないことだけが気がかりだったが。朝市に並ぶ露店にはいろんなものがあって、それは食べ物から小物と幅が広い。ちらほらと魚も見かけるようになり、一瞬買ってみようかという気持ちになったが、調理の仕方がわからないので止めておく。
ノーラが毒を受けて気を失った夜、ハンブレが紹介してくれた医者は意外に若く、仏頂面で、毒を抜くのに苦労した、と言っていて、後は本人の体力次第だとも告げられたことを思い返し眉をひそめる。長いまつげを閉じたまま、微動だにしないノーラの顔を見ていると、その奥にある瞳をのぞきこみたくてたまらなくなった。それでもつきっきりで彼女の様子を看ているカインには、青白かったおもてが少しずつ色味を取り戻してきているのがわかっている。ノーラが眠り続けて五日目の朝も、何事もなく過ぎていきそうだ。
いつもの露天商は相変わらず繁盛しており、食材を求める客がたくさんいた。その隙間をなんとかかいくぐって声を張り上げる。
「すまないが、果実をいつものように適当に見つくろってくれないか」
「おお、傭兵の兄ちゃんか。あいよ、果物ね」
最初はハンブレと一緒に来た。その後はミルスィニ――戦闘商業士の受付係をしている女と。適当に買って値切りも何もしないハンブレとは違い、ミルスィニと行くのは少し疲れた。どこまでも値切りを続け、衆人から歓声が上がったくらいの激しいやり取りは到底真似はできそうにない。ノーラだったら、と甘く、爽やかな果実の香りをかぎながら思う。ミルスィニのようにやはり、ここでも応酬をはじめるのだろうか。
「ほらよ、こんなもんだろう」
あらかじめ、ノーラが眠り、今カインが寝泊まりしているあばら屋にあった網籠を出すと、その中に色とりどりの果実が入れられる。しっかりと受け取って百ペク渡し、返ってきた紙幣はいつもと同じだけれど、昨日より多少籠が重い気がした。小首を傾げると店主は人好きのする笑みを浮かべてささやいた。
「いつも買ってくれるからな。おまけだ、持ってけ」
「そうか、ありがとう」
「またどうぞ!」
贔屓されたことに気付かれぬよう、カインは少し早足でその場から離れる。同じ店で買うと、こういうこともたまにあると記憶の欠片がいう。実際の記憶は淀のように沈んだままで、たまに人と話したり、ハンブレが毎日借りてきてくれる本を読んだりすると水滴のように落ちてくる断片もあるが、肝心な部分は思い出せないままだ。通りは未だ雑踏に満ちていて、百を超える人間がいるというのに彼らの世界にカインはいない。組合に顔も出していないからデューとも会っていないし、フィージィとは距離ができてしまった気がする。それでも以前のように気落ちすることなく、自然と地を踏む足に力が入る。心の中を潮風が通り抜けていく気持ちを寂しさと呼ぶのなら、それは確かにあるけれど。
かじった
焦りはカインを早足にさせて、中央通りから数少ない路地裏を通り、貧民区近くまで意外と早く着いた。石でできた建物と木製の家が混じって建ち並ぶここは、あまり治安は良くないけれど、医者がすぐ駆けつけられる場所にある。ハンブレと医者の判断で一角にあるあばら屋を借りた。色々と面倒を見てくれるハンブレは、ノーラの貯蓄を切り崩しているらしいことも思い出し、彼女が知ったときの反応を考えてみる。想像がつかずに野桃林檎を食べきり、目的である粗末な家をわざと一周した。ミルスィニ曰く、後をつけられている可能性も考えてそうした方がいいらしい。気配を研ぎ澄ましてみても、人がまばらにいることはわかるが、今のところ己に注目が向けられている感じはしない。
建物の隙間から裏口を通り、あばら屋に入る。三回叩いて間を置き、四回扉を叩いたあとで。安全に対する配慮の合図だとミルスィニは言う。受付係をする前は、彼女も戦闘商業士として腕を振るっていたらしく、ノーラの世話だけでなく小さな豆知識なども教えてくれることがありがたい。陽が射さない一室は普段は暗いのだけれど、今は蝋燭の仄かな明るさが揺れていて誰かがいるのがわかった。
「やあ、買い出しお疲れ様」
机と数個の椅子、そして寝台が一つだけある一室にハンブレがいた。野桃林檎を隠すのを忘れていたことに気付いたが、カインはうなずいて大人しく床に籠を置いた。机にはいろんな種類の本が積み重ねられており、この数日で増えたり減ったりを繰り返している。遠くから子供たちのはしゃぎ声が聞こえているけれど、寝台でそれこそ死んだように眠るノーラは動かないままで、カインは小さなため息をついた。
「毎日くだものだけで飽きない?」
「料理ができないから」
「ミルスィニに頼んだらいいのに」
「……今度そうしてみる」
確かに腹ごたえのなさをカインも感じていて、はじめて食べた馬肉や野菜の盛り合わせなどを思い出し、唾が溜まる。それを無理やり喉の奥に流し込んで寝台へ近付いた。ノーラの呼吸は安定している。微かに持ち上がる胸元のかけ布が、彼女が間違いなく生きていることを示していた。それでも閉じられた瞳は開く気配がなく、カインは少しだけがっかりする。
「馬鹿だよねえ、本当」
本をつまらなさそうにめくっていたハンブレが急にそんなことを言うものだから、カインはノーラから視線をそちらにやる。ハンブレの声に楽しげな様子はなく、どじをした子供を叱るときの親みたいな顔付きをしていた。
「君が、じゃないよ。ノーラのことさ。この程度の事態、考えておくべきことだったんだ」
「どうしてそんなことを言う?」
「だって実際そうでしょう?
「六年も前の話を引きずる人間が多いのか」
「六年しか、だよ。君だって昔のことを思い出して嫌になったりすることがあるんじゃないの?」
そんなものはない、と小さく頭を振った。カインの記憶はまさしく強固な檻に囚われていて、どこから来て、己が一体誰なのか、何をしようとしていたのかわからないままだ。ハンブレはカインが感じる寂しさのような何かをよそに、床に置かれた籠から野桃林檎を勝手に取って食べはじめた。やっぱり抜いておけば良かったと後悔したが、遅い。それができる隠しの術をはじめ、本に載っていた基本の
「妬み、怒り、そんな思いは良いことよりも遥かに強く刻まれる。人の心だけにじゃなく、とりわけ場所がそのまま残ってるならなおさらにね」
「そんなにひどかったのか、昔は」
「僕が知ってる限りはね。救護院は満杯。待ってる人が死んで、そこから伝染病が流行ったりして。ともかくめちゃくちゃだったし、家も職もなくした人が大勢いた。今でも盗みで生活してる人は多いんじゃあないかな」
そういえば、確かに貧民区で出会った男はみすぼらしい格好をしていた。彼ももしかしたら被害者の一人で、そんな人間を我欲のままに傷つけてしまった事実がカインの気持ちを落ち込ませる。
「なんにせよ、ここでの悪評はノーラが越えるべきことだからね。どうするかは知らないけどさ。君もノーラの名前、ここでは出さない方がいいよ。下手したら食べ物も売ってもらえなくなるから」
小さな舌先で果実のついた指を舐め、目を細めるハンブレは蛇のようだとカインはぼんやり思った。越えるべきこととはどういう意味なのか、ハンブレの言い方はノーラをまるきり試しているようにも聞こえる。そもそもハンブレとノーラの間に何があるのか知らないカインにとって、彼がノーラをどう思い、なんの期待をしているのかまるきり想像ができない。
「君に、心当たりはあるのか? 彼女を襲った連中の」
「さあね。傭兵、騎士、もしくは一般人。やっぱり多すぎてわからないよ、僕には」
「君はなんでも知っているように見えた」
「褒めてくれてありがとう。でもね、それは買いかぶり。僕にだって知らないことはたくさんあるよ。例えばノーラが……」
「ノーラが?」
「……あ、そういや酒場に呼ばれてたんだ、僕」
唐突にハンブレは立ち上がった。会話をいきなり断ち切られ、カインは拍子抜けする。でも、ハンブレは続きをまるで言う気がないようにも感じて、置いていかれた迷い子のような戸惑いを抱いた。ノーラと会話するときもこんな感じなのだろうか、誰にでもそう振る舞うようにも見えるハンブレには、やはり掴み所がない。ハンブレは短くなった蝋燭を火打ち石で長いものに取り替えてから、静かに木製の扉を開いた。
「ノーラはもっと苛烈に、孤高を行くべきだと僕は思ってる」
「どういう意味だ」
「君はついていけるのかな、彼女に。そもそもついていく道理なんてないんだろうけど」
カインの言葉をまるきり無視して、ハンブレはいつもの、狐に似た独特な微笑みを浮かべた。何を言うべきかで口ごもったカインへ見せつけるように笑みを向けてから、軽い口調で別れを告げて立ち去っていく。残された蝋燭の火が風に揺れ、薄暗い部屋に影を作る。残されたカインは呆然としながら、それでもハンブレの言葉を心の中で繰り返した。ついていく道理。それすらないことがゆっくりと己の心をむしばんでいく。
カインは軋みを上げる床の上で身じろぎし、もう一度ノーラを見つめた。静かに眠る彼女は人形のようでもあり、鎧などを外しているためか小さく頼りなさげだ。確かにカインはノーラに借りもあるし、借金もまだ残っている。でも、逃げだそうと思えば逃げられる。今が絶好の機会だ。彼女へ尽くす義理は、医者にノーラを届けたときに終わっているようにも感じる。いっそハンブレの言ったようにもっと激しく、あるいは氷土のような冷たさを持って拒絶してくれれば踏ん切りがつくのに、答えを持つノーラは未だ目覚めない。ここで寝泊まりする分だけはカインが自腹で払っているけれど、金は
静かな呼気だけを友にし、投げ出していた勉強用の羊皮紙に今日の日付を書き記す。それでもどうにも本へ手を伸ばせない己へ気怠さと苛立ちを感じたとき、裏口の扉を軽くこづく音が聞こえた。
瞬時に反応し、足音を殺して壁に張りつく。合図が守られていないことにカインの緊張が高まり、剣へそっと手を伸ばしたときだ。
「あれ、誰もいねぇの?」
聞き覚えのある声が聞こえた。瞳だけで木の扉にある隙間を見やれば、困ったような顔をしているデューが手に荷物を持って辺りを見回しているのがわかった。慌てることなく戸を開けると、思った以上に耳障りな音が立つ。
「よう、カイン。お前は元気そうだな」
「デュー。中へ」
挨拶するならあとでもできる。カインは素早く周囲を確認し、誰もこちらを見ていないことを確認してからデューにうなずいて見せた。怪訝な顔を強めるデューは、しかし何も言わず身軽な動作で中に入った。扉を閉める手が、なぜか強張っているのがわかる。緊張しているのかもしれない。彼に会うことをどこかで避けていた己のずるさが針のように胸を突く。でもデューは変わることなく朗らかな様子で、あばら屋の中を見て肩をすくめた。
「ずいぶん厳重なんだな」
「どうしてここがわかった?」
「組合のおばさんに聞いた。ノーラの姉ちゃん、狩りのときに怪我したんだって?」
「……ああ」
どうやらミルスィニは、正しいことをデューには伝えていないようだ。傭兵、騎士、一般人。怪しいと思われるものは後を絶たないとハンブレが言っていた通りに、彼女もそう感じたのかもしれない。机の隅に持っていた包みを置いて、デューは寝台で眠るノーラを見る。その緑の目は何かを思い出すように細められている。
「どんな<
「わからない。俺もミルスィニから聞いて驚いた。デューは、見舞いというやつか?」
「そんなもん」
いつの間に嘘をつくことを覚えたのだろう、口から出る言葉はあまりに軽く真実を逸らし、カインは包みに目をやった。芳ばしい、腹をつく香りが部屋に漂っている。
「何か持ってきてくれたのか?」
「肉焼き。精力つけるなら魚より肉かなってさ。あと、お前がどうしてるかって気になって」
「心配をかけた……のだろうか」
「なんで疑問系なんだよ」
伏せたノーラへのためか、笑い声は小さい。己のことを気にしてくれていることは素直に嬉しいのだけれど、破った約束の重みが増してカインを縛る。それでも言わなくてはならないことをカインは持っているし、話すのに丁度いい機会なのだろう。
「デュー。話がある」
「ん?」
「少し、外に出ないか」
デューは数回、目をまたたかせてからカインの表情にある暗さを読み取ったのだろう、真剣な面持ちでうなずいた。
「……ここで話すことじゃなさそうって顔だな。いいぜ、まだ仕事の時間じゃねぇし」
「ありがとう」
心臓の鼓動が速まり、頭はめまぐるしく回転している。思考を投げ出したいという気持ちを抑えて、カインは扉を開けた。外の空気は冷たい。ノーラを一人にしておくことに若干戸惑い、少しだけ離れた場所で話そうと決めた。あとからついてくるデューは、戸をゆっくりすぎるほどの遅さで閉める。優しい手つきだった。気遣いができる彼に対する後ろめたさがカインの足取りを緩くさせる。それでも選んだ場所にはすぐについてしまう。あばら屋の裏口が目視できる程度の距離だ。
「で、話ってのは?」
広場と呼ぶのには狭すぎる、むき出しの土の上にばらまかれる木材が目を引く場所で、デューが話を急かす。ここなら、とカインは大きく息を吸った。殴られても問題ない。呼気を吐き出す勢いに任せ、カインは覚悟を決めた。
「キュトスス公の前で、お前の名前を出してしまった」
「おっと」
「約束を守れなくて、すまない。どうしても……その、耐えられなかったから」
「そうかい」
くくった腹の紐をほどくほど軽い返答だった。手応えが全くなくて、思わずデューの表情をうかがう。平然として極まる顔をしているデューに、慌てた様子はない。
「……それだけ、なのか?」
「だってよ、出しちまったモンは仕方ねえだろ。それにさ、どうせなんの反応もなかったろ?」
「なかった……わけでは」
「姉貴も親父もオレのこと、いないように扱ってただろ」
同意すればいいのか、それとも否定すればいいのか、カインにはわからない。だからただ頭を振ったのだけれど、それを見たデューが心の奥の迷いを得たかのように腕を組む。
「別にいいのさ、それで。堅苦しい肩書きやら背負わなくてすむからさ」
「だが、それでは」
「お前にも言えないことがあるように」
デューはまるで会話を叩き折る勢いで声を強めた。
「オレにも言えないことがある。それだけのことなんだよ」
デューは微笑む。全てをあきらめたかのような笑いだ。何もかもを捨てたものだけが浮かべられるであろう、消失の笑み。吹っ切れている、そんな爽やかさはなくて、代わりにあるのは虚ろだった。それでももう一歩、怒らせることを覚悟の上で踏みいるべきなのか悩んだ。答えはすぐに出そうにない。会話の糸口が見つからなくて、居心地の悪い空気が漂いはじめたのを感じたのだろう、デューは頭を掻きむしる。
「話ってのはそれだけか?」
「……ああ」
「大したことじゃねぇな。それよかお前、組合に顔出しとけよ。けっこう仕事入ってきてるぜ?」
はぐらかされている、とカインは気付いた。でも、どうしたら風のように流れていく話を戻せるのかわからなくて、返事もできない。
「ソズムもお前のこと気にしてたぜ。早く戻ってこいよな」
「……わかった」
「オレはこれから仕事だけど、お前は?」
「調べたいことがあるんだ」
「ん。じゃ、そろそろオレは行くぜ。ノーラの姉ちゃんによろしく言っといてくれ」
カインの嘘に気付くことなく、あるいは気付かないふりをしたまま、デューが己の横を通り過ぎる。一瞬引きとめようとした手が宙に浮く。カインの中で浮かんだいくつもの疑問は行き場所を失い、彼の姿が消えてもなお強烈に心を揺さぶる。けれど、残されたカインはただ潮風に吹かれるしかなかった。
これで良かったのか、と誰かが言う。脳裏から響いた声に答えることができず、カインは太陽を隠してそのままの薄雲を見上げた。まるで今の己の心を模したかのような天気は、いつ晴れるのだろう。
何もないという答えだけを持て余して、カインは家に戻る。誰も入っていないはずの部屋に、しかし確かな人影があって思わず目を見開いた。
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