1-22.契約、そして旅立ち

 寝台の近くにノーラが立っていた。扉の音に反応し、彼女がこちらを見る。濃淡を描く青の両目は確かに開けられていて、でも視線はどこか遠い。


「……ノーラ」


 思わず名前をつぶやく声が、どうしてか震えていた。ノーラがまるで幼子みたいな顔で部屋の中を見渡し、それからようやく困惑を顔に出す。


「ここ、どこ?」

「あばら屋」

「それは見てわかるんだけど」


 混乱しているような彼女は腕をさすり、昨夜取り替えたばかりの包帯に初めて気付いたように己の肩と二の腕を確認する。まだ意識がしっかりしていないのだろうか、その瞳も動作も重たげで、見ているこちらが不安になる。


「……あ、そっか。私、毒受けたんだ」

「五日も眠っていた。いや、今日が五日目の朝だから、四日間か」

「うわ、かなり休んじゃったのね……私の武具はどこ?」

「すぐに動くな。危なかったんだぞ」


 うん、と意外と素直な返事が返ってきて、いささかカインは驚いた。医者に連絡しようか悩むが、首と肩を回すノーラは少しずついつもの顔に戻りつつあり、その色も良い。デューが置いていった包みの匂いにも気付いたのだろう、寝台に座りつつも双眸はそこから離れない。


「あれ、肉よね」

「さっきデューが持ってきてくれた」

「食べていい? お腹空いてるの」


 病み上がりに食べさせていいのか判断がつかないが、食欲があるのは良い兆候だと本に書いてあったことを思い出す。カインはうなずいて包みを開け、串刺しにされていた一本をノーラに渡した。カインも椅子を動かし、ノーラと向かい合わせに座る。


 腹が減ったと言ってはいるが、がっつくような真似をせず、彼女は緩慢な動きで肉を食べ始めた。緩やかで落ち着いた所作はいつものノーラと変わりなく、どうしてかほっとする。


「ずっとついててくれたの?」

「ああ。ハンブレやミルスィニと一緒に」

「そう」


 肉を一片食べ終えて、はじめてノーラはカインをはっきりと見つめた。視線はようやく強まり、眼には光が灯っている。


「ありがとう」


 微かにノーラは笑った。透明な硝子みたいに澄んだ笑い方に、肉に伸ばした手が止まる。礼の言葉を投げられて胸のどこかが引き締まる。逃げようと、ほんの少しでも考えていたことが恥ずかしくなった。何も返せないから黙って串肉を食べる。久しぶりに味わう肉は臭みがなくて、純粋に美味しいと思った。緊張のない、心地よい沈黙が少し降りた。


 ノーラが肉を食べ終えたところを確認してから、買ってきたぶどうを渡す。肉はまだ二本残っていたが、他のものも食べさせた方がいいだろう。手渡したとき指が彼女の手に触れて、その暖かさにやはり安心する。


「……傷は大丈夫なのか?」

「おかげでね。痺れもないし、痛みも引いたわ」

「そうか」

「この家、どうしたの?」

「ハンブレが用意した」

「借りができたわね。迂闊だわ」


 己に腹が立ったのか、ぶどうを食べるノーラの顔が少しばかり歪む。拗ねてるみたいなおもては彼女を幼く見せる。数粒食べ終えたノーラは手を置き、こちらをじっと見た。


「どうかしたのか?」

「借りで思い出したの。あなたの借金、これで充分だわ」

「充分、とは?」

「もういいってこと。医者にまで運んでくれて、つきっきりで看てくれてたんでしょう? だから、それでなしね」


 ノーラの言葉がすんなり入ってこず、肉を食べる手が止まる。借金が、ない。それはすなわち彼女への貸りがなくなって、自由になれるということだ。傭兵をしなくてもいいし、どこに行くのも己次第という事実を確認して、でもそこにあるのは冬が近い秋の空気にも似た寂寥だ。


「ノーラの命は、十万ペクなのか?」

「なかなか難しい質問してくるわね、あなた」

「そう言っているように聞こえた」


 それ以上話すなと誰かが言う。だがその台詞をはね除けるようにカインは頭を振る。


「こないだの奴ら」


 ノーラは大きなため息をついて天をあおいだ。天井にあるのは薄暗い影だけだと知っているから、カインはノーラから目を離さない。


「あれはきっと、誰かに雇われたんじゃないかしら。いくらでかは知らないけどね。ちょっと厄介な奴も、ほら、いたでしょ。毒ぶつけてきたの。あいつは手練れだったから、けっこう雇うのに値が張ったとは思うわ。その分が私の価値かしらね」

「人の命に値段があるとは知らなかったな」


 彼女の言葉に皮肉を返す己が信じられず、同時にいささか腹立たしさも覚える。皮肉の中にある怒気を感じたのかノーラは苦笑し、軽く手を振った。


「商売柄考えてるだけよ……うん、でも本当に私、いくらで命狙われてるのかしら」

「そこを考えている場合なのか?」

「そうね。私らしくないわ。どうだろうと私は私のやり方で動くべきなのよね」


 彼女の声には張りがあり、傷を負った自棄で言っているわけではなさそうだ。ノーラの思考は安定していて、それも顔に出ている。いつもの自信にあふれた瞳も凛として揺らがない。なのに、カインの心にあるのはなぜか不安だけだ。


「実はね、少しここから離れようと思ってるの」

「離れる?」

「確か、まだ手が付いてない仕事があるのよね。けっこう大きなやつで」

「逃げるのか」

「人聞きの悪いこと言わないでよ。仕事しないと貯金は減る一方だもの。ハンブレのことだから、私のお金でこの家を借りてるはずよ」

「それは……確かにそうだが」

「身体が鈍るのはいやなの。戦わないと勘もなくなる」


 言い切るノーラは頑なで、何か隠しているようにも感じた。それは、とカインは思う。もしかしたら、あの刺客たちに関係しているのかもしれない。でも口から出たのは別の言葉だ。


「仕事はどんなものなんだ?」

「この都を出たところに、ちょっとした町があってね。そこに大物の<妖種ようしゅ>が住み着いちゃったらしいの。採取と討伐、両方かしら」

「一人で行く気か?」

領都ここじゃ傭兵は期待できないし、安心もできない。途中で現地の同業者を雇うことになると思うわ。エナオンやデューなら信用できると思うんだけど、迷惑かけたくないし」

「なら、俺が行く」

「……はい?」


 屑籠に食べ切ったぶどうを投げ入れるノーラが間抜けな声を上げた。馬鹿なことを、とまた誰かが吐き捨てる。でもこれは、己の意思で決めたことなのだ。


「気持ちは嬉しいけど、それだけ受け取っておくわ。医者に運んでくれただけで充分よ。これ以上あなたを巻きこむことはできないわ」


 困ったように微笑むノーラへ、それでもカインはうなずくことをしなかった。


「巻きこむ、と言ったが、もう俺は巻きこまれていると考えていいと思う」

「あなたが進んで巻きこまれに来たんじゃないの」

「同業者を雇うと言ったが、多分それは嘘だ」

「へえ? どうしてそう思うの?」

「ノーラは自分の都合を、人に押しつけない」


 返事がなかったことが答えだと判断し、カインは薄く唇を吊り上げた。


「だから、もう巻きこまれている俺が行った方が早い」


 すがめられたノーラの瞳から、視線をそらすようなことはしなかった。考えるように顔をしかめる彼女を説得する一押しは、まだある。


「それに、俺だって狙われる可能性が大きい」

「もうつけられてたりして」

「そこに関しては気を遣っているから大丈夫だ」

「冗談よ。殺気なら寝てても気付く」

「重傷の身でも?」

「当然。うん、でもそうよね、あなたを巻きこんだ責任が私にはあるわね」


 己へ言い聞かせるよう繰り返すノーラとは、どこかまだ一枚壁があるように感じて、目を閉じた彼女を観察する。


 ノーラの回りには一見、いろんなものがあるように感じる。けれどそれらへ薄い膜を張っていて、己の領域に踏み入れさせないようにしており、それがハンブレの言う孤高なのだろうとカインは思った。そしてその膜という名目で存在する空気が、己が抱く空虚に似ているのかもしれないとも。人とのやり取りも知識も戦い方も、そして多分に信念とやらも違うのだろうが、カインが未だ定めることができないままの己の道というものを、ノーラはしっかりと歩いている。ノーラを見ていると落ちつくのは、地面に足がついているからだ。過去という嵐の中、巨大な樹木が地中深くに根を埋めているように揺るがぬ彼女を見習いたい、だから。


 そこまで考えたとき、ノーラが再び目を開けた。決意をあらわにした双眸は普段通りきらめいていた。


「いいわ、あなたを雇う。一緒に<妖種>を退治、というよりかは、護衛としてね」

「護衛か。悪くない話だ」


 肯定の言葉に緊張がほぐれ、カインは自然と口元を緩ませた。殺すより、守る方が多分性に合っている。それでも刺客が来たなら、覚悟は決めなくてはならないだろう。それまではノーラの手伝いと支援だ。殺していくらの世界より、よっぽどわかりやすくて不思議としっくりくる感じがした。


「ノーラは俺をいくらの価値で雇う気だ?」

「一週が六日で一日雑費込みとすると……滞在費と、それを分けて考えて……」


 つい浮かれて放った軽口に、しかしノーラは真剣だ。指折り数えてから腕を組み、大きな息を吐く。


「……知り合い価格でまけてくれる?」


 子供のようなふくれっ面をしながら唸るノーラを見て、カインは笑った。声を上げて笑ったのは、これが初めてだなと考えながら。


  ※ ※ ※


 地平の底から出はじめた太陽は明るさを増し、領都出入り口から微かに見える海を鮮やかな色に染め上げた。


 乾燥させた野菜や干肉に麦酒、その他買った薬軟膏などを隠しの術で地面に埋めれば、カインが持つのは大剣だけで、それでも不思議と不安はない。むしろ心が弾み、どことなく体が浮かれているのが己でもわかった。


 組合には昨日のうちに顔を出しておいた。ソズムはノーラと共に行動することへ納得がいっていない様子だったけれど、丁度仕事は他の傭兵たちが取ってしまっていたから仕方ない、そんな風に言い聞かせるかのように気をつけろ、とだけ言ってくれた。デューは宴会だとはしゃいでいたが、互いに出立が重なっていたので見送ることになった。返ってきたらまた、その約束をして別れた。今度こそ守れたらいいとカインは心の底から思う。


「おはよう、カイン」

「ああ。おはよう、ノーラ」


 軽やかな甲靴の音を立て、ノーラが隣にやってくる。医者から体調の良さの保証を受け取り、自由になった彼女がまず行ったのは、ハンブレへ立て替えてもらっていた治療費を一括で支払ったことだった。ハンブレとどんな会話をしたのかは知らないけれど、昨夜カインと出会った彼はやけに楽しげにしていたのを覚えている。ハンブレもいつものノーラが見られて嬉しかったのだろうか、そこまでは推測できない。


 いつもの白い鎧に身を固め、やわらな風に髪をなびかせるノーラは生き生きとしていて、どこか堂々とした風格すら漂わせている。


「期限は今日から一ヶ月。目標はエペーサの町。<妖種>を討伐の後にここに戻って報告、いい?」

「わかっている。支払いはそのときだな」

「ええ。辻馬車は使わないで徒歩で行くわ。海岸沿いの森を途中で通るから、そこで何が出るかお楽しみね」

「何事もなければいいんだが」

「そう期待しましょう」


 潮風の中、ノーラから漂う清涼な、仄かに甘い香りを嗅ぎ取ってカインは大きく息を吸う。キュトススから出るのは記憶にある限りこれが初めてで、何があるのか、どんなことが起こるのか全くわからない。でも、カインの胸を占めて止まないのは恐怖より高揚で、旅をするときは皆、こんな気持ちを抱くのかと考える。


「じゃあ、行きましょうか」

「そうだな」


 ノーラと共にゆく一歩をしかと大地につけながら、カインは太陽に挑むような面持ちで歩き出した。

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