1-9.ノーラと琴弾き

 広葉樹の若葉が微かな潮風に揺れ、心地よい音を立てている。神殿から出たノーラが顔を上げると、遠くにはキュトスス樸公ぼくこうが住まう館の塔が薄曇りの空を突き刺すように建っているのが見えた。キュトススの現当主は、良くも悪くも素樸である。考えもやり方も保守的で、取り立てて目立つことがないからこそその名がついた。


「さて、あれはどこに行ったのかしらね」


 あれ――こと、カインがいきなり部屋を飛び出してから、ある程度時間は経過している。それでもノーラの顔に焦りは微塵もなく、道を歩く姿はどこか湖に浮かぶ水鳥のように滑らかなままだった。


 フィージィには、カインは閉所に慣れていないということでごまかしておいた。別にそれ以上を話す権利はノーラにはないだろう。フィージィは納得がいっていない様子だったが、殊魂アシュムのことを詳しく教えられていなかった、その一言で興味をそちらに逸らし、殊魂術アシェマトの宣言も含めた詳細を紙に書いてもらえた。もらった巻物を腰に着けた布の物入れにつっこんで、ノーラは下り坂を歩いて行く。


 キュトススの中央都に裏路地が少ないのは、貧民を群れさせないためだ。と、いっても貧民区がないわけではない。十数年前、そして六年前と、続けて強い力を持った<妖種ようしゅ>に襲撃を受けた際、都の一部が破壊されたことをノーラは知っている。親を失った子供、職に就く気がない人間、そんなものは大半が壊れたままあるらしいその区に行き着く。


 問題があるとすれば、カインがそこに迷いこまないかどうかだった。カインの身なりは彼らの目にとてもまぶしく、高級なものとして映るだろう。特に磨かれ、加工された金緑石クリベルがついたあの剣は。万が一襲いかかられたり盗まれようとしたとき、カインはどうする人間なのか、はっきりとした判断が下せない。切って捨てるような人間ではないような気がした。だが、会ってまだ一日も経っていないのだ。相手の本質がどこにあるのか見極めるにはまだ時間がかかる。


 それでもなお、ノーラは焦らない。焦る必要もないし、急いでは事をし損じることを彼女はよく理解していた。


 馬車や人々の間を通り、神殿の近くにあった広場に入る。ふんだんに植えられたクスノキが時たま出る陽光を反射させ、きらめかせているそこには噴水もあり、人々が祈祷の帰りに憩う姿があった。時刻は周囲の様子を見て、それから体感にして昼前だろうか、二刻も予定を過ぎている。自分が読みたかった本のため多めに神殿へ寄付をしたというのに、得られたのは殊魂のことだけで、ノーラの中で多少の怒りがこぼれる。


 だが、全てが無意味だったとは思わない。金はまた稼げばいいし、これからはカインの収入にも期待ができるのだから。そのために今できることをする。


 ノーラは人がいない長椅子に座り、近くに人がいないことを確認して、土にある自分の影に手をかざした。


「宴と供物在りて、成るは闇・影蛇かげへび


 二等殊魂術ジ・アシェマトを略宣言で発動させれば、影から現れるのは青緑の蛇だ。成人女性の腕ほどはあるその蛇はノーラの体を這い上がり、薄青の瞳を覗かせてくる。


 顔の大半を占める両のまなこに映っているのは、ノーラの顔でも回りの木々でもない。ひびの入った道を歩く男――カインの姿だ。その足取りはおぼつかなく、ただ考えもなしに動かしているだけのように思える。影蛇は、相手の影に潜りこみ、その動向を簡易に確認することができる術の一つだ。昨日のうちにカインの影に潜ませておいてよかった、とノーラは少し安堵した。


 キュトススの中央――すなわち領都は、十字型の大通りと放射型の小道が繋がっている作りをしている。外壁に封じられた十字の大通りの先は、海岸沿い、林や畑がある山林沿い、川の上流部へいける別山への道、そして街道に出るための城門へそれぞれが続いている。カインが歩いているのは、道の様子からして山林沿いへ続く道の裏路地だろう。


 ノーラの脳裏にキュトスス全体の地図が浮かんだ。あそこの近くには貧民区があったはずで、まずいな、と眉を軽くひそめて親指の爪を噛む。どれだけ全力で走ったのかはわからないが、『麗智神れいちしんアヘナト』の神殿があるこの区画から少し、場所が離れている。馬車屋もあそこには近付きたがらない。一つ、方法があるにはあるけれど、ノーラはしばし迷う。


 あのとき、カインの目にあったのは困惑と、何かに対しての怒り、それと微量の殺意だった。詞亡王しむおうという言葉に反応した感情は、もしかしたら精神的な外傷からきているのかもしれない、とノーラは思う。だとすれば今のカインは、繊細な棘をふんだんに含むアザミか、もしくは敵を前にした豪猪ヤマアラシか。蛇の目が移すカインの瞳はいつものより遥かに剣呑であり、人との対話に慣れていないことから推測して、誰かと遭遇するのは危険であろう。


 だが、とノーラは同時に思った。


「彼の影に潜んで、全てを見なさい。周囲と共に全体を映して」


 蛇にそっと話しかければ、命令された影蛇が緑の舌を出して再び地面の影へ戻っていく。それはノーラがカインの身よりも自分の計算を重視した結果であった。カインがどこまで自分で物事を解決できるのか確かめておきたい。人は怒りに本質を隠す。カインの裡に秘められた斑の感情が発露されているのなら、見ておくに越したことはないだろう。

 それに――


「おや、そこにいる美人は誰かと思えば、ノーラじゃないか」


 思考の海を漂うノーラを現実の岸辺に戻したのは、聞いたことのある声音だった。


 振り返れば、こちらを見やる薄水色をした瞳と目が合う。


「ハンブレ……じゃないの。何、あなたここにいたの?」

「うん。ちょっと通り道に寄ったんだけど、まさかノーラがいるなんて思わなかったな」


 ノーラは立ち上がり、彼――というにはあまりに中性的すぎて彼女はいつも迷うのだが――の側へ歩み寄った。


 微笑を浮かべている彼の顔は、純粋さの他にもあらゆる感情を内包している気がして、ノーラのため息をいざなう。


「ふらふらできてるのが羨ましいご身分だわ、まったく」

「うふふ、もっと羨んでくれて構わないんだよ? 僕は自由な渡り鳥、いや、花びらを舞わせる気まぐれな風かな」

「ばか」


 せっかくの美しい低音の声も、陶酔にも似た言葉で台無しだ。これがなければまともに彼の歌も聴けるのに、とノーラは内心嘆息した。


 ハンブレ。海に浮かぶ氷みたいなごく薄い青の三白眼と首まで伸ばした髪、男のようで女性さもあるおもてがいやでも目立つ、ノーラの知人だ。彼は琴弾き組合に所属しており、本人が述べたように様々な場所を逗留しては英雄譚やおとぎ話を即興で歌にして路銀を稼いでいる。


「ノーラはどうしてここに?」

「まあ……ちょっとしたものを拾ってね」

「僕に会いに来たんじゃないんだね、残念だよ」

「あなたに会いたいって連絡をした覚えはないんだけど」

「うん、それも残念だよ、凄く……おお、我が永久とこしえの君、君が太陽なれば我が身は夜に浮かぶ白き衛星ほしかな」


 緑に塗られた爪がなまめかしい片手で顔を覆い、よろめきながら大仰に悲しんだふりをするハンブレに、ノーラは何度目かのため息をついた。ハンブレはいつも道化のような口調と仕草で、ノーラの調子を巧みに崩す。


「で、一体君は何を探していたのかな? 影蛇なんて出して」

「見てたなら声かけなさいよ」

「ノーラに見とれてた」


 片手からのぞく目が、楽しそうに細められる。見られていたと悔しく思う気持ちと、自分にさえ気付かせない、気配を遮断する業を賞賛したい気持ちがない交ぜになった。もしこれが戦闘中であるなら、殊魂術を使う際の最大の弱点となる詠唱後の隙をつかれたことと同義だ。ノーラは軽く首を振って重苦しい感情を払いのける。


「それで、ノーラは何をしてたの?」

「……拾いものがどこかに行っちゃったから。それで」

「それって大切なもの?」

「まだ未知数ね」

「ノーラがそういう言い方をするってことは、ものじゃなく、人を拾った、でいいのかな?」

「はいはい大当たり」

「どんな人なのかなあ」


 銀色に塗った唇を三日月の形に吊り上げて、ハンブレが顔を近付けてくる。正直、突然接近するのは止めてほしい。周りの視線が気になって辺りを思わず見回すが、幸いにして木陰であるせいか、広場にいる誰もこちらを気にする様子はなかった。


「気になるなあ。ノーラが目をかける人間なんて、滅多にいないじゃないか」

「別に……貸しを作ったのよ。十万ペク。だから」

「ケチなノーラがそこまで人に貸すなんて、それもますます気になる!」

「ケチとは失礼ね、倹約家と言いなさい、倹約家と」

「僕もその人に会ってみたいな」

「とりたてて言うべき人間でもないわよ」


 ハンブレの瞳は弧を描いたまま、じっと自分の目を見つめている。ノーラの心を覗くかのようなそれは、彼女が珍しく苦手とするものの一つだ。実際ハンブレの読みはよく当たる。読心術でもそなえているかのようで、ノーラは髪をかき上げるふりをして視線を逸らした。


「また今度会ったときにでも紹介くらいはするわ。それでいいでしょう」

「そんなに大切なものなのかな?」


 まるで、心の奥底にひそめている宝物を垣間見たような物言いがノーラの癪に触る。それもいつものことだと自分に言い聞かせ、揺らぐ感情を抑え込む。


「じゃあ、私は行くわ。またね、ハンブレ」

まだらのもの、混沌の場に彷徨さまよいてあり」


 振り返って草を踏みしめた刹那、背後から唐突にぶつけられたハンブレの声に目を見開いた。瞬時に表情を閉じ首だけでハンブレを見やると、やはり彼は、夜中に家を抜け出して町を探検する子供みたいな、それでいて朝の湖畔を散歩する老婆のようでもある、不可思議な笑顔を浮かべている。


「急いだ方がいいと思うよ。あそこの区はなかなか強烈だから」

「行った経験が?」

「もちろん。話の種になる場所にはどこにでも」


 ハンブレは笑みを崩さず、むしろ深めた。宵が濃くなるときの空気を含ませつつ。


「それにあそこは昔、君が」

「もういい」


 肩を揺らして揶揄するハンブレの言葉を断ち切り、ノーラは挑むような目つきを作る。


「あまり私を見くびらないことね、ハンブレ。あなたの言葉をいつでもまともに聞いてやる義理は、私にはないの」


 答えを待たず、ノーラは再び前を向き歩き始めた。背中にせっつくような、からかいも含まれた視線を浴びてもなお足取りを速めることはない。自分をこれ以上乱されてはたまらなかったけれど、そんな思いすら見せたくなくて、あくまで軽やかに、いつもの余裕を演じたままで。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る