1-10.猛烈なる嵐
灰色の雲が空を覆いはじめ、廃墟ばかりの辺りの空気がますます澱んできたことにカインは気付く。気付いたところでどうしようもなく、押し込めても未だ止まぬ感情の揺らぎを持て余しながら、濁った空気を吸っていた。
ここはどこなのか。走って神殿を飛び出したところまでは覚えていた。だが、それからどこをどうして来たのだろう、と心の淵で思った。ただ闇雲に足を動かし、その結果、見知らぬ場所で漂っている。それこそ曇天の、ぶ厚い雲がゆうらりと風に吹かれる程度の動きで、ゆっくりと。
饐えた匂いが漂う道に、昔は確かにあったであろう檸檬色の美しさはすでに色褪せ、回りにある建物のほとんどは崩れていた。鼠や小蠅は我が物顔で崩れた瓦礫を占領し、小さな音を立てている。人気がほとんど感じられない道をさまよってみても、カインの心はざわついたままだ。心臓の鼓動はまだ熱く脈打ってはいるものの、吐き気と頭痛は鳴りをひそめていた。それでもあの衝動はあまりに印象的で、背筋を震わすに充分な強さで己を責める。
気怠さと共に訪れる、心臓をかきむしりたくなる気持ちを抱き、思考すらも置いて、カインはただかろうじて道の形を成しているそこを歩き続けていた。
「おい」
声が聞こえた。おっくうだが顔を上げてみると、そこには四人の男たちが立っている。彼らの髪は手入れがされておらず、まとう金属の胸板は煤汚れていて、へこんでいる部分もあった。酒精と汗が混じった匂いはカインの心を嫌でも刺激する。
いわゆるごろつきというものなのだろう。そう決めつけ、カインは無視して先に進もうとしたが、くすんだ黄髪の男が邪魔するように一歩、前に踏み出てきた。
「この道の先を通りたかったら、出すモン出しな」
通り道で、何か出さねばならぬものなどあるのだろうか。カインは一瞬そんなことを考えたりもしたが、すぐにどうでもよくなった。
「俺に構うな」
「あン?」
「俺に、構うな」
どこまでも続く砂漠をながめた時のような、虚しさをはらむ平坦な声音。
心に溜まった膿が今にも破裂しそうでたまらなかった。
とどめようとして発した言葉は、しかし男たちの何かを刺激したのだろう、膨れあがった怒気と殺意がカインを刺す。
「いい態度してくれてんじゃねェか。おい、お前ら」
己を囲うように三人の男が間合いを詰めてくる。視線にあるのは明確な憎しみと羨望で、己の何がそんなに羨ましがられるのかわからない。経験してみろ、と思う。感情を翻弄する心の嵐を堪え、耐えきらねばならぬ苦しみを。頭の中で知らない誰かの声が反響し、それに突き崩されそうになる混乱の坩堝を。
――身を守るのだ、と誰かが言った。
いいだろう、とカインは無造作に大剣を抜き放つ。それが合図となった。二人の男が勢いよく間合いを詰めてくるも速さも構えも明らかに雑だ。カインの笑みが、見るものを脅かすほど凄惨なそれに変わった。
カインの動きは嵐そのものだった。飛びかかってきた二人の持つ短剣は水平の一振りで砕け散り、鉄の破片が宙に散らばる。男どもの狼狽に迷わず踏み込み相手の胸を剣の柄で打ち払い、隣にいた男の手を同時に切り上げた。まるで秋の木が枯れ葉を落とすように自然な、でもそれより猛烈な激しさをもってカインの身は自然と動く。
荒れ狂う感情に全てを委ねると楽になる。守るのではなく踏みにじるまでの勢いは、すでに防衛の度を超えていた。わかってはいる、頭の片隅で理性は己の行動を咎めている。
――止めて、と誰かが言った気がする。
カインは無視した。もはや記憶の声など吹き飛ばすように、細槍を持って震えつつ立ち尽くしている男へと走り始めていた。
「クソがっ」
細身の曲刀をきらめかせ、ごろつきが庇うように男の前に出る。刃が突き出されたと同時に半身を捻りそれをかわす。伸びきった腕の付け根目掛けて下から弧を描くように大剣を振るえば、血潮と共に絶叫がこだました。音を立てて落ちるのは男の腕で、血の鉄くさい香りが辺りに充満する。切られた部分を押さえて倒れこむごろつきに、迷わず大剣の先を振り下ろそうとしたそのときだ。
「神に捧げるは宴への供物、姿成せ風・
剣の切っ先がごろつきの心臓に触れる直前、冷ややかな声と共に放たれた明るい
これが
「兄ちゃん、ちょっとばっかやり過ぎじゃあねえの?」
呆れたような口調で己に言いつつ、その身に隙はない。先ほどのごろつきたちとは違う、脳が瞬時に察する。橙の華やかな羽根飾りが目を惹く胸甲冑は銀色に輝き、手入れを怠ればそうはいかないであろうな、となんとなく推測できた。
「正当な防衛にしてもありゃねえよ。かわいそうだ」
「俺は、止めた」
「あんな言い方でか? それにアンタ、あいつら殺そうとしてただろ」
瓦礫の上を身軽に飛び跳ねながら近付いてくる青年に向かい、カインは失笑した。
そうだ、殺そうとした。だからどうした、構うなと言ったのにあのごろつきどもは
またふつふつと、煮えたぎる湯のように濁った感情が吹きこぼれてくる。脳は冷静に、手足が動くか考えている。いけそうだと思ったけれど、まだ手足を縛る枷を外そうとは思わない。
「やたら人を殺しちゃ裁かれるぜ」
「誰に」
「オレみたいな、正義感の強いお節介にだよ!」
青年の姿が消えた。目標を見失ったカインはそれでもたじろがない。眼前に現れ空中から蹴りを放ってきた青年の足を、風の抵抗を無理やり振りほどいた勢いのまま籠手で受け止める。金属がぶつかり合う音が響く。次いで放たれたもう片方の蹴りはこめかみを狙ってきてはいたが、それも片手で押さえこみ、撥ねつける強さで青年の体を間合いから外す。
「おおおっ!」
翠の光が消えた。体が自由になり、カインは剣を構え直すと後ろに飛んだ。それを追って青年も動く。速い。青年の長靴につけられた黄色の鉱石が淡い光を帯びているのを確認しながら、詰められた距離の間で繰り出される拳と蹴りを払い、撃ち、押さえ、果敢な連撃をかわしてゆく。
青年の一撃はどれもが重かった。迷わず己の急所を狙う動きも正しく、カインは攻めあぐねる。が、青年が空中で回転した瞬間を見逃さない。とっさに相手の着地するだろう箇所へ潜りこみ、大剣を下から上へ向かって振るう。しかしその剣の横を殴るかのように青年は拳を繰り出している。
拳と剣が噛み合おうとした獰猛な勢いの、一瞬。
その、本当に少しの狭間に、カインの喉元へ見覚えのある戦斧の先が突きつけられていた。青年の手首には鋼でできた、炎にも似た切っ先を持つ円形の武具が狙いをつけている。
二人の間を少し避けて、清廉な香りを携えたままのノーラがそこにいた。
「両者、そこまで」
青年が着地し、顔を歪めたのを確認するよりも早く、カインは戦意を失った。
剣先が、ノーラの頬に触れていた。皮を裂き、肉まで到達してしまったのだろうか、輪郭をなぞるように、筋を作った血潮が垂れている。
己が傷つけたのだ、と理解した刹那、どうしようもなく心が震えた。荒ぶる心に身をゆだねていたときの加虐などどこにもない。氷を胸中に投げ込まれたような感覚だけがカインにはあった。手がしびれる。足が、体が、上手く動いてくれない。
「……やるな」
「ありがとう。なら私の業に免じて、拳を降ろしてくれたら嬉しいんだけど」
「あいつはまだ降ろしてねぇぞ」
ノーラが静かにまばたきをし、それから己を見た。全身の血がなくなってしまったかのような寒さをカインは感じる。けれど己を映すノーラの瞳には責める感情など少しもなくて、どこか優しみにも似た何かがあり、逆にいたたまれなくなる。
「カイン」
ノーラの声ははっきりとしており、カインは揺らぐ手を抑えながらそっと、これ以上彼女の肌に傷がつかぬよう注意を払って剣を放した。ノーラが子供を褒めるかのような、優しい笑みを浮かべたのに気付いたその時であった。
「この大ばか!」
思いきり、籠手のついた拳で頭を殴られた。容赦のない一撃で脳が揺さぶられ、視界が真っ白な閃光で埋め尽くされる。
「勝手に逃げたあげく仕合いなんてしてるんじゃないわよ! 人様に迷惑でしょうがっ。謝りなさいっ」
「だ、だが」
「口答えなし! こっちの人に謝る、早く!」
「す……すまない」
「すまない、じゃなくてごめんなさいっ」
「ご、ごめんなさい」
そのまま頭をつかまれ、むりやり下げられた。今度は振り払える程度の力具合だが、ノーラの手の感触が心地よく思えて、そのままにしてみる。
「ごめんなさいね、本当。私の連れが迷惑かけちゃって」
「や、あの、頭離してやれよ……」
「口べたなのよ、彼。だから態度で示さなくちゃあね! はいカイン、もう一度っ」
「すみませんでした。ごめんなさい」
今度は自分の意志で、頭を下げた。不快感はなく、むしろ頭を殴って正気に戻してくれたことが嬉しい。ノーラが側にいることがなぜだろう、とてもありがたいことのように感じて、素直に謝罪をすることができる。
「ああ……いや、オレもちょっとムキになってたから。別に、アイコだな」
「そう? そう言ってくれる? 話がわかる人で助かったわ」
「うん、だから頭離してやれって……なんか見てて辛いからさ、オレが」
「そうね、ちゃんと謝れたしね」
ノーラの手が頭から離れていく。それでも今は、まるで荒れ果てた海が波を戻したかのように心の中が落ちついていた。煮えたぎった殺意も、むしゃくしゃする衝動もなりをひそめ、なぜ己があんなに取り乱していたのかわからなくなるほど。
改めて降ろした剣を見てみる。そこには確かに己が起こした事実が血痕となって残っていて、カインの記憶に重く染みを残す。過剰な防衛、いや、あれはただの殺戮だ。安堵や達成感など微塵もなく、暗い深淵に落ちていくような感覚だけがある。
「ま、ちっとやり過ぎだが今は落ちついてるみてぇだしな、そこの兄ちゃん。あのままだったら、ここいら全部吹き飛んでたかもしれねぇわけで」
「それを止めてくれたんでしょう。知ってるわ、見てたから」
「……すまない」
「そういうときはな、ありがとうって返すのがいいんだよ」
青年がニヤリと、意地悪く口の端を吊り上げた。しかしてなんと清々しい笑みだろう。目の奥に強く灯る若さという快活の塊が、青年の性格を良く見せているようだ。カインはどこかほんの少し、うらやましいと思った。
「わかった。ありがとう、二人とも」
カインは残った自分の無様さを隠すように剣を鞘へ戻し、同時に気付く。ノーラの言葉以外で誰かの言うことを率直に聞けたのは、初めてだ。
ノーラをそっとうかがい見ると、彼女は己が作ってしまった頬の傷を指でなぞっている。爪先程度の跡だとしても残らないでほしいと願いながら、しかしカインの目はノーラから逸れた。
「あんたら、見たとこ同業者っぽいけど、もしかして傭兵か?」
「私は違うわ。こっちは今からそれになるところかしら」
「なるほどな」
青年の、己を見るまなざしは無粋ではあったが、不思議と嫌な感じはしない。ごろつきたちの視線にあった棘のような悪意が含まれてないからだろうか。フィージィが見つめてきたときとはまた別の好奇がある。
「お二人さん……じゃなくて、そこの兄ちゃん、よけりゃオレが口利きしてやろうか?」
「あら、親切なのね。名前も知らない相手に」
「バカ丁寧な挨拶なんざ、ここを離れたあとでもできるだろ」
「そうね、それには同意するわ」
「……俺も、早くここから離れたい」
「決まりだな」
青年は親指で自らを示し、自信に満ちた、どこか嬉々とした様子で顎を突き出す。
「キュトスス傭兵組合副長、『
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