1-3.形作るもの

 男はまず、おぼろげな記憶から懸命に破片を集めて、役立つものだけを選び取っていくことにした。まずは組合のことを――そう、国の全てに共通としてある、職人たちの集まりだと記憶のどこかがいう。


 国を渡り、旅をするのであればなんらかの組合に所属し、身分を明確にしておかねばならない。戦闘商業士というノーラの職に聞き覚えはなかったけれど、傭兵や騎士の組合があった記憶がどこからか浮かび出てくる。己は剣を持っていて、ノーラの話によればどうやら腕が立つらしい。比べる相手がいないから実感はないけれど、ともかく己は剣が得意なのだと決めつけた。


 だとすればそれを生かして、ノーラに出させてしまった損害を弁償すべきなのだろう。ただ、彼女が言う通り、組合に入るための名前と出身地がない。それだけはどうしても思い出せなかった。


 ならば己はどうすればいい。どこかの農村へ頼み込んで、農作業でも手伝うか。だめだ、剣を振るう長所が生かされない。それにこの国、天護国アステールの農業が頭の中で一向に浮かび上がらないという致命的な事実があるし、同時にすぐ十万ペク――大陸共通の紙幣でかなりの高額だ――を入手できない。選択肢から除いて考えても、やはり組合に入るのが一番いいように思えた。


 問題なのは、名前と故郷の二つ。記憶がないことと同じくらい、それが重い問題だった。


 男は顔を上げて、壁につけられた獣脂の明かりを見る。蝋燭の炎よりはっきりと明るく、すきま風にも微動だにしないそれ。動かない火を見ていると、いくらか頭の混乱が止んでくる。そんな火のように、些細なことで動じない状態を作りたかった。


「決めた」

「へえ、何を?」


 気付けばいつの間にか戻っていたノーラが、壁を背に腕を組んで立っている。その手には筒盃も皿もない。もしかすると、己自身で考えさせるために彼女は席を外してくれたのかもしれない、と臆測してしまう。男は口を一旦開きかけ、閉じ、それから確とした口調で答えた。


「俺は組合に入る。仕事をして、ノーラの赤字を精算する」

「それは嬉しい心づもりね。でもどうやって組合に入る気?」

「ノーラが決めてくれればいいんだ」

「また私頼み?」

「いや、名前と略歴だけをでっち上げてくれればいい。簡単な履歴で組合に入れることを思い出した。犯罪もしていないはずだから、それだけでいい。略歴は……俺も考えて作る」


 無いのならば、組み上げていけばいいのだという結論だった。記憶の檻は未だ頑強な鍵がかけられていて参考にならない。正しい選択だと断固するには情報が不足しすぎていたけれど、はじめて己が考え、決めたことの方に意味があるように思えた。


 しばらく、空気が凝り固まったかのような沈黙が降りる。


「カイン」


 ぽつりと、しかしはっきりとした声量で、ノーラが言った。


「『形作るもの』の意味。それが、カイン。これからあなたが名乗るべき名前よ」


 曇りの寒空みたいな空気が、瞬時にして春のそよ風に変わったように男は感じた。そして同時に、己が一つの柱となって立った感覚を覚える。


 カイン。形作るもの――カイン。


「それが、俺の名前なんだな」

「結構ありふれた名前だけどね」

「構わない。それがいい」


 男、いや、カインの言葉にノーラは小さく笑みをこぼし、再び椅子に腰かける。


「なかなか肝も据わってるじゃない、一応は。安心したわ。腑抜けはいらない」


 不敵な笑いを見て、選択は成功したのだと理解した。名前がつけられたことでだろうか、胸にあったざわめきが嘘のように治まっている。


「あとの問題は故郷よね。まあ、どこの組合に入るかっていうのと履歴も必要だけど」

「それに迷っている。ただ、故郷はノーラが教えてくれたことで見当をつけた」

「聞かせてもらおうじゃない」

「食事で相手がある程度わかると、さっきノーラは言ったな。そこで、やはり神権国ガライー出身でいいのではないかと思った。麦酒にも抵抗を感じなかったし、多分飲み慣れていたのだろう」

群島国ダーズエにしなかった理由は?」

「これは本当に、おぼろげなんだが」


 思考していたときに浮かび上がったものがいくつかある。カインはその断片をかき集め、慎重に言葉を口にする。


「確か神権国ガライーは、中央大陸から少し離れた場所……最北端に位置していたはずだ。あそこは雪が降る。寒いはずだ。なら、こんな格好をしていてもおかしくはない。

 群島国ダーズエは水が豊富な国だ。海の上で暮らしているところもあったように思う。雪が降る場所もあるが、それでもここまで厚着をする必要はないのではないだろうか」


 脳裏に浮かんできた、大陸の形をもう一度思い描きながら、国の簡易な特徴を挙げていく。領地の名前やどこに何があって、ということまではわからないままだが、それでも先ほどより明瞭な答えが返せたのではないか。


「意外だわ」


 ノーラの感嘆を交えた吐息で、机の上の蝋燭がやわらかく揺れた。


「あなた、頭いいじゃないの」

「いいのかどうかわからないんだが」

「充分よ。あなたの言ってることは正解だし、理論立てて物事を推測することができてる。文字も読めるんじゃない?」

「多分」

「じゃあちょっと書いていきましょうか、わかることとか」


 聞き取れないほどの微かなノーラのささやきで、壁に映る彼女の影から、墨壺とペン、それから薄灰色の紙が出てくる。浮かんだそれは自然と、まるであつらえたように机の上に整然と並ぶ。


「聞いてもいいだろうか」

「いいわよ」

「それはどうやってやってるんだ?」

「それって、何が」

「影から道具を出したりすること」

「そんなの殊魂術アシェマトに決まってるじゃないの」


 墨壺へペン先をつけていたノーラが、はた、と手を止める。


「……殊魂アシュムのことも、やっぱり思い出せない?」

「殊魂」


 少し考えてみる。今度は刹那に閃光が弾けたような手応えがあった。


「殊魂は、人を人たらしめるものだ。誰もが持っている生き物の魂」

「ちょっと曖昧ね」


 言いながら、ノーラはペンを走らせている。少し細い、角張った文字。紙に、カインと書かれていているのがちゃんと分かったことにほっとする。


「殊魂は、言うなれば人……生き物の個性の一部よ。基礎四色――赤、青、黄、緑。他にもあるけれど、全部ペクシオロス大陸十二神の加護を受けてて、鉱石の名前で呼ばれてるわ。宣言することで神の波動の一部を使うことを可能にするのが、殊魂術」

「十二神……鉱石の名前……」

「今はまだ考えなくていいの。詳しい説明は神殿で聞けばいいだけだし」

「教えてくれる場所があるんだな」

「まさかあなた、わからないこと全部私に聞こうとしてたんじゃないでしょうね」


 ぎくりとした。急に居心地が悪くなり、カインは思わず目線を逸らしてしまう。目端に入るのは、ノーラの怒ったような顔だ。


「大陸全土に関してなんて、私でも知らないことがまだたくさんあるんだから。知識欲があるのは当然のことなんでしょうけど、自分で調べる癖をつけなさい」

「だが、ノーラは、少なくとも俺より色々知っていると思う」

「記憶喪失の人間と比べないで。そりゃあ天護国ここに関してはずっと歩き回ってるからね。それなりに知ってることは多い方だろうけど」

「ノーラはなぜ旅をしているんだ?」

「戦闘商業士だから」


 簡潔な言葉にカインは首をひねり、考える。戦闘商業士。戦闘とつくからには、やはり戦いが生業であるのだろう。だが商業ともある。どちらも兼任しているのだとして、何を売るのか――そこまで思考したとき、森で出会ったときのノーラの様子が浮かび上がってきた。異形なるものの体を解体し、それらを持って帰っていった姿が。異形のもの、否、あれは<妖種ようしゅ>だ、と記憶の一部が言う。そうするとおぼろげな知識の断片がはっきりとしてくる。


 <妖種>は人と同じように殊魂を持つけれど、家畜や人間と違う生態系を持つものの総称だ。人を襲ったり家畜や愛玩動物までもを補食したりすることがあるため、駆逐対象となっている存在が多い。


「それに俺はなれるか?」

「え、戦闘商業士になりたいの?」


 ペンを動かす手を止めて、ノーラは驚いたように言う。それから即座に手を左右に振る。


「無理。ただ駆逐するだけじゃ、戦闘商業士はやっていけない。その<妖種>のどこに価値があって、どうすれば上手く売り物になる部分をさばけるか、それらを踏まえて戦うのが戦闘商業士なの。正直今のあなたには荷が重いと思うわ」

「難しいんだな」

「まあね。季節や場所によって出てくる<妖種>を覚えたり、買取先との交渉術を磨いたり……大変だけど楽しいわよ」

「今から学ぶのでは無理か?」

「試験の期間は過ぎたし、それよりも手っ取り早く色々できる傭兵の方が絶対に得だって。あと正直、商売敵を増やすのはいや」


 さらりとノーラは言うが、どこかその口調が頑なであることにカインは気付いた。


「その、傭兵は稼げるんだろうか」

「仕事を選り好みしなければね。半年で、ううん、あなたの腕ならもしかすると数月でいけるかもよ、十万ペク」


 破顔したノーラを見て、カインは思う。もしかしたらノーラという女は。


「利子はつけないどいてあげるからね。武具や防具は今のでも結構充分そうだし、買う必要なさそうだけど。あ、でも最低限の支出は十万に上乗せさせてもらうから、そこのところはよろしく」

「……強欲なのか」

「何か言ったかしら」


 カインは慌てて首を振った。彼女を怒らせてはいけないと、心のどこかで高い鐘みたいなものがけたたましく鳴り響いたから。


「そう。じゃあ続けて略歴を考えていきましょうか。結構時間かかるだろうけど、覚悟できてる?」

「ああ」


 これから何もないところより、一から手探りで、己というものを創り上げていく。記憶がおぼろげな事実は未だ足にできたしこりのようにその歩みを邪魔するのだが、それでも気持ちは晴れやかな気がした。空の器へ入れるものは何か、ノーラと話していると胸が弾む。微かに浮かびはじめる知識の断片を拾うと、心が穏やかになる。そしてカインは思い出すのだ。これが楽しいという感覚だと。


「まずはあなたの教養を確認しておきましょうか。簡単な質問を書いていくから、それを解いていってね。共通言語と簡単な数学くらいが丁度いいかな」

「わかった。できうる限り努力する」


 夜が更け、酒場へ訪れる客足が減っても、カインはノーラとの対話を続けた。それは記憶との戦いの始まりだった。

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