夏の終わり
田島絵里子
夏の終わり (前編)
わたしは、目を覚ました。
「おはよう」
目の前に立っている老齢の男は、落ち着いたまなざしでこちらを見つめている。わたしは、自分が梱包されていた段ボールから一歩外に出た。彼は考えごとをするように見つめていたが、わたしが近づいてくると笑みを浮かべた。「おまえ、人間らしく行動できるようだな」
「星野 賢人さんですね。わたしの名前を設定してください」
わたしは、マニュアルにあるとおりのせりふを口にした。
「名前なんか、どうでもいい。きみはおれの召使い(メイド)なんだから」
彼はそう言いながら、上から下までわたしを眺めた。
「注文したとおりだ。機能性の高いメイド服。ふわふわの金髪。暖かい緑色の瞳。理想のタイプだな」
窓からの陽光がわたしと彼を照らした。彼は白い上っ張りを着ていた。おぼつかないしゃべり方をしている。余命いくばくもない彼の面倒を見るのは、わたしの仕事だ。そう業者に設定されている。
部屋の外では、ミンミンゼミが、耳がつんとするぐらいに鳴いている。部屋はがらんどうで、工具や材料が散らばっていたが、テレビもパソコンもなかった。ただ、ラジオの音だけがしずかに響いている。テロと戦争のニュースだった。
彼の顔を間近に見た。シミだらけ、シワだらけの顔だが、気品がただよっていた。髪の色は灰色である。ひげはない。
「さっそくですが、今日の血圧を測りましょう。薬は飲みましたか」
わたしがキコキコと辺りを見回すと、彼はくすりと笑って言った。
「もうちょっと気楽にいきたまえ」
部屋のなかには、分厚いマニュアルがあった。それをわたしは、手引き書と設計図を組み合わせたものだと判断した。客が業者にオーダーメイドをする場合には、よくあることであった。
「血圧は、朝食をとったあとに測るよ。そのあと、散歩に出かけるつもりだ」
「薬を飲むのをお忘れなく」
「ああ、そうだったな」
食事は塩パンとオイルサーデンとサラダだった。それぐらいなら、インターネットにつなげるまでもない。わたしは料理をつくり、彼に食べさせてあげた。
彼は、あまり食べなかったので、わたしが残りを食べた。味がしなかった。
「味がしません」
というと、彼は苦笑して言った。「そういう初期設定になってるんだ。あとでアップグレードをかけてあげるよ」
初期の段階では、学ぶことが多いようだった。彼のためにできることは、何でもしようと心に決めた。わたしの使命だったからだ。
彼が血圧を測り、アップグレードをかけたあと、少しジュースを飲んでみた。オレンジジュースは甘くて酸っぱくて、からだにしみこむようだった。わたしは、この味が好きになった。そして、彼にも飲ませてあげようとした。
「いまから散歩に出かける。一緒に出かけよう。ジュースは帰ってから飲めばいいさ」
彼はそう言って、リビングの席から立ち上がった。少しよろめいた。
思わず手をさしのべると、彼は少しほほえんで、
「心配するな。おれはまだまだ死なないよ」
わたしには、死がどういうものなのかわからなかったので、
「死とはなんですか?」
と問いかけると、彼は真顔で、
「その答えを知るために、人生のすべてを費やすひともいる。おれには、時間の無駄に思えるけどね」
そう言いながらも、少し寂しそうな笑みを浮かべた。
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