楓と奏

文月

第1話 あいつ

周りに誰もいないのを確認してから、私たちはお互いの両手をぴたりと合わせ、爛漫の桜の樹の下で口づけを交わした。

それはきっと10年後には消えてしまうような儚いものだったけど、しかし残るものが多すぎる現在においてそれは永遠と定義づけて良いものだと思った。

彼女の唇からは檸檬の香りがした。睫毛同士が重なり、それは唇同士の接触よりもなおキスとしての実感に満ちていた。

ほんの少しだけ私たちは一つになり、元の二つに戻った後も言葉を交わさなかった。

そっと瞳の奥を覗いてから、微笑わらって見つめあう。

誰かを好きになると、少しだけ永遠に近づくのだと今日知った。


世界は狭いと最近よく思う。

羽を持たぬ私たち若者にとっては、今この景色この現実こそが世界の全てなのだ。海の向こうの知らない国で紛争や大事件が起こったとしても、それを直接視認しない限りはテレビの向こうの出来事としか感じることはできない。

例えば目の前にある景色。雲ひとつない突き抜けるような晴天ではあるが、しかし私が今見ているこの景色は二次元的なものである。

この景色は私の眼球の中にしか存在しないものであると言われてもそれを覆せるような決定的証拠を持ち合わせていないのもまた事実。

……そういえばどこかの科学者は「眼球地球論」なんて言ったってたけ。

「……はい、そこで窓を見ながら黄昏ている佐沼、この質問数式を解いてみろ」

哲学的思考に浸っている間、授業は思っているよりも進んでいたようである。……最悪。

当然のことのように解けない私は教室内に漣のような笑いを起こす羽目になり、少しだけ癇に障った私は発生箇所を睨みつけながら自分の席に着く。やはり当然のように笑っていたのはいつものメンバーだった。友達なら笑ってもいいわけじゃないぞ。

なんとなく格好がつかないと思ったので黄昏ている風を装い片肘をついて窓を見つめる。……あいつにはなんて思われただろうか。気がつけばそんな思考が頭を埋め尽くし、目の前の景色どころではなくなってしまう。

ちらりと盗み見てみると、あいつはやはり礼儀正しくノートを取っていた。その姿はまさしく優等生そのもので、およそ女子向けではない銀縁の眼鏡がこれでもかと言うくらいに似合っていた。

いつものように口を一文字に閉じているのを見て、今ので私のことを笑わなかったのだと確認し、安心する。


私はあいつが好きなのだ。

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