思春期クラゲとおしまいの夏

空吹 四季

思春期クラゲとおしまいの夏

 がたん ごとん

 規則的なのか若干ずれているのか、少々判断に苦しむリズムに揺られて、あたしとちーちゃんは並んで座っている。そうだ。ちーちゃんと並んで座っているのだ。だったら、電車の走るリズムが規則的だとか不規則的だとかそんな事はどうでもいいんじゃないかと、あたしは思考をポイ捨てする。

 ちーちゃん――千尋は、ひとつ年下の男の子で、あたしの幼馴染みだ。どこでどうやって道を踏み外したのかは覚えていないが、髪を伸ばし、好んでフリフリした女の子の服装をしている。華奢な体躯と綺麗な顔立ちは、猫みたいで少し意地悪そうで、実際に彼は意地悪だった。

「つーくん、どうしたんです? 百面相とは表情筋のストレッチですか、ですよねぇ、将来ほうれい線が出来てしまうのは避けたいですよねぇ。えぇ、僕も避けたいですが日頃からそんな間抜けな顔はしたくはありませんねぇ」

 と、こんな感じの嫌味をマシンガントークで炸裂させる。これがちーちゃんだ。ちなみに、くん付けで呼ばれているものの、あたし――九十九は花も恥じらうべき女子高生である。幼馴染みであるからこその、お互いだけに許す特殊な呼び方なのだ。

「いや、別にそんなつもりは無いんだが……確かに、ちーちゃんの顔にほうれい線が出来たらちょっと嫌だな」

 想像したいわけでも無いが、想像するのは困難極まりそうだ。

「えぇ、僕だって嫌ですよ、つーくんの顔にほうれい線だなんて。……それで、つーくん」

「ん……?」

 珍しく、とても珍しく、ちーちゃんは言葉を発するのを躊躇う様子を見せる。あたしには特に思い当たる節は自覚出来ないし、彼の周りにも別段あった気がしない。ちーちゃんの視線が泳ぎ、そして斜めにあたしを映す。

「一二三さんの様子は、どうかなと思っただけです」

「嗚呼、成程な。変わりないよ、兄さんは毎年この時期はあんなだ」

 自覚出来ないわけである。あたしの兄である一二三は、毎年今の季節になると酷く落ち込むのだ。毎年毎年そうなので、特に気にも留めない程に。

「大丈夫だと思う。ゐろはさんが一緒に居てくれてるからな」

 そのゐろはさんに、妹としてはやや心配な面があるものの、こればっかりは定められた行事みたいなものだ。鬱ぎ込む兄に、寄り添ってくれる友人。あたしとちーちゃんだって似たようなものだし、口を出せない、出すつもりも無い。

「そうですか、それなら構いません。尋ねるのだって毎年の事ですし、返答も毎年同じですしね」

「そうだな」

 毎年毎年変わらない。変わらない日々が、続けばいい。

――次は、狭更樹。狭更樹です。お降りの方はお忘れ物の――――

 夏休みシーズンの今、不自然なくらいガラガラの車内に、次の駅が近いとだみ声のアナウンスが響く。目的地だ。

 あたし達は、無人に近い駅の改札を抜け田舎道を歩いていく。狭更樹の街はいつも何故だか、不思議なくらい人を見掛けない。道すがらの自販機で、夏限定フレーバーの炭酸飲料を買って鞄へ放り込んだ。ペットボトルが汗をかいても、濡れて気になるものは入っていない。ちーちゃんは、どこか偉そうなネーミングの緑茶飲料のオマケだった、某ファスナーのついたクマのボトルケースをちゃっかりと使っている。女子力が高い。


 *


 歩いて歩いて、降り注ぐ蝉時雨に別の音が交ざり始めた。視界が開け、見えたのは、海。ちーちゃんは、額へ手を横に添え、眩しそうに目を細める。あたしには、いつだってちーちゃんが眩しいのだ。砂浜に照り返す太陽光よりも、ずっと、ずっと。

「さて、ちーちゃん。泳ごうか?」

 チュニックとショートパンツの下に、水着の準備は万端だ。持っていた鞄を適当に放って、とりあえずチュニックを脱いでしまう。

「つーくん……」

 震えるような、ちーちゃんの声。

「貴女はやっぱりおバカさんですね、時期を考えるという事をしないんでしょうか、お盆ですよ、えぇ、お盆です、浅瀬でもクラゲだらけに決まっているでしょう?」

「あ……」

 クラゲ発生は考えていなかった。上半身だけ振り向かせ、謝罪の代わりに自分でも胸が悪くなるくらい似合わないであろう所謂テへペロの仕草をしてみる。頭を叩かれた。

「夏に此処へ来るのは毎年でしたけど、まさか泳ぐ気だったとは……呆れますね、例年通りに海を眺めつアイスバーなりカキ氷なり食べたいと言い出すのかと思っていたのに」

 今年は違うんですね、と。最後に付け足された言葉が、やけに耳に残る。胸が熱いような、冷えていくような、矛盾した感覚。

「今年から、違ってもいいんですね」

 区切るような発音と、否と言わせまいとの意図を明確に感じる言葉。向けた身体とは逆の腕を引っ張られ、あたしはちーちゃんの腕の中へと背中から収められてしまった。発育途上な、逞しさとは縁遠い腕の中へ。これは違う。何だか、違う気がする。返す言葉も見付からなくて、ただ酸素を求めて口をぱくぱくさせてしまう。

「つーくんは変化を恐れているでしょう。だから、『狭間』であるこの街に来たがってしまう」

「な……、ちーちゃん……?」

 よく、意味が理解出来ない。辛うじて、彼の名前だけを声にする。

「僕はね、もう変化しても構わないと思っているんですよ。恐いですか、僕は傍に居るのに、それでも恐いですか。好きの意味が、変わってしまうことが」

 流行に乗らず、買い替えもしない馴染みの水着。開いた背中に、濡れたものが触れる。ちゅ、と音がして、その部分に軽い痛みが走った。

「嫌でしょうか。僕では、いけないんでしょうか」

 らしくない。こんなのは、ちーちゃんらしくない。だって。

「だって自信過剰で、マシンガントークで、あたしを大好きで居てくれるのがちーちゃんだ。ちーちゃんがちーちゃんなら、あたしは拒否なんてしない。いつも自分勝手な癖に、今こんなのってずるいじゃないか」

 ちーちゃんが、気弱な様子や躊躇う様子を見せるのが恐かった。そんな些細な、けれど引っかかる変化が嫌だった。

「あたしは、いつだって奪っていかれて良かったのに……っ!?」

 いつも、わがままを言うのはあたしだった。ちーちゃんは、口では嫌味を言いながら付き合ってくれた。そんな、状況に似つかわしくない懐古は、どさりという衝撃で強制終了する。ちーちゃんがあたしを巻き込んで、しゃがみ込むみたいに倒れたのだ。細くて華奢なちーちゃん。ヒールを履いた脚は不遜に組まれているのが似合うのに、今は胡座に近い形で、彼に乗り上げる姿勢になったあたしの体重を支えている。抱きしめてくる腕は、じりじり肌を焼く太陽とは違って滑らかな熱を持っていた。

「本当に?」

「嘘を言っても何にもならないじゃないか」

 今度はあたしの喉が震える番だ。しかし、ちーちゃんの喉もくつくつと違った震え方をしている。ちーちゃんは、笑っている。

 また、背中に濡れた痛みが走る。まるで、クラゲに刺されたみたいだ。

「世界で一番、つーくんが大好きですよ」

「ッ!?」

 火照った頬に冷たい感触。視線を動かしてみれば、憎めないクマのペットボトルケースが、あたしを掠めて通り過ぎていった。ぺきぺきと蓋を開ける音。次の瞬間、甘ったるい飛沫がしゅわっと吹き上がって、密度の高いあたし達をベタベタにする。

「あははははっ」

 ちーちゃんは、とうとう声を上げて笑う。

 嗚呼、あたし達の思春期は加速して、夏は、眩暈を起こすような速度で終わりに近付いていく。

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