それぞれの愛
「先輩、最近根詰めすぎじゃないっすか?」
数週間後。
新入社員も加わり、職場に若芽の息吹が吹き荒れる今日この頃。
真面目社会人ランキング上位常連の霧島涼介は、新入社員の教育に追われていた。
「気にするな。仕事を家に持ち込みたくないだけだ」
「そうは言っても、休憩時間は休憩しないと。ここ最近ずっとじゃないっすか」
「一日でも早く仕事を覚えてくれれば、その後が楽になるさ」
「空いた時間に別の仕事がねじ込まれるだけじゃないすか?」
「残業するよりマシさ」
それはひとえに、プライベートと仕事を分けたいという気持ちの表れであった。どちらも大切に、誰の手も借りずに両立してみせる――そういった覚悟を持って、霧島涼介は仕事にあたっている。多少の苦労は織り込み済みだ。
「……あと15分か。さすがにそろそろ何か食べ――」
休憩時間の終わりを数え、霧島涼介がパソコンを閉じてデスクを立った時だった。
バタン、と。紐を失った人形がごとく、霧島涼介の身体は冷たいオフィスの床に張り付いた。
「先輩! 先輩っ!!」
どれだけ精神が強くとも、人の体力は無限ではない。根性論は現代において既に淘汰された文化である。
立ち上がろうにも、体の動かし方を忘れてしまったかのようにまるで力が入らない。視界は霞み、思考がうまく纏まらない。
ほどなくして、音羽雅の通報により到着した救急車によって霧島涼介は搬送されることとなった。
その後、一通りの検査を終え、しばらく睡眠を取った後、気づけば朝霧美晴が迎えに来ていた。診断はもちろん過労であった。
蓄積した疲労は疲労感をも麻痺させるものである。ゆえにこそ、定期的な休息が肝要な現代社会である。
「すまない、心配かけて」
「ほんとにね。リョウくんの頑張り癖はなかなか治んないねえ」
病院のベッドで、あの日のように、霧島涼介は朝霧美晴の看病を受けている。
日は傾きはじめ、清潔なカーテン越しの斜陽が暖かな橙色に差し込んでいる。
「後悔、してないか?」
身体の疲労につられたか、口をついて出てしまった言葉は、二度と戻らない。
「悪い、寝ぼけてるのかもな。忘れてくれ」
「もう、リョウくんったらマジメなんだからー! 病人は病人らしく、布団で隠れてゲームしてなさい!」
朝霧美晴はあえて変わらずあっけらかんとして振舞った。ぽふぽふぺしぺしと布団越しに肩を叩いても、霧島涼介はまだ浮かない顔だった。
「あの子が温泉のチケット持ってきた時ね。ああ、この子は本気で涼介のことが好きなんだなあって感じたよ。涼介は鈍感さんだから気づかなかったかもしれないけどね」
ベッドサイドの椅子から、布団に手を潜りこませ、霧島涼介の手と重ねる。
「あの寒い日にわざわざ家までチケットを届けに来たのは、きっと、涼介の顔が見たかったんだと思う。クリスマスっていう特別な日に、一目でも。もしかしたら、私と二人きりの時間を邪魔したかったのかもね。
どこまで考えてたかはわからないけど、でも、そう簡単に振り向いてくれないことは、わかってたと思う。涼介、マジメだもんね。浮気とかするわけないもん。なのに、ずーっと待ってるんだよ。ほんの数パーセントもないかもしれない、愛しの人が振り向いてくれる日を。卑怯なことも、誰かが不幸になることもしないで、毎日地道にコツコツ好感度稼いで」
「美晴は会社の雅は知らないだろ?」
「わかるよ。あの子はそういう子だもん」
朝霧美晴はさっぱりと、自信を持って言い切った。
「この子なら、涼介を今よりもっと幸せにしてくれるし、誰より幸せになってくれる。そう思ったから、温泉に誘ってみたんだよ。実際その通りだったでしょ? 後悔なんてするわけないよ、これまでの全部ね」
朝霧美晴のスマホが震えた。マナーモード(バイブあり)だ。音羽雅からの連絡だった。霧島涼介の様態が安定していること、過労という診断、心配いらないことを添えて返信した。
「雅ちゃん、遅くなるって。そうだろうねえ。リョウくん抜きで仕事が回るわけないもんね」
「一人抜けただけで回らなくなるとか、やばいだろ」
「リョウくんが働きすぎなんだって! リョウくんが頑張った分だけ他の誰かがサボってるんだからね! 私とか!」
「胸を張るな。……懐かしいな。美晴の仕事の出来なさは半端じゃなかった。クビにならなかったのが不思議なくらいだ」
「いやあ、上司がスケベで助かった!」
霧島涼介は力なく笑った。憔悴しきった彼に、朝霧美晴は覆いかぶさるようにハグをした。
「今回みたいなのは、これで最後だからね」
「ああ。反省してる」
「私たちは、みんなで幸せになるんだからね」
「もちろんだ」
疲弊しているのは霧島涼介だけではなかった。それを表に出さない真心こそ、朝霧美晴の美徳であった。
しばらく安静にした後、朝霧美晴の運転で二人は帰宅した。数日間は仕事や激しい運動はしないように、という医師の忠告付きだった。
自宅のベッドで睡眠を取る霧島涼介。家事に戻った朝霧美晴。これでひとまず落着――とはいかなかった。
「先輩っ!」
仕事が終わる時刻になると、音羽雅が飛んできた。
「こら! 雅ちゃん、そんなに慌てないの! おムネの脂肪が燃焼しちゃうでしょ!」
肩で息をする音羽雅。髪もスーツも雨に濡れきって、崩れた化粧も合わせ、見るも無残な姿であった。
「安心しろ、安静にしてれば平気だってさ」
「はあっ、はあっ、……よかった」
まずはそれだけ伝えると、霧島涼介は改めて音羽雅の様子を見た。明らかに尋常ではない。途中で転んだのか、よく見れば顔にまで泥がついていた。
「おい、そっちこそ大丈夫か? 転んで怪我してないか」
「ひとのっ、しんぱい、してる場合ですか!!」
絞り出すような声だった。普段あんなに冷静で俯瞰的で、なによりリアリストの彼女がここまで取り乱すとは。それほどの心労をかけたということだ。霧島涼介は改めて反省した。
「見ての通り、俺は平気だ。まずはシャワー浴びてこいよ。美晴、頼めるか?」
「もち! それじゃあ雅ちゃん、そのもち肌をきれいきれいしましょうねー」
半ば強制的に、音羽雅は朝霧美晴によって風呂場へ連行されていった。
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