03.空手で折れるのはバットまで


 1


 坂を下りる勢いを利用して猛ダッシュし、人面樹の右斜め後方から駆け寄っていく。この角度ならば、やつから俺の姿は見えないはずだ。

 俺は人面樹のすぐそばまで接近すると、妖精を捕らえている枝を右手で下からすくい上げつつ、その根元に左の手刀を振り下ろした。


「うりゃっさぁぁ!」


 ―― めぎゃっ! ――


 文字通り生木が裂けた音がして、妖精を捕らえていた枝は真っ二つにへし折れた。

 やった、狙いどおりだ。

 人面樹の枝は野球で使われるバットのグリップほどの太さだったが、俺はその動きの滑らかさを見て、それがさほど堅くはないと予想していた。下から手を添えてテコの原理で力を加えてやれば、未熟な俺の技でも十分に折れると思ったのだ。

 折れた枝は魔法が解けたかのように力を失い、ただの木となってバサリと地面に落ちた。それと同時に拘束が緩み、妖精が枝の先から抜け出す。


「ほら、さっさと逃げろ!」


 俺はぶんぶんと手を振って、妖精に逃げるよう促した。

 別にこの化物バケモノの息の根を止める必要はない。この羽虫もどきさえ逃がせば、あとは自分もこの場を離れてしまえばいいのだ。


「グォゴゴゴゴゴゴゴ…………!」


 枝を折られた人面樹が怒ったような声を上げてこちらを振り向く。しかし相手がキレて本気を出してくるのを悠長に待つなど、喧嘩においては愚の骨頂だ。

 俺は樹に目印をつけるのに使っていた石をポケットから取り出すと、やつの右目にそれを思い切り突き刺した。さらに深く食い込むよう、そこに靴底で蹴りを食らわせる。


「せぃいっ!」


 ―― ドギュッ! ―― 


「グォォォォォォォォ!!!」


 緑の目玉から毒々しい紫色の血を流し、森中に響くような声で人面樹が叫ぶ。

 これで右目と右腕(?)は封じた。あとは潰した目のほうへ回り込んでやれば、こいつは俺の姿を一瞬見失うはずだ。

 俺は左前方に跳んで人面樹の死角に入り込むと、そのまますれ違いつつ森の奥へとダッシュした。

 

(あの妖精もちゃんと逃げたみたいだな……よし、あとはこっちも逃げの一手だ!)


 数百キロはありそうな体重のせいか、さっき妖精を追いかけていた人面樹のスピードはそれほど速くはなかった。少なくとも、人間が全力疾走すれば十分に逃げ切れるはずだ。

 このまま体力の限界まで突っ走って、やつを完全に振り切ってしまおう。それでも森から抜けられなかったら、またどこかの木陰にでも隠れてしばらく休めばいい――そう思いつつ走っていた俺の目に、とんでもない光景が飛び込んできた。


『グゴゴゴゴゴゴゴ……』


 なんと、行く手に生えていた2本の樹が突然動き出した。

 大きな緑色の目をギョロリと見開き、牙の生えた口を三日月のように開いたその姿は、まさに先ほどの人面樹と同じものだ。


「うぉぉっ!?」


 慌てて体を後ろへ反らし、重心を変えて急ブレーキをかける。

 迂闊うかつだった。あまりに非常識な存在を前にして、あんなものが何匹もいるわけがないと勝手に思い込んでしまっていたのだ。


(そうか、ようやく分かってきたぞ。この森に侵入した動物は皆あいつらが喰っちまってるんだ。あんなのが食虫植物みたいにじっと待ち伏せてたら、そりゃ素早い小動物でも捕まるわな)


 そう気付いた瞬間にゾっとした。先ほど俺が身を隠していた樹も、一歩間違えばやつらの擬態だったかもしれないのだ。


「くそっ、なんて物騒な森だ!」


 俺はどうすべきか判断に迷った。前は新たな2匹に塞がれているし、道の左右も木の枝が密集していて逃げ込めない。きびすを返して後ろへ逃げようにも、すでに背後からはバキバキと、さっきのやつが追って来る音が迫っていた。


(最悪だな……)


 2


 ほどなくして、俺は3匹の人面樹に前後から挟まれてしまった。前の2匹は邪悪な笑みを浮かべているが、後ろのやつは怒り心頭といった顔でこちらを睨んでいる。これぞまさに前門の虎、後門の狼というやつか。


(いやいや、マジでどうするこの状況。1匹でも倒せる気がしないのに、こんな化物バケモンを3匹も相手に素手でどう戦えってんだ)


 実際のところ、人間の力で直径1メートル以上もある巨木をへし折るなど不可能だ。

 空手の修行で大木を巻藁まきわらにして叩き続けた結果、数年かけて幹がえぐれたとか、枝の葉が全て枯れてしまったという逸話いつわはある。しかし相手がこちらにも反撃してくる化物バケモノときては、とてもじゃないがそんな時間も余裕もない。


(空手の試割しわりを見て、『動かないものを壊しても強さとは関係ない』なんて言うやつも多いが……まさか本当に動く樹に襲われるとはな)


 子供の頃から長年武術を学んできたが、俺は身につけた技術をここまで頼りなく感じたのは初めてだった。一応空手の構えをとってみたが、これはあくまで対人間用の技術でしかない。素手では熊やライオンにすら勝てない人間が、拳や足で砕けない樹の怪物をどうこうできるはずもないのだ。

 とはいえ武術家には、いや男には、絶対に勝てない相手だからといって『諦める』という選択肢は存在しない。どうせ戦わなければ喰われるのだ。ならば精一杯抵抗して、せめて俺を獲物と認識したことを後悔させてやる――そう決意し、俺は目の前の敵をどう倒すべきか考え始めた。


(狙うなら弱ってる後ろのやつだが、幹を攻撃しても無駄だろうな。まずは腕代わりの枝をもう1本へし折って、あとは素手でも攻撃が通りそうな目を狙おう。上手くもう片方の目を潰せれば、なんとか逃げ切れるかもしれん)


 作戦は決まった。

 俺は前の2匹に動かれるより先に後ろを振り向くと、背後にいた手負いの1匹に向かって再びダッシュした。

 先ほどと同じように敵の右側へと走り、潰れた目の死角に入り込む。こちら側は腕にあたる枝も折れているので、攻撃される心配もない。


「グォォォォーッ!」


 俺の姿を見失わないよう、人面樹も右へ回ろうとする。俺は円を描くように動いて、さらに死角へと回り込んでいく。

 そんなことを数回繰り返したところで、人面樹は逆の左回りに振り向こうとした。この状況を嫌がった者がおちいりやすいパターンだ。


(そう動いてくれるのを待ってたんだよ!)


 死角への回り込みに対して逆方向へのバックスピンで向き直ろうとするのは、相手がそれを警戒していない限り不意打ちを食らわせるチャンスにもなる。だが、俺のようにその攻防に慣れた者にとってはただの隙だ。

 俺は振り向こうとする人面樹の左腕にあたる枝を左手でキャッチし、その根元に右の手刀を叩き込んだ。ちょうどさっきと鏡映しになるような格好だ。


「ちぇっさぁぁぁ!」


 ―― ばぎぃっ! ――


「グォガァァォォオ!」


 左の枝をへし折られ、再び人面樹が吠える。

 両腕を折られて頭にきたのか、それとも人間と同じように痛みを感じているのか、人面樹は幹全体を左右に揺らしながらジタバタと暴れていた。そして激昂げっこうした人面樹がこちらを振り向いたその瞬間――


「しぃぃっ!」


 俺はやつの残った左目を掴もうとするかのように、その幹に向けて両手を思い切り突き入れた。


「ゴグァァッ!?」


 鋭く放たれた諸手貫もろてぬきが上下のまぶたと眼球の間にずぶり――と滑り込み、手首まで突き刺さる。俺はそのまま腰を落とすと、ドッジボールほどもある目玉を抱えて眼窩がんかからえぐり出した。


「ゴガァァーーーッ!」


 両目を潰され、完全に視界を奪われた人面樹が半狂乱で暴れ回る。俺は巻き込まれないよう少し距離を取り、残った2匹のほうを警戒しつつ再び構えた。


「悪いがこっちも命がかかってるんでな、ちょっとえげつない技を使わせてもらったぜ」


 4本の指をぴんと伸ばして相手に突き刺す貫手ぬきてという技は、試合で使われないのはもちろん、本来なら自分よりも体重のある相手や硬いものに対しては使えない。己の指がまさに刃と化すまで鍛えた達人ならばともかく、そのような技を練習する機会もほとんどない最近の空手家、しかも初段程度の腕前では突き指をするのがオチだからだ。

 今の技はそんな未熟者でも使えるよう、俺が編み出した独自の貫手ぬきて――その名も鏃貫手やじりぬきてだった。中指の下に人差し指と薬指を沿わせ、正面から見たときまさにやじりの形になるよう3角形を作る。そうやって3本の指を束ねた中心に向けて力を込めることで、上下どちらにも指が折れないようサポートするのだ。


 ―― ズズゥゥゥン…………! ――


 暴れていた人面樹は痛みのためか大きくのけ反り、ついに仰向けに倒れ込んだ。


「っしゃあ!」


 まだ根っこの部分がウゾウゾとうごめいているので、どうやら死んではいないらしい。とはいえこの巨体では、少なくともすぐに起き上がることは不可能だろう。


(よし、チャンスだ! 今ならあいつの脇をすり抜けて逃げられる!)


 空手の技が意外にも効いたとはいえ、こんな化物バケモノを1匹でも倒せたのは幸運というしかない。逃げ道が開けた以上、これ以上の戦いは無意味だ。

 俺は残った2匹を放置し、その場から逃げようとした。しかしなぜか足が地面に張り付いたまま動かない。


「くぉっ?」


 慌てて足元を見てみると、いつの間にか足首に直径5センチ近くもある樹の根が絡み付いていた。俺が倒れた個体に気を取られていた隙に、背後にいた2匹が離れた場所から根を伸ばしていたらしい。


(こ、こいつら……枝だけじゃなく根のほうも伸ばせるのか!)


 常に全ての敵を視界に入れておくのは集団戦における基本だが、本体が離れていたことで俺は完全に油断していた。しかも地面からは普通の樹の根もあちこちに出ていたため、やつらのものと見分けがつかなかったのだ。


(やべぇ、完全に動けん! このまま全身に絡まれたら……)


 根はさらに伸び、すでに腰のあたりまで締め付けられている。このままでは上半身の動きも封じられ、あの巨大な口で頭からばりばりと喰われるのも時間の問題だろう。


(くそっ、やっぱりこれが人間の限界か)


 2匹の人面樹が歪んだ笑みを浮かべながらこちらに近づいてくる。

 背後から迫るプレッシャーを感じ、俺は死を覚悟した。だが、そのとき――


「▽○△○▼ー◎っ!」


 突如として響いた透き通るような声とともに、どこからかサッカーボールほどの火の玉が飛んできた。


 ―― ボムッ! ――


 真っ赤な火球が人面樹の1匹に直撃し、顔の上に生い茂った枝や葉の部分がたちまち燃え上がる。


「ゴァァァッ!?」


 まるで松明たいまつのようになった人面樹が諸手を上げて左右に揺れる。すると隣にいたもう1匹の枝にも火が燃え移り、2匹は頭から炎を上げながら暴れ回る羽目になった。


『ゴガガァァーーッ!!!』


 こうなってはもはやカチカチ山のタヌキだ。そのうち2匹の人面樹は全身火だるまとなり、ついには倒れて動かなくなった。

 人面樹が死んだせいなのか、体を縛っていた根の締め付けが緩む。おかげで俺は体をぐるりとひねり、拘束から脱出することができた。


(ふう、助かったぜ。それにしても、今の火の玉はなんだ? どこから飛んできた?)


 火の玉の飛んできたほうに目をやると、そこには――


「…………魔女?」


 濃い紫のローブと円錐形の帽子に身を包み、杖を持ってたたずむ少女がいた。

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