第63話 大野治房奮戦及ばず

 大野主馬首治房は、麾下の部隊と諸部隊の指揮官として、およそ二万を兵を率いて部署についていた。治房は全部隊に対して軍令を発して統率した。


 重ねて申し遣わし候、敵押し寄せ候共、ちゃうす山岡山より、主馬人数出し候はゞ、かならず大事にて候間、此段侍共に能々申し付け、法度ちかへ候はゞ、則成敗申し付くべく候、昨日のかせんも、余りにあし長にて出で候て、不覚取り候間、今日合戦一大事に候、主馬一人の手柄にても、惣様のまけになり候へば、せんなく候間、軍堅く申付け候、謹言

    五月七日                 大  主

猶真田毛利申し合せ、そつしのかっせん然るべからず候、今日一大事、天下わけめの合戦にて候間、ぬけかけこれなき様に、堅く堅く軍法せん用に候、とかく敵を引請け候て、一戦およひ候はゞ、かならずかならずりうんたるへく候


 治房は最後の一大合戦であるから、抜け駆けなどもってのほかであり、敵が攻め寄せても焦らず、突出せず一丸となって攻めよ。昨日は一方だけ突出したのが不覚だったので、今日は同じ轍を踏むなと厳命したのである。

 敵は多数、味方は昨日まででかなりの損害を受け、兵力差は開いている。勝利を収めるためには各個撃破されるのが一番避けなければならないからだ。


 治房は右先手を布施伝右衛門、左先手を新宮若狭守行朝に命じ、自らは中央の先頭となった。その右手に治長麾下の銃隊を置き、その後方に岡部大学則綱、根来正徳院、岡田縫殿正繁、中瀬掃部定純の四隊を置き、右先手の後方に山川帯刀賢信、北川次郎兵衛宣勝の二隊、左手後方に御宿越前守正友、二宮与三右衛門長範を置いた。

 

 布施、新宮を左方東面に向かわせたが、目前に迫りくり敵の大軍を目の当たりにすると

御宿正友を呼び寄せて、出発の位置に戻る様命じ、迫り来る戦闘に備えさせた。


 治房は鉈の紋付きたる旗を押立て、大野道犬は赤吹貫の旗二本をたて、内藤宮内少輔、浅井周防守、三浦飛騨守、稲木三右衛門尉、樋口淡路守、青木駿河守、野々村伊予守、真野豊後守、石川肥後守、小倉作左衛門、長野与五郎、成田兵蔵らが前田利常の梅鉢の紋付きたる旗めがけて突進を開始した。


 真田と毛利が早くも戦いを始めたのがわかると、遅れてはならじと全軍に突進を命じたのだった。

「ものども!前面の梅鉢の旗印を踏み潰せ!狙うは秀忠の本陣!」

「おぅー!」

「東西の勝敗只今日の一戦にあり。お互い一歩踏み込んで敵を打ち破るべし!」


 前田利常の先鋒山崎閑斎、本多安房守政重、寺西若狭守、村井飛騨守、篠原出羽守、津田和泉守らが迎撃し激闘となった。

 秀忠の前衛として配置についていた大番組、書院番組、扈従組の面々は、今日を除いては功名を立てるときはないと焦り、前田隊の隙間を縫って大坂勢へ突入していった。

 大番組大将の阿部備中守正次、高木主水正正次、書院番組大将青山伯耆守忠俊、松平越中守定綱、水野隼人正忠清ら治房の部隊と激突したが、戦慣れしていない秀忠の部隊は蹂躙され、書院番組の忠俊麾下の古田左近、野一色頼母助重、松平助十郎正勝、大島左大夫光盛、服部三十郎保正、別所主水宗治、松倉蔵人が討ち取られ、忠清麾下の松平庄九郎忠一、山崎助十郎久家、山口平兵衛重克、梁田平七郎、同苗権三郎討ち取られ、大番組麾下の大岡忠四郎忠政、筒井甚之助吉重、間宮庄九郎正秀、林藤四朗、米倉小伝次ら討ち取られ、手負いしたる者の数知らずほどの情況であった。

 

 敵味方入り乱れての激戦なので、誰が味方か敵は区別がままならない状況であった。そこで阿部正次は苛立って叫んだ。

「味方は遠路を押しきたことゆえ、顔は日に焼け物具は泥土に汚れたり!敵は籠城の身ゆえに日に焼けず甲冑も鮮明である!何もこれを目度として敵を討て!」

 しかし、正次自身も数名の敵を突き伏せたが、それ以上の敵兵と渡り合って重傷を蒙り家人に救われて後方へ退いた。

 

 本来ならば、頼みとなる藤堂高虎と井伊直孝が秀忠の前衛として陣していたが、大御所家康の本陣が、真田、毛利の猛攻により危機を生じると、藤堂、井伊の両隊は真田、毛利隊へと向かったため、秀忠の前衛は秀忠麾下の旗本しかいなかった。


 大野隊は前田隊と秀忠前衛の旗本組を撃破し、秀忠の本陣もかいま見えた。治房は戦闘の合間を縫って、豪勇なる者を集め一団とし、右方より一目散に秀忠の本陣を目指す様作戦を立てた。

「目指すは敵将軍秀忠の御首なるぞ!」

 秀忠の前衛組は突破されたが、まだ後衛の酒井雅楽頭忠世、そして土井大炊頭利勝がいたが、その猛烈さに耐えきれず突破された。それもそのはず、長い間、徳川将軍家の親衛隊は戦乱の際には陣すれど、直接戦闘することなどなかったのだ。これほどまでに本陣近くまで攻めこまれたことなどないのだから、戦いぶりは下手であった。

 土井利勝も秀忠の本陣を守るべく立ち止まり、兵が逃れるのを叱咤し

「卑怯者めが、返せい!返して敵を止めんと我が成敗致す!」

と呼ばわり、兵を止まらせて防戦に応じていた。


「本陣が危ない!」

 との報せで、安藤対馬守重信や本多佐渡守正信も部隊を率いて駆けつけ、秀忠もようやく危険を悟り、槍を手にとって備えた。

 太閤殿下縁故でもある黒田筑前守長政と加藤左馬助嘉明も直接戦闘に参加することは裏切りの可能性もあるので許されていなかったが、秀忠を守ために前面を塞ぐ様に移動を開始した。

 のちに、「かかれ対馬、逃げ大炊、どっちつかずの雅楽頭」と喧伝された。

 

 秀忠の旗奉行でもある三枝平右衛門正吉は、前衛が崩れて退くにもかかわらず毅然として将軍の大旆を退くばかりか前方に押し進めた。この効あってか、秀忠の旗本麾下の諸将は立ち直り始め、乱れていた諸士はまとまりだした。また、大坂の攻撃も息をつき始め弱火となりつつあった。

 というのも後方に取り残された前田軍の右備えである本多豊後守は残った兵の態勢を整えて大野隊の側面を突いたのである。

 豊後守は、同縫殿助康俊、遠藤但馬守ら二千の兵をもって突いたから、大野隊は乱れだして、もはや本陣を目指すところでなく、側面に対応しなければならず、ついに一旦退却して兵を集めることを命じたのであるが、激戦による大野隊の損耗も激しく、それに加えても敵は多数なので、こちらと同数の兵を損耗してもまだ余裕の理論通り、東軍は盛り返し始めたのである。


 有名な話に家康近習に石川嘉右衛門重之なる者がいた。この重之は功名手柄を立てたいと前田隊と混じって大野隊と戦い、猪突猛進して大坂方の佐々十左衛門と刃を交えて斬り伏せ首を掲げ、さらにその郎等の一人も斬り伏せて、都合二つの首をもって秀忠の元へ馳せ付け、

「旗本の一番首なり!」

と二つの首を献上した。秀忠は、

「勇ましき振る舞い天晴れなり!」

と誉め讃えたが、それとともに、

「軍令に背きこと遺憾なり。厳罰に処す」

と勘気を蒙ったため、のちに重之は録を捨てて比叡山の麓の一乗寺村に閑居し、丈山と号した。又は凹凸とも六々山人とも云われた。都には出でずと誓いをたてた際に詠んだ

一首は

 「わたらじなせみの緒河の清ければ 老の波そふ影も恥かし」

 のちに丈山は、詩人の大家として名を馳せるが、武人としても高名を挙げたのである。丈山は凹凸窠おうとつか(詩仙堂)を造営し狩野探幽に描かせた三十六歌仙の絵と詩を四方にめぐらして棲家とした。

 余談だが、丈山作なる有名な「富士山」という漢詩がある。漢詩を習うものにとって七言絶句の代表作である。


   仙客来遊雲外嶺(仙客せんかく来り遊ぶ雲外のいただき) 

   神龍栖老洞中淵(神龍み老ゆ洞中どうちゅうふち

   雲如紈素煙如柄(雲は紈素がんその如く煙は柄の如し)

   白扇倒懸東海天(白扇さかしまに懸かる東海の天)

東海道に沿うて、自らは今天下の霊峰富士山を仰いでいる。なんという壮大、かつ崇高な山であろうか。雲の上にそびえ立っている嶺には、仙人が時々来て遊ぶであろう。頂の辺りにある大きな洞の中のうちには、きっと神霊の龍が長い間栖んでいるに違いない。とても俗人など近づけそうもない。自分などは下界からこうして仰ぐしかないが、それがまた何とも言えない絶景である。山を埋めた雪の白い部分は、扇でいえば白絹を張った所にあたり、立ち上る噴煙は扇の柄ともいえるであろう。こう考えると東海道の空に白扇がさかさに懸かっているといっても過言ではない。

 (高須芳次郎編著「名文鑑賞読本、漢詩漢文」厚生閣 昭和12年 より)

 

 話は治房に戻るが、敗走を始めた城兵は一目散に城内に逃れんと必死となっていた。流石にこれには治房も憤然とし、残兵をまとめ一団として槍衾を作って追い迫る東軍への逆襲にでた。一気に攻め立てようとする東軍はこれに足止めされ、しばし後退して態勢を取り直したところを見計らい、治房は全軍を玉造口から入れた。東軍は敵を逃さじとさらに勢いを増して大坂城内に打ち入らんと殺到してきた。 

 この様子を見ていた北村五郎助は部下に命じて数個の火薬箱を城門の外に置かさせていた。全軍が城門より中に入るや、五郎助は火箭をもってその火薬爆を狙い射かせ、見事その火箭をもって火薬箱を破裂させ、近寄る敵軍の騎馬隊を吹き飛ばしたため、しばらくはこの城門は進入不可能となった。


 治房は華々しい成果を挙げたけれども、如何せん多勢に無勢は覆ることなく、東軍によって殲滅されてしまった。やはり、秀頼公の出陣なく、秀頼の親衛隊が後詰としていなかったことが、最後の詰めとしても甘さが露呈したのである。

 家康本陣にしても、秀忠本陣にしても、危険に曝されたことは事実だし、大坂方に余力があれば、逆転が可能であったともいえる。


 淀殿秀頼母子はいよいよ最期の時を迎えることとなった。大坂の夏の陣は冬の陣に比べれば華々しくはあったけれども、呆気なく城とともに灰燼に帰したのである。

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