第39話 木津川口砦の陥落
大坂城の西方新谷方面は、大野治長は安宅丸に兵を入れて守らせ、更に番船十余隻を付属させた。大坂城の西に海岸線の防衛にあたらしめる為である。
東軍は船手大将の九鬼長門守守隆、船奉行向井将監並びに小浜民部少輔光隆、同安隆、千賀信親等が相謀り、新谷の敵船を攻撃して中島の交通を安全ならしめるという計画を立てた。
九鬼氏といえば、紀州熊野の熊野本宮大社の八庄司の一派のであるとされるが、戦国時代初期より頭角を表し、九鬼の水軍は織田水軍として活躍をし、長島一向一揆の戦いや石山本願寺攻めで活躍を見せ、毛利水軍との戦いを制するに至った。秀吉の代には、小田原征伐、九州征伐と功績を積み、文禄慶長の役では、朝鮮渡海および朝鮮水軍との戦闘で活躍を見せた。関ヶ原の戦いでは、九鬼守隆は東軍についたが、父嘉隆は西軍についた為に、守隆は父の助命嘆願をした。助命が認められたが、嘉隆の家臣豊田五郎右衛門が切腹を促し、嘉隆は助命の使者を迎える前に自刃してしまった。激怒した守隆は五郎右衛門を鋸挽きの上斬首にしたという。守隆は鳥羽藩5万6千石の初代藩主として大坂に出陣した。
18日未明、守隆は家臣の中から水練の達者の者二人を選び、二人は裸体となって刀を口に咥えて水底を潜り、安宅船に達するや船縁をよじ登って敵の船標を奪った。豊臣の安宅船ではあるが、兵士はあまり乗り込んでおらず、水主たちは二人に討ち取られ、乗っ取られたのである。同時に守隆は兵船を
新谷方面は一夜にして、何ら戦いらしき事も起こらず、東軍の制する所となった。
現在では木津川口(
この穢多崎の砦の場所は正確にはわかっていない。穢多崎は船場の南端に位置し、その南は道頓堀で天満の下流の臨み、当時は三面が水に囲まれた一岬であったという。近くには三津寺町の観音様がある。大坂方はここの堡塁を築き、更に掘りも掘り、土橋を架け、明石全登に命じておよそ八百の兵と小舟数十隻を備え置いて河口とか守備させていた。大坂にとって、兵糧などを運びこぶ重要な拠点であった。
東軍の蜂須賀阿波守至鎮はその老臣稲田修理、中村右近を先手とし舟手奉行森甚五兵衛をして船を準備させた。至鎮は本陣を勝間村に置いており、18日茶臼山の家康に拝謁した。その際、本多正純に大坂方のこの方面の物見の状況を報告した。
「上野介殿、穢多崎の砦は、要害にはござりませぬ。敵兵も少なく容易に落とせませる。願わくば、これを攻め落としたく存じまするが如何」
「阿波殿、兵を損なわずしてこれを取ることができるのであらば構わぬ。甚だよろしく存ずる。も一度物見してからでも遅くはなかろう」
正純は佐久間安政に至鎮と共に現地に向かい、敵情を今一度探るように命じた。そして、安政は視察して帰り正純に報告した。
「阿波守の申し状の如く、城兵の備え薄うござる。これを攻め落とすこと容易く存ずる」
その報告を受けて正純は家康と協議した。
「三面が水に囲まれおる。これでは人馬の進退が駆け引き自由にならぬであろう。いかがなるものか。のう上野介」
「いかにも、これではいざなる時混乱に及べば、退く道ござりませぬ」
家康はしばし考えたのち、決断を下した。それはあくまで大坂が油断していることが前提であったが、それが当たって居るよう気がしたのである。
「阿波守には追手から攻めよと伝えよ。浅野但馬には搦め手に向かわせ、池田宮内にはいざなる時の為遊軍として備えさせよ。三人よくよく協議して攻め取るべし」
「はっ」
大御所からの許可を頂戴した至鎮は勇躍した。
「見事落として見せまする」
と断言したものの、気に入らないのは浅野但馬と申し合わせて攻めよということだった。守備兵少ない此の砦を落とすのに、我が蜂須賀だけで十分だと確信していた。ちょうど、本多正信の姿があったので、意中を吐露した。
「佐渡殿、此の件願わくば至鎮の一手に仰せ付けられたく存ずる。よしなに大御所様にお伝えくだされ」
「阿波殿の御心中御察し申す。心次第にせられるがよかろう。御前への儀は我らに任せられよ。存分に働かくがよい」
「ありがたき幸せにござります」
正信も寒くて暗い夜中の行動は危険を伴う。味方の同士討ちは避けねばならない。蜂須賀だけの攻め合いの方が事がうまく運ぶであろうと信じ託したのである。
至鎮は喜び勇んで陣中に戻り、直ちに兵三千を水陸両隊にわかち、陸より進む者は山田宗登、樋口内蔵助が率い、水上部隊は四十艘の船にうち乗り、森村重、稲田甚五兵衛が率いて出発した。
それより少し前、浅野長晟、池田忠雄とともに軍議のため集まり、明朝六ツを期して出発と約束を断じた。しかし、出発時刻を守って居るわけには行かぬ。夜七ツを以て進軍するとしたが、側近らが長晟も又約束より先に押し出すであろうと考え、さらに八ツ半になって出発することに決し、準備にとりかかった。
夜七ツ頃には穢多崎の砦を眼前にしており、蜂須賀軍は一斉に鉄砲を撃ちかけた。慌てたのは大坂方であった。明石全登は軍議の為大坂城に出向いており、まだ戻っていなかった。弟の全延は兄に代わり砦を守っていた。が、当夜は寒風鋭く全登が不在なるをいいことに酒を飲んで暖かい屋内で寝入っていたのである。
「敵襲!」
との叫び声が上がった。全延と船手大将の樋口淡路守雅兼は敵襲の声を聞くや憤慨した。
「物見のものどもは何をしておったか。あれほど油断するなと厳命しおいたに!」
「者共、出会えぃ!敵に応ずるのじゃ!」
全延は下知して回りつつ、敵と渡りあっていたが、全登と違い全軍をまとめて指揮する器量がなく、只、敵ぞっ、と呼び回るだけであった。勇者薄田もいたというが酒に溺れていたせいか応戦できず、他の者も遅れながら態勢を整えようとしたが、蜂須賀勢の浴びせかける銃砲激しく飛びかう為、容易に動けず、そうこうするうちに蜂須賀の中村左近は三百の兵を率い北方に回り込み町屋に火を放ったからたまらない。冬の北からの季節風に火炎は砦にも及び始めたのである。
「火が放たれたぞっ!」
「丹後殿、このままでは退路が断たれます。はよう退かれよ。あとは任せられよ」
全延は誰が言ったかわからなかったが、言われるがまま退却を始めた。
「退却せよ!砦を捨てるのじゃ!」
こうして大坂方は抵抗することほとんどなく砦から退却し、蜂須賀勢は難なく砦を占拠したのであった。
浅野長晟は一万の兵を率いて今宮にあり、刻限を迎えたので出発したが、砦の方面から激しい銃声が聞こえ、間もなく炎も見え始めた。
「さては、出し抜かれたか!者共急げ!」
と部隊を急がしたが、道頓堀を超えた頃には物見より、蜂須賀が奪いたりと長晟の元に報告されたのである。
「蜂須賀の盗人が、許せぬ!」
と長晟は怒り心頭であったが、戦場では功名を先に挙げたが勝ちであることを改めて感じたのであり、むやみに刻限を守っていた自分を責めた。
至鎮は砦を占領するや、住吉の家康本営に報告に走らせた。又、徳川の検視役久世三四郎、坂部三十郎も戦況を本営に戻り戦勝を報告した。
「ようやった。阿波守褒めて遣わす。だが、砦焼け落ちれば守には難し。又敵城に近ければ速やかに徹するがよかろう」
と家康は至鎮に砦から兵を撤収するよう命じたが、至鎮はせっかく奪った砦を棄てるのは忍び難く、中村重勝に命じて補修して守備につくよう命じ、自らは再び勝間に戻って行った。
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