第14話 二条城会見

 慶長16年(1611)3月、二条城において、家康と秀頼の会見の席が設けられた。関ヶ原から10年以上が経過し、世上は平和な日々が訪れると誰もが思った。しかし、それは最後のシナリオへの出発点となってしまった。


 秀頼と千姫の婚儀により、豊臣家徳川家は親密になったと思われたが、家康のやいばは徐々に鞘から抜かれていった。家康にとっては、諸侯に対し豊臣家を蔑ろにしては決していないとアピールすることだった。特に、豊臣恩顧の大名に対しては有効だからだ。


 そして、今度は久しく対面していない秀頼との会見であった。家康は後陽成天皇の譲位と後水尾天皇の即位の儀のために、駿府から京へ赴く時に、秀頼との会見をすることを考えた。


 家康が会見を所望した経緯は「大坂御陣覚書」に記されている。


「慶長十五年の秋、大坂秀頼公并淀殿より、加賀宰相利長へ、内状を遣し頼み給う。其の趣は、太閤の御厚恩、定て忘れ申されまじく候。一度ひとたび御頼みあるべき間左様に相心得らるべく候様にと、懇意の状つまびらかなり、利長返状かえしじょうには、太閤の御恩の儀は、亡父大納言大坂に相詰あいつめ、御奉公致し老死仕り候。拙者事は先年関原一戦の刻、秀頼公に対し、少も等閑なおざりに存ぜず候を以て、かたがた太閤御恩報じ奉り候。其後は江戸駿河両御所の御恩を以て、三ヶ国の太守と成り候に付、関東の奉公の外、他事を存じ奉らず候、一度御頼みなさるべくとの儀、一円心得難く候。若し勝手など御不如意に御座候はゞ、金銀の御用には罷り立つべくと返状指越さしこし、其の趣本多安房守を以て、駿河へ言上せらる。大御所御感ぎょかん少からず。利長は兎角個様かようつかへ罷り在り候ては、世間六ケ敷むつかしくと存ぜられ、色々訴訟申し上げられ、子息筑前守利常へ家督を譲り、百万石の御朱印を申し下し、利長は能登二十万石にて隠居致され、其上存生ぞんじょうの内に、遺物かたみを指上、御機嫌の御様体承りたく、たって訴訟申上げられ、このむらの御茶入、平野藤四郎の御脇差、黄金三百枚指上げられ、利長は再び江戸駿府へも、増て大坂へも罷り出ず、病死致され候事」


 前田利長は、淀殿からの太閤の御遺言の通りになっていないことを嘆いたが、結局は其の内容は家康の知るところとなったのだ。


「佐渡はおらぬか」

 家康は扈従に命じて正信を呼びつけた。

「大御所様、いかがなされました?」

「うむ。大阪のことじゃ。こたびの上洛は、天皇の御譲位と御即位が本意なれど、この機会に久しく逢うておらぬ秀頼公に面会したいと思うておる。秀頼公には是非に二条城までお越しになられ、挨拶など交わしたいと願っておる。その段、しかと整えよ」

「それは良い思案でございますな。近頃上方では、徳川と豊臣の不和が噂されおるように聞き及びますれば、両家にとってお互い手を握り合う絶好の機会となりましょう。早速京に入りましたら、有楽殿に申し付け致しましょう。大阪が断りを申したならば、それはそれとして大殿も決断がしやすいと申すものでござる」

「うむ。佐渡はようわかっておるのう」

「はっ」


 正信は有楽うらくに宛てて、まもなく上洛するので二条城まで来るように手紙を送っていた。

 3月5日家康一行は駿河を出立し17日に京二条城に入った。20日入洛したとの知らせを受けた有楽は、二条城へと出向いた。正信が有楽と会談した。

「息災であったか。有楽殿」

「もうとっくに還暦を過ましたが、まだまだ意気軒昂でござるよ。此度は天皇家の式辞に関わる上洛誠に大義でござる。さて、我が右府に何の子細がござろうや」

「うむ。大御所が申さるるは、孫女そんじょが大阪に入与してからはや九年が経ちまするが、未だ以て右府の来訪を受けておらぬと仰せじゃ。両家今日近親の間柄で在りながら、かような疎遠なところから、自然にあらぬ風聞などが起こり、世上の疑惑の種ともなる。これは畢竟両家の為にはなるまい。幸い大御所在京の機会に一度右府が来訪されたならば、いよいよ以て両家共に長久天下泰平のもといであろう」

「左様の事ならば、早速大阪に帰り右府に申し伝えましょう。仰せの通り、大御所とはしばらく疎遠でござれば、成長遊ばされた右府と面会されれば、さぞや大御所は驚かれましょうなあ」


 有楽は大坂城に戻って、淀殿と秀頼に、秀頼の上洛を大御所が所望していることを伝えた。

 当然、淀殿はいきり立った。

「本来ならば、家康自身が大阪に来たって秀頼の起居を候すべきであろう。然るに一度ならず二度までも、秀頼を屈致させようとはいかなることか。申すまでもなく、入洛をいたし家康に会うことなどない」


「是よりして、江戸駿河も静かならず、万事御用心しげくなされ候。大御所已に七十になり給うにより、御在世のうちに、大坂をしづめたく思し召し、翌年辛亥かのとい三月御上洛、二条の城へ入せ給い、秀頼公に久々御対面なされず候間、御上洛あるべき旨仰せつかはさる。大坂にて評定には、太閤御他界以後とても、家康公毎度大坂へ下向有て御対面なり、今更秀頼公御上洛あるべき事、その謂れなし。家康公早々大坂へ御下向あるべき旨、御返答にて、洛中大坂さわがしけるを、浅野紀伊守幸長よしなが、加藤肥後守清正、讒言ざんげんを入れ、秀頼公無事をなされ、御上洛あって、御対面相済申し候。内々大御所思し召し候は、此度秀頼違背申し候はゞ、能序よきついでにて候間、御誅伐あるべきとの御内意の処に、異議なく秀頼公御上洛につき、御残り多く思し召され候よしの事」(大坂御陣覚書)


 淀殿は、白井龍伯を召して、秀頼の上洛を占はせ、大凶と出てしまったが、且元がそこを強いて、大吉と勘文を書き改めさせて上洛を進めたのも、忠臣且元の気配りであった。


 また、この時清正は京に滞在しており、家康が上洛して、秀頼に対し上洛するよう促したが、秀頼方の返事は否定的であると聞き及んで、流石に一大事と思ったのか、大坂城に駆けつけ、淀殿・秀頼に進言した。


「右府殿、ここは忍んで上洛されよ」

「なぜ其のように徳川に頭を下げねばならぬのじゃ。家康は予の後見人ぞ」

「淀の方様、今は大御所の意に添いなされ、時機が到来するのを辛抱強く待つしかございませぬ。此度の上洛にあたっては、この清正が身命を以て、右府を保護奉り、必ずやご無事にご帰城させますれば、清正めに免じて右府上洛の儀お赦しあれ」

「肥後殿がそこまで申さるるのであらば、秀頼の命預けよう。万一の事あらば、家康が首我が眼前に捧げよ」

「はっ、必ずやお守りいたす」


 清正は豊臣恩顧として信頼できる浅野幸長にも相談して、同じく秀頼を大坂より二条城まで無事送り届けるよう手配りをした。

 3月27日、秀頼は大坂を立ち、一旦淀に入った。大坂城からの供は、織田有楽、片桐市正、同主膳、大野修理、御番頭衆、御小姓衆三十人許りが従っていたという。(本多正純の秀忠の報告書中)

 木村重成が同行したか不明であるが、長年に亘り小姓衆であった信任厚く、武術も優れていた重成が同行した可能性はある。重成は危険な任務を感じており、彼も万一の事あらば、秀頼を守り通して見せると思っていた。小姓衆の中で胆が据わった人物は重成しかおるまい。重成とて、戦などしたことがないのだから、なおさら他の小姓などいざとなれば怯えてしまって刀など振り回す事ができないであろうと思っていた。自分でさえ、不安だったが、ここはいざとなったら自分を信じて刃を交えることしかないのだ。


「おのおの、気を許すでないぞ」

と言ったものの、近づくに連れ、明らかに怯えた表情を露わにしているのがわかる。ただ、歴戦の勇将、清正と幸長がいることが勇気づけられた。


 秀頼一行は城を出ると、加藤、浅野の家中精鋭の騎馬三百ずつに前後を守られ、淀に向かった。淀では、徳川家康の子である義直、頼宣が出迎え、秀頼は籠に乗り、二条城に向かった。其の様子はこう記録されている。


「秀頼公御袋の手前は、肥後守うけもち候て、秀頼公御上洛。両人の衆騎馬三百余ずつ召連れ供致され候。二条の城より御迎えとして右兵衛様、常陸様御両殿、淀迄迎いの御座なされ候て、秀頼公四方のあき候籠乗物に召され、右の脇長刀一えだ、乗物の跡に、す鑓二本うわうちちがえ持ち、二千石三千石宛知行取候侍衆、かちにて百人許御乗物を取巻き、浅野紀伊守、加藤肥後守両人は、秀頼様御乗物両脇に、しょうぶ皮の立付、青木大なる竹杖をつき、歩にて秀頼公の袖へあたり候程近くへ寄せ候て、何れも供致さる」(「小須賀氏聞書」)


 二条城会見の様子は

「秀頼公二条の城に御入候。御所様、御老中、大門そとへ迎に出られ、京中の男女、堀川通り御城の前広庭に、貴賎群集、秀頼公を拝し奉り、涙を流し、声を上げ、諸人泣き候て、扨々さてさて憐れなる事にて、九鬼長門守柳の馬場通り九町宿渡に居り候処に、秀頼公城へ御入候を見物として、大門の前、堀川竹原町にて、六畳敷を、金小判五両にて借り居り候て、替る事候はゞ、家中侍残らず懸け付け申すべくと申付け候て、侍十四五人召連れ参り候て、秀頼公御通りなされ候きわにて、如何にもたしかに見物致し候。何様子細候や、具足所持申さず候侍は、伊勢へ夜通しに取りに遣し申す」(同聞書)


 二条城での会見の様子は『当代記』にこう記されている。

「28日辰刻、秀頼公入洛、則ち家康公の御所二条へ御越し、家康公庭上迄出給い、秀頼公慇懃いんぎんに礼謝し給う。家康公座中へ入り給う後、秀頼公庭上より座中へ上り給い、先秀頼公を、御成の間へ入れ申す。其の後家康公出御有り。互の御礼有るべきの旨、家康公曰と云共、秀頼公堅く斟酌しんしゃく有り。家康公を御成の間へ奉出し、秀頼公礼を遂げ給う。膳部彼是美麗に出来けれども、還て隔心あるべきかとて、たゞ吸物迄也。大政所是は秀吉公の北の方也。出で給い相伴し、やがて立ち給う。右兵衛督、常陸介途中迄相送らる。秀頼公直に豊国へ参詣あり、大仏を見給い、伏見より船にて、其日酉の刻に及び、大坂へ帰着し給う。大坂の上下万民の儀は申すに及ばず、京畿の庶民悦び只比事也。此時も大坂光ると云々」


 家康と秀頼は何を話したのかは、全く不明ではあるが、形式的な挨拶と儀礼的な所作で終始して踏み込んだ話は何もなかったような感じだ。ただ、家康は久しぶりに見る秀頼の成長ぶりに驚いたことは確かだ。以外と身長も高く、落ち着いた雰囲気、そして何よりも若いということだった。このことが一番の脅威と感じたことだろう。


 そして、会見の終わりはこう記されている。

「秀頼還御かんぎょの処に、大御所様次の間迄送りなされ、殿は殊の外成人にて候、大慶に思し召し候。御年寄られ、明日の事も知れ申さず、右兵衛常陸介御両人の儀、御頼みなされ候と仰せられ、其の上右兵衛督は浅野紀伊守聟、常陸介は加藤肥後守聟致し置き候間、秀頼も内々其の心得有るべしと御挨拶仰せらる。秀頼還御、大門明だいもんあけ、諸人威儀を見物致し候処に、肥後守、紀伊守両人竹杖にて、秀頼脇にかちにて御供申され候。前羽ぜんう半入壱人馬にて供を致し、其の外は何れもかちにて、三条通りすぐに御通り、肥後守騎馬三百余、かみの町を乗る。紀伊守三百余、馬上はしもの町を乗る。両脇を堅め、三条大橋より建仁寺前をなられ、大仏の前を通り候て、豊国大明神へ社参なされ、歌仙堂にてたたみ二畳敷、秀頼様御座候て、両の脇に肥後守、紀伊守わらんじをはきながら、御傍おそば離れずおられ候。御湯立て、伶人れいじんまい御座候て、それよりすぐに、大坂大人数にて還御。

子細は、大坂にて跡にのこり候諸侍、兎角とかく大坂に残り居り口惜しく候間、夜の内に取物も取あえず京へ越し候て、あそこ爰に宿を借り居り候て、豊国迄参り候て、各右両供故、大人数にて秀頼大坂へ還御。世間の風聞、肥後守衆、紀伊守衆両人、秀頼公へ取持ち、御押出し頼母敷たのもしき有様は珍敷めずらしき儀と、上下共に誉め申し候」(「小須賀氏聞書」)

 

 本多正純から江戸にある秀忠には次のように報告している。


一、二条の御所にて、大御所様へ御礼仰上られ候事

一、三献の御祝御座候て、御一献目に、大御所様御盃秀頼様へ参る。其の時大

  御所様より大左門字の御腰物、鍔通つばとおし御脇差進められ候。其の

  外鷹三すえ 鳥屋之大鷹 御馬十疋進めらる。其の盃大御所様へ参り

  候時、秀頼様より一文字御腰物、左文字の御脇差御進上なされ候事

一、高台院様も二条御所へ御座なされ、秀頼様御対面なされ候事

                       (「慶長見聞録案紙」)


 秀頼一行の二条城の様子を見つめる鋭い目が他にもあった。幽夢こと長宗我部盛親と江村孫左衛門らであった。盛親の家臣明神源八郎が、明日に秀頼公が二条城へ家康と逢うために大坂より入洛するという噂話を耳にしたので、急いで屋敷に帰り、幽夢に伝えた。

「幽夢殿、秀頼公が明日、二条の城へ御越しになり、家康と逢うとのことを聞き及びました」

 幽夢は驚いた表情を見せて言った。

「秀頼公が、家康に逢うため二条に参られると」

「御意」

「うーむ。太閤殿下のご子息が、家康に挨拶をするために御越しになるとは、ついに来るべき時が来てしもうたか。関ヶ原より早よう十年以上が過ぎた。秀頼公もさぞかし立派なお姿に成長されたであろう」

「おそらく19歳になろうかと」

「明日は、手習いもないゆえ、久しぶりに見物に行くか」

「しかし、徳川の目がありますゆえ」

「いや、おそらく秀頼一行を見物しようと数多の衆が来るであろう。そこが幸いじゃ。我を監視する暇もないであろう」

 翌日、幽夢は江村孫左衛門ら数人を伴い、二条城へと向かい、秀頼公の行列を見守っていた。


 当日、違う場所から秀頼一行を見つめる浪人風の姿があった。池田長門と海野六郎の二人であった。二人は数日前、九度山から京に入り、京にある真田屋敷に来て九度山の昌幸と幸村の様子を報告していた。特に昌幸の健康状態が悪く、最近は寝込んでいると報せていたが、其の時に、秀頼が明後日二条城に来るであろうから、それから九度山に帰る方が良いだろうと告げられ、そのようにした。

「秀頼公のご成長ぶりを殿に報せれば多少元気になるやも知れぬな」

「左様でございましょう」


 さらに、違う目があった。茶人の姿をしてはいるが、眼光鋭く眺めていた。毛利勝永の家臣窪田甚三郎である。甚三郎も数日前に京に入り、茶器などを探し求めていたが、やはり町の噂は早いもので、秀頼公の二条城訪問の話が蔓延していた。

(久しく秀頼公の御姿は拝しておらぬゆえ、一度見て殿の土産話といたそう)

と、町人衆に交じり、秀頼一行を見ていた。 


 皆共に秀頼公の安否を気遣ったが、前後を守衛する加藤肥後守と浅野紀伊守の姿を見て安心した。義に固い豊臣恩顧の大名がまだいたことへの安心だった。

 それぞれの侍たちが、運命の糸に手繰り寄せられるように集まり始めていた。だが、誰もその糸には気づいてはいない。

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