第14話 二条城会見
慶長16年(1611)3月、二条城において、家康と秀頼の会見の席が設けられた。関ヶ原から10年以上が経過し、世上は平和な日々が訪れると誰もが思った。しかし、それは最後のシナリオへの出発点となってしまった。
秀頼と千姫の婚儀により、豊臣家徳川家は親密になったと思われたが、家康の
そして、今度は久しく対面していない秀頼との会見であった。家康は後陽成天皇の譲位と後水尾天皇の即位の儀のために、駿府から京へ赴く時に、秀頼との会見をすることを考えた。
家康が会見を所望した経緯は「大坂御陣覚書」に記されている。
「慶長十五年の秋、大坂秀頼公并淀殿より、加賀宰相利長へ、内状を遣し頼み給う。其の趣は、太閤の御厚恩、定て忘れ申されまじく候。
前田利長は、淀殿からの太閤の御遺言の通りになっていないことを嘆いたが、結局は其の内容は家康の知るところとなったのだ。
「佐渡はおらぬか」
家康は扈従に命じて正信を呼びつけた。
「大御所様、いかがなされました?」
「うむ。大阪のことじゃ。こたびの上洛は、天皇の御譲位と御即位が本意なれど、この機会に久しく逢うておらぬ秀頼公に面会したいと思うておる。秀頼公には是非に二条城までお越しになられ、挨拶など交わしたいと願っておる。その段、しかと整えよ」
「それは良い思案でございますな。近頃上方では、徳川と豊臣の不和が噂されおるように聞き及びますれば、両家にとってお互い手を握り合う絶好の機会となりましょう。早速京に入りましたら、有楽殿に申し付け致しましょう。大阪が断りを申したならば、それはそれとして大殿も決断がしやすいと申すものでござる」
「うむ。佐渡はようわかっておるのう」
「はっ」
正信は
3月5日家康一行は駿河を出立し17日に京二条城に入った。20日入洛したとの知らせを受けた有楽は、二条城へと出向いた。正信が有楽と会談した。
「息災であったか。有楽殿」
「もうとっくに還暦を過ましたが、まだまだ意気軒昂でござるよ。此度は天皇家の式辞に関わる上洛誠に大義でござる。さて、我が右府に何の子細がござろうや」
「うむ。大御所が申さるるは、
「左様の事ならば、早速大阪に帰り右府に申し伝えましょう。仰せの通り、大御所とはしばらく疎遠でござれば、成長遊ばされた右府と面会されれば、さぞや大御所は驚かれましょうなあ」
有楽は大坂城に戻って、淀殿と秀頼に、秀頼の上洛を大御所が所望していることを伝えた。
当然、淀殿はいきり立った。
「本来ならば、家康自身が大阪に来たって秀頼の起居を候すべきであろう。然るに一度ならず二度までも、秀頼を屈致させようとはいかなることか。申すまでもなく、入洛をいたし家康に会うことなどない」
「是よりして、江戸駿河も静かならず、万事御用心
淀殿は、白井龍伯を召して、秀頼の上洛を占はせ、大凶と出てしまったが、且元がそこを強いて、大吉と勘文を書き改めさせて上洛を進めたのも、忠臣且元の気配りであった。
また、この時清正は京に滞在しており、家康が上洛して、秀頼に対し上洛するよう促したが、秀頼方の返事は否定的であると聞き及んで、流石に一大事と思ったのか、大坂城に駆けつけ、淀殿・秀頼に進言した。
「右府殿、ここは忍んで上洛されよ」
「なぜ其のように徳川に頭を下げねばならぬのじゃ。家康は予の後見人ぞ」
「淀の方様、今は大御所の意に添いなされ、時機が到来するのを辛抱強く待つしかございませぬ。此度の上洛にあたっては、この清正が身命を以て、右府を保護奉り、必ずやご無事にご帰城させますれば、清正めに免じて右府上洛の儀お赦しあれ」
「肥後殿がそこまで申さるるのであらば、秀頼の命預けよう。万一の事あらば、家康が首我が眼前に捧げよ」
「はっ、必ずやお守りいたす」
清正は豊臣恩顧として信頼できる浅野幸長にも相談して、同じく秀頼を大坂より二条城まで無事送り届けるよう手配りをした。
3月27日、秀頼は大坂を立ち、一旦淀に入った。大坂城からの供は、織田有楽、片桐市正、同主膳、大野修理、御番頭衆、御小姓衆三十人許りが従っていたという。(本多正純の秀忠の報告書中)
木村重成が同行したか不明であるが、長年に亘り小姓衆であった信任厚く、武術も優れていた重成が同行した可能性はある。重成は危険な任務を感じており、彼も万一の事あらば、秀頼を守り通して見せると思っていた。小姓衆の中で胆が据わった人物は重成しかおるまい。重成とて、戦などしたことがないのだから、なおさら他の小姓などいざとなれば怯えてしまって刀など振り回す事ができないであろうと思っていた。自分でさえ、不安だったが、ここはいざとなったら自分を信じて刃を交えることしかないのだ。
「おのおの、気を許すでないぞ」
と言ったものの、近づくに連れ、明らかに怯えた表情を露わにしているのがわかる。ただ、歴戦の勇将、清正と幸長がいることが勇気づけられた。
秀頼一行は城を出ると、加藤、浅野の家中精鋭の騎馬三百ずつに前後を守られ、淀に向かった。淀では、徳川家康の子である義直、頼宣が出迎え、秀頼は籠に乗り、二条城に向かった。其の様子はこう記録されている。
「秀頼公御袋の手前は、肥後守
二条城会見の様子は
「秀頼公二条の城に御入候。御所様、御老中、大門そとへ迎に出られ、京中の男女、堀川通り御城の前広庭に、貴賎群集、秀頼公を拝し奉り、涙を流し、声を上げ、諸人泣き候て、
二条城での会見の様子は『当代記』にこう記されている。
「28日辰刻、秀頼公入洛、則ち家康公の御所二条へ御越し、家康公庭上迄出給い、秀頼公
家康と秀頼は何を話したのかは、全く不明ではあるが、形式的な挨拶と儀礼的な所作で終始して踏み込んだ話は何もなかったような感じだ。ただ、家康は久しぶりに見る秀頼の成長ぶりに驚いたことは確かだ。以外と身長も高く、落ち着いた雰囲気、そして何よりも若いということだった。このことが一番の脅威と感じたことだろう。
そして、会見の終わりはこう記されている。
「秀頼
子細は、大坂にて跡にのこり候諸侍、
本多正純から江戸にある秀忠には次のように報告している。
一、二条の御所にて、大御所様へ御礼仰上られ候事
一、三献の御祝御座候て、御一献目に、大御所様御盃秀頼様へ参る。其の時大
御所様より大左門字の御腰物、
外鷹三
候時、秀頼様より一文字御腰物、左文字の御脇差御進上なされ候事
一、高台院様も二条御所へ御座なされ、秀頼様御対面なされ候事
(「慶長見聞録案紙」)
秀頼一行の二条城の様子を見つめる鋭い目が他にもあった。幽夢こと長宗我部盛親と江村孫左衛門らであった。盛親の家臣明神源八郎が、明日に秀頼公が二条城へ家康と逢うために大坂より入洛するという噂話を耳にしたので、急いで屋敷に帰り、幽夢に伝えた。
「幽夢殿、秀頼公が明日、二条の城へ御越しになり、家康と逢うとのことを聞き及びました」
幽夢は驚いた表情を見せて言った。
「秀頼公が、家康に逢うため二条に参られると」
「御意」
「うーむ。太閤殿下のご子息が、家康に挨拶をするために御越しになるとは、ついに来るべき時が来てしもうたか。関ヶ原より早よう十年以上が過ぎた。秀頼公もさぞかし立派なお姿に成長されたであろう」
「おそらく19歳になろうかと」
「明日は、手習いもないゆえ、久しぶりに見物に行くか」
「しかし、徳川の目がありますゆえ」
「いや、おそらく秀頼一行を見物しようと数多の衆が来るであろう。そこが幸いじゃ。我を監視する暇もないであろう」
翌日、幽夢は江村孫左衛門ら数人を伴い、二条城へと向かい、秀頼公の行列を見守っていた。
当日、違う場所から秀頼一行を見つめる浪人風の姿があった。池田長門と海野六郎の二人であった。二人は数日前、九度山から京に入り、京にある真田屋敷に来て九度山の昌幸と幸村の様子を報告していた。特に昌幸の健康状態が悪く、最近は寝込んでいると報せていたが、其の時に、秀頼が明後日二条城に来るであろうから、それから九度山に帰る方が良いだろうと告げられ、そのようにした。
「秀頼公のご成長ぶりを殿に報せれば多少元気になるやも知れぬな」
「左様でございましょう」
さらに、違う目があった。茶人の姿をしてはいるが、眼光鋭く眺めていた。毛利勝永の家臣窪田甚三郎である。甚三郎も数日前に京に入り、茶器などを探し求めていたが、やはり町の噂は早いもので、秀頼公の二条城訪問の話が蔓延していた。
(久しく秀頼公の御姿は拝しておらぬゆえ、一度見て殿の土産話といたそう)
と、町人衆に交じり、秀頼一行を見ていた。
皆共に秀頼公の安否を気遣ったが、前後を守衛する加藤肥後守と浅野紀伊守の姿を見て安心した。義に固い豊臣恩顧の大名がまだいたことへの安心だった。
それぞれの侍たちが、運命の糸に手繰り寄せられるように集まり始めていた。だが、誰もその糸には気づいてはいない。
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