成り上がり(青春編、営業編、雪国転勤編、帰京編、退職後編)

ハリマオ65

青春編1話:新天地、横浜とジフテリア

 昭和25年7月、栃木県,子だくさんで大家族との同居、典型的な貧しい

農家、とても食べていけず止むを得ず上京する。この様な状況は当時、

決して珍しい光景ではなかった。北島治も生後四ヶ月にして、その中の

1人。父が10キロの米を背負い、母は子供を負ぶい、見知らぬ都会、

横浜の地を踏んだ。橫浜駅から京浜急行で20分程の所に、親戚が

住んでいた。その家の納屋を手直した部屋を借り生活する事になった。


 家畜臭のする部屋で簡易コンロと粗末な便所と冬には隙間風が入る

粗末な納屋。父は職を求め、職安を訪ねる日々を重ね、桜木町にある

小さな船会社に、臨時社員として職を見つける事が出来た。

 その会社は日本石油関連の港湾運送の会社で、そこでは主に

船から大きな荷物を運搬する仕事だった。


 父は元々海軍上がりで、力仕事に向いている頑健な体の持ち主で、

この仕事には向いていたのかも知れない。ただ台風の時期は船の

破損を防ぐ為、猛烈な風の中、船を固定する為に一晩中、従事する

事もあった。


 父は、酒と女が大好きで家に帰る途中、屋台で飲むのが唯一の楽しみ

、他人には愛想良く他の女にのせられて他人の勘定まで支払って

しまう始末だった。そんな事で家に帰れば母との喧嘩は絶えなかった。

 母は乳飲み子がいて仕事には出られず家で内職をし、家計の足しに

していた。貧乏な生活の為、おかずも十分に買えず、昼間に、近くの

野山、田畑のあぜ道で山菜、野草を採り天ぷらにしたり味噌汁や煮物に

して、おかずにしていた。


 昭和29年7月、四歳の夏、近くの幼稚園に入園し8ヶ月後、近所で

ジフテリアが 流行りだし生まれつき丈夫でなかった北島は運悪く、

そのジフテリアに感染した。数人の友達も感染したのだが一週間程度で

回復した。一方、北島は、ひどくなるばかりで、近くのM共済病院の

隔離病棟に入院した。


 しかし症状は改善せずに、母親が24時間付き添い看護する事になった。

 偽膜が喉を塞ぐと,息ができないので、母は毎晩寝ずに喉にできる

偽膜を指で破り北島は命をつないだ。数週間も、それ状態が続いたので

、先生方が直接、喉に穴をあけて、小さなプラスチック製のラッパ状の

ものを取り付け、呼吸できる様にしてくれた。


 数ヶ月しても症状が悪くなり、食事も取れなく、遂に心臓停止が、

数回起こった。そのたびに医師のが緊急蘇生処置で、生き返った。 

 ぎりぎりの状態で一進一退を繰り返し、それでも少しづつ回復して

半年を過ぎる頃から、食事を取れる様になり顔に赤みがさして

回復してきた。



 当時ジフテリアが流行し重症化した場合、ほとんど死亡していた。

 その中でこれだけの重症例で回復したという患者は珍しかった様

で先生達が学会で、発表する事になった。その為、毎日やたらに尿や

血液とか痰などを採取された。約一年の入院で、奇跡的に命を

取り留める事が出来たのは、神様のお陰かもしれない。


 その年の3月に、ついに退院できた。退院後は自宅療養。

 元気になる頃は、もう既に小学生。小学校は自宅から徒歩三十分。

 貧乏暮らしは変わらなかったが、毎朝、牛乳が配達されていた。 

 北島の身体を気遣って、特別に飲ませてくれていたのだ。

 ただ両親には申し訳ないが、好きになれなくて残してしまった。

 また体育の授業は参加できず、遠くから眺めていた。医者から

当分の間、学校での運動は禁止と言われ、その為、ぶくぶく太って

肥満児になった。


 その後、住んでいた部屋が手狭になり引っ越した。そこは8キロ

離れた海沿いの漁師町。この頃、父が早めに帰ってきた時には近く

の防波堤で釣りをした。そして、あじ、たこ、いか、しゃこ、さば、

いろんな魚が、食卓に上る様になり豪華な食事にありつける

様になった。特に、あじは、便利な魚で大きいものは、さしみ、

塩焼き、小あじは、揚げ物にして喜んで食べいた。

 特に、いか、たこ、しゃこが取れた日は、父が上機嫌だった。

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