第5章 セカイの約束⑧
『代用品』
受け入れる。事実は変わらない。ならば、後は私の気持ちの持ちようで、在り方だ。
大事なのは、過去でも、過程でもない。
私の気持ち、彼女への想い。
目の前のこいつがいなければ出会わなかったかもしれない。
だから、何だ。私たちは出会った。
私は彼女を好きになった。凪沙は私を好きと言ってくれた。
それが代用品からの結果だとしても、だ。
嫉妬もするし、吐き気を催すほど彼女が自分以外のことを思うのが嫌だ。歪んでいるのを認めよう。受け入れよう。
そんな私を、私は許してあげよう。好きでいてあげよう。
「つまんね、もう揶揄いようないじゃないか」
「人のことより、自分のことを考えてください」
「考えているさ。というか決められた。これからは東京の実家で当分暮らす。都内でデザイン関係の事務所の仕事を回してもらう予定」
「まだ続けるんですね」
「こんな僕にもファンがいるらしいんでね」
長年のファンの妹が。
「長続きするといいですね」
「そこはもっと素直に応援しろよ。まぁ、当分は食っていくにはきついけど、そこは実家だから何とかなるだろう」
目線を外し、「それに迷惑かけたから、二人と一緒にいる時間を増やさないとな」と小声で言う。シャキッとしない男だ。
「だから、凪沙ともまたすぐ会えるだろう。心配しなくても大丈夫だ」
「それは私に言うことじゃないですよ?」
「面と向かって言うと恥ずかしいだろ?」
「妹の友達に真剣に言う方が恥ずかしいと思います」
「凪沙に言っといてくれない?」
「嫌です」
「僕のせいで凪沙も実家に戻るとか言いだしたら悪いしさ」
それは……良くない。東京から湘南に通うことはできるだろう。実際、都内から通学している生徒もいる。しかし、それでは会う時間が減る。距離は時間を邪魔する。
「わかんないけどね。凪沙ももう大学生だからさ」
家族離れ、兄離れ。
もう一人で暮らすのは数ヵ月とはいえ、当たり前にできているのだ。わざわざ戻る必要はない。
「それに君がいるからね」
私がいるから戻らない。
そうだろうか、それは凪沙が決断することだ。私は彼女を信じる。
ならば、私も変わらなければいけない。
リュックから帽子を取り出す。
彼女からもらった帽子。そして、元は目の前にいる男の持ち物。
何処かの球団の野球帽。
「返します」
「懐かしいな」
「凪沙からもらったんです。もういらないからって」
実際はもっと違ったニュアンスで貰ったが、強がる。
「そうか、そうか」
男は嬉しそうに、でもどこか寂しそうに受け取る。
「大丈夫みたいだな」
兄の帽子を大事にしていた凪沙はいなくなった。
もうこの野球帽がなくてもやっていける。
そして私も、彼女からの絆の証がなくても、目に見えなくてもやっていけるようにならねばならない。
男が帽子を被り、細い目をする。
その目は何処を見ているのか。親が生きていた子供の頃の思い出か、これからの実家に戻る未来か。
「似合わないですね」
「うるせー、これでも昔野球少年だったんだよ」
「似合わないですね」
「ああ、似合わない大人になっちまったよ」
いつまでも子供のままではいられない。ボールを追いかけ、一喜一憂する日々から旅立たなければいけない。
話は終わったのか、私を背に向け、歩き出す。そんな背中に言葉を投げかける。
「もう凪沙を悲しませないでくださいね」
男はわかったよという合図か、手を上げる。そして、「あぁ」と思い出したように呟き、振り向く。
「一つだけ忠告」
「まだ言い足りないんですか」
男はニヤリと笑い、告げる。
「残念ながら女同士じゃ結婚できないんだよ」
「んな!?」
当たり前のことを、当然のことを告げられる。
ただ言葉が意味する言葉は、……バレていた?
「まぁどっかの国に行けばできるかもしれないけど」
顔が真っ赤になるのを感じる。そんな言葉は一つも言っていない。けれどバレるほど私はどうしようもなく彼女にどっぷりなのだろう。
好きじゃない人にここまで尽くさない。兄と対峙しない。
その好きのベクトルが少し歪なだけ。
「わ、わたしは」
ドタバタと走る音が聞こえてくる。
「いた、お兄ちゃんいた」
凪沙だった。
さらにおまけに強面の看護師もいた。
「いい度胸だな、私のアジトで逃げ出すとは」
飄々とした兄も金髪の看護師にはビビったのか、急に大人しくなる。
顔を真っ赤にした私を残し、兄は病室に強制連行されたのであった。
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