第3章 エスケープゴート⑧

 凪沙から兄のことについて聞いたのは一度だけだった。七夕祭の準備で遅くなった帰りのことだった。浅野葉子先生に出会い、一緒にバスに乗り、生徒だった兄の話になった。

 その時彼女はこう言った。


「兄は、もういません」


 と。



 そんな彼女の兄が今、私の前にいる。


「今まで何して、いたの?」

「まぁ、色々だよ。色々」

「色々って、もうどれだけ、心配したと、思っているの」


 花火が打ちあがる中、凪沙が兄を問い詰める。

 兄は確かにいた。

 亡くなってはいなく、話を聞く感じずっと行方知らずだったみたいだ。兄が幽霊、なんて非科学的なことはない。

 取り残された私は、二人の様子を眺めるだけだった。

 凪沙が人とあんなによく話すのは、初めて見た。私だけだった。私だけが彼女ときちんと会話できる存在だったのに。


「で、そちらは」


 兄が一人ぼっちになった私を話題に上げる。凪沙が「あっ」と声を上げ、私に近づく。兄との突然の再会に、私のことを忘れていたのだろう。

 私は彼女に押し出される形で、兄の前に登場した。


「私の、友達の、榎田希依さん」


 友達という言葉に引っかかりを覚えるが、兄とはいえ、付き合っていることを打ち明けるわけにはいかない。


「どうも、榎田です」


 えへへと苦笑い。


「榎田君、凪沙と仲良くしてくれてありがとう。僕は、三澄拓浪。凪沙の兄です」

 

 爽やかな自己紹介を受ける。

 が、何を話せばいいのかわからない。私から突っ込んでいいのかわからない。

 こんなことシミュレーションしてこなかった。「凪沙さんをください!」と言えばいいのか、いや違うのは知っている。

 空気を打ち破ったのは、三澄兄だった。


「そうだ、凪沙。ちょっと喉乾いたんだけど、飲み物買ってきてくれない。今、万札しかなくてさ」

「えー」


 嫌がる彼女。こんな風に駄々をこねる妹は初めて見た。三澄兄はしょうがないなと一万円札を渡す。


「お釣りでこれをやるからさ」


 一万円。さっき私たちが4時間頑張って働いて貰った、多すぎる給料と同等の値段。


「いい、いらない。買ってくる」


 そういって彼女は小走りで去っていった。

 どうする。私も付いていく?と答えを出す前に彼女は一人で行ってしまった。

 私を一人で残さないでくれ。

 兄と、妹の友達の私の二人となった。こちらとしては気まずいし、勢いをそがれた後だったので頭が働かない。


「凪沙、元気そうじゃん」


 何気なくいった言葉は私に向かって言ったのか。兄は話を続ける。


「おじさん、おばさんに聞いた話じゃ、ふさぎ込んで、すっかり変わってしまった。手に負えないって話だったのにな」

 

 ふさぎ込んだ。その状況は帽子女だったころの彼女を指すのだろうか。


「いなくなったという話を聞きましたが」

「ああ、大学を辞めて、2年間うろうろしていた」

「凪沙に連絡もせずに?」

「誰にも連絡せずに」


 それは何故と、問い詰めていいのだろうか。どんな事情があるのか想像もできない。大学を辞める理由なんてなかなか存在しない。

 いずれにせよ、はっきりした。凪沙が帽子を被って、人の眼を避け、生きるようになっていた原因はこの男だ。


「でも、立ち直っている」


 と兄は笑顔で嬉しそうに言った。


「それは君のおかげかな」


 私のおかげだろう。私がいなくても誰かが救ったかもしれない。けど、救ったのは私だった。

 私は答えないが、沈黙を答えと受け取られる。


「そうか、君には感謝しないとな」


 上から目線にイラっとくる。実際に年上の人ではあるのだが。

 自惚れであるのはわかっている。誰かに感謝されるためにやったわけではない。私がそうしたいと思ったからしただけだ。

 ただそんなイラつきもすぐに吹き飛んだ。


「ありがとう、榎田君。僕の代用品でいてくれて」

「なっ」


 その言葉に、単語に、意味に、考えが、感情が飛んだ。

 三澄兄は言った。確かにいった。

 『僕の代用品』と。

 お前は、僕の代用品であると。


「違う、私はあなたの代わりなんかじゃっ」

「ただいま」


 凪沙が缶を3つ持って戻ってきた。


「どうしたの二人とも?」


 不穏な空気を感じたのか、凪沙が問いかける。


「凪沙の友達の榎田君と楽しくおしゃべりしていたんだよ。妹がどんな学生生活を送っているか聞いていたんだ」

「もう恥ずかしい、から辞めてよ。き、榎田さんも何も喋ってないよね?」


 私がこくりと頷くと、彼女は不思議そうな顔をした。

 三澄兄はコーヒー缶を開け、一気に飲み干す。


「はあ、今日はこれでお暇するかな。当分はここらへんにいるから連絡してよ凪沙」

「そうやって、何処にもいかないよね?」


 心配そうな彼女の声を、彼は笑い飛ばす。


「ああ、携帯はちゃんと連絡つくようにするからさ。心配するな」


 そう言い、手を、凪沙の頭に置く。

 嬉しそうな凪沙。視界が揺らぐ。


「わかった」

「じゃあ、榎田君。これからも宜しく頼むよ凪沙のことを」


 そう言い残し、男は闇の向こうに消えていった。

 私は何も返事ができなかった。


「私たちも帰ろうか?」


 と凪沙が提案してくる。もう花火大会は終わっていた。


「そうだね、うん」


 言葉少なに、電車に乗り込み、解散となった。

 決意は、言葉は告げることなく終わった。

 残ったのは、『代用品』という棘だった。

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