可視光線

りう(こぶ)

可視光線

 窓からの光は、散乱して君の皮膚に触れる。

 その産毛は柔らかく光をたたえる。

 顔にかかった鳶色とびいろの前髪が、時折ひくりと震える睫毛まつげに動かされる。

 一度その皮膚に吸収された光が、君の内側で幾度いくども反射して、僕の眼球に差し込む。

 手を伸べる。

 日光の温かさを確かめるように(あるいは君の生存を確かめるように)、自分の手指てゆびの裏側をギリギリまで近づける。

 君の表面に一層近づいた僕の側面は、電気を帯びたようにぴりぴりとしびれてしまって、結局触れることすらかなわない。

 僕はそっと手をひいた。


 ***


 ゼミが忙しかった私が、新部室に初めて行ったのは、移転からしばらく経ってからのことであった。

 その日の朝、なんとか自分のゼミの担当部分を終えた私は、久しぶりに、悠々ゆうゆうと真昼のキャンパスを闊歩かっぽしていた。清々すがすがしい晴天だった。次の授業は夕方だ。

 で、ふと思った。

 多分、例の彼は部室にいる(なにしろ部室のヌシだからネ)。驚かしてやろう、といった類の、ちょっとした好奇心だった。

 部室のドアは開いていた。

 部員数にしては手狭な新部室。所狭しと荷物が置かれ、部屋の真ん中には、ボロボロのソファがこちらに背を向けて鎮座している。

 やはり、彼はいた。白いシャツを着た細身の背中をこちらに向け、ソファの後ろに、ただ立っていた。

 窓からは、柔らかい午後の光が射していて、じっと下を向いて考え事をしているような彼の後ろ姿は、ひどく絵になった。

 次第に、音が遠のく。

 (部室に二人きりなんて、いつぶりだろう……)そう思ったら、耳まで自分の鼓動が響き始めた。

 彼は彫像のように、長いこと動かなかった。

 そして、私も。


 ***


 その日は雨が降っていた。

「ことばなんて、ただの空気の振動だから」

「何それ、聞き捨てならないネ」

 吐き捨てるような彼に、私は噛み付いた。

「いや、大事なことを伝えるには不十分なうつわだっていうだけで、他意たいはないよ」

「じゃあどうやって、”思ってること”とか、”気持ち”を伝えるんですか、センセー? ことばナシに」

 彼は、考えるフリをして、

「目……かな」

「それだって、ただの光じゃないの」

「それは、長谷川がいつもことばだけでやり取りしてるから、そう思うんだよ」

「なに、テレパシーでも使えってこと? 物理学者の卵がそんなスピリチュアルなこと言っていいの?」

 彼が少し笑った。

「長谷川はさ、まだ、出合っていないだけじゃないかな。そういう、事象に」

 私は頬を膨らませ、

「私に、目と目で通じ合う彼氏がいないのは事実として、そうやって説明を放棄するのはいかがなものですか?」

「通じ合うっていうのとも、違うかもしれない」

 彼は、窓の外を見た。

 私もつられて外を見た。

 雨は止みそうにない。旧部室の窓の外には、丁度向かいの校舎が見える。窓には、突然の雨に降られて濡れ鼠の私たちが映っていた。

「ことばで嘘をつくのは簡単だけどさ、」

 私は彼を盗み見た。彼は未だ、窓の外を見ていた。

「まなざしだけは、嘘をつかないからなあ」

「……くっさ」

 どうしてそんな話になってしまったのか、もはや覚えていない、けれども。

 黒ぶちメガネ、切れ長の瞳、埃っぽい部室。汚れた物理学演習の本、散乱する計算用紙、青ペン、溢れたゴミ箱。そしてボロソファ。

 脳裏に、あの日の彼が焼き付いている。

 私は誤摩化したけれど、多分、彼の言ったことは正解だ。

 私も、出合ったから。


 ***


 不意にソファに手を伸ばした彼を見て、私は、そっと部屋を出た。

 部室棟の向かいにある、ガラス張りの学食で論文を読んでいると、しばらくして、彼が部室棟から出て行くのが見えた。

 時計を見ると、既に2時半をまわっていた。

 私は、部室に戻った。

「起きろよ、オッサン」

 私はソファで小さないびきをかく、文学部のポスドクを蹴り起こす。唸っての伸びをする、そいつ。

「なに泣きそうな顔してんの」

 窓に映った私の変な顔の向こうには、もう文学部の校舎はない。

「しね、くそじじい」

 理由なんて、教えるもんか。

 あの子の秘密は、私の秘密でもあるのだ。

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可視光線 りう(こぶ) @kobu1442

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