第9話 石鹸香るハンカチ

 ミカはベッドの上に座って、手に握っているものをぼんやりと見つめていた。

 アレクが貸してくれたハンカチだ。

 ハンカチを見つめていると、先程の出来事が脳裏に蘇ってくる。

 殴られそうになったところを身を挺して庇ってくれたアレク。

 自分が無事なことを喜んで、泣いているとハンカチをそっと差し出してくれたアレク。

 紳士的で優しい彼の姿は、彼女には誰よりも格好良く、誰よりも素敵に見えた。

 全てに嫌気が差して死のうとしていた彼女にとって、それは春の暖かな日差しのような存在であった。

 ミカはハンカチを広げた。

 何の柄もない、小さくて真っ白なハンカチだ。まるでシーツを四角に切っただけのような代物であるが、手触りは柔らかい。

 ふと。端の方に青い糸で刺繍がされているのに彼女は気が付いた。

「……ア、レ、ク、サ、ン、ダ、ー」

 彼女が辛うじて読める綴りの文字は、ちょっと歪んでいる。

 彼女はこれがアレクの名前であることを、何となく悟った。

 そうか、彼の名前はアレクサンダーというのか。そのようなことを独りごちながら、彼女はハンカチを鼻に当てた。

 涙を吸ってちょっぴり皺の入ったハンカチからは、ほんのりと石鹸の香りがした。

 彼らしい清潔な匂いだ、と彼女は思った。

「……いい匂い」

 すん、と鼻を鳴らして、彼女は壁の時計を見た。

 時計は、二十時を指していた。

 しばらく時計の振り子が動くのをじっと見ていた彼女だが、急に思い付いたように立ち上がる。

 この部屋に来てから一度も触っていなかったクローゼットに行き、そこに掛けられているネグリジェを手に取った。

 この淡いピンク色のネグリジェは、女性用の寝間着として用意されていたものだ。肌触りが良さそうな生地で作られた、着心地の良さそうな一品である。

 しかし、これは大人用。まだ体が成長しきっていない彼女には明らかに大きい。

 彼女はネグリジェの胸の部分をさわりと撫でて、微妙そうな顔をして、呟いた。

「……大きい」

 自分の胸元に視線を落とし、小さく溜め息をつく。

 ひょっとして、今の行動は胸の大きさを比べていたのだろうか?

 そんな心配しなくてもまだまだ発展途上なんだし、時が経てばそれなりに大きくなると思うんだけどね。

 彼女はネグリジェをハンガーが付いたまま畳んで、ハンカチをズボンのポケットに入れて、部屋を出た。

 盗られるものは何もないからと思っているのか、そのまま部屋に鍵も掛けずに廊下をぺたぺたと歩いていく。

 彼女の部屋は三階の外れにある。この旅館は三階建てで二階と三階は全く同じ構造をしており、初めて歩く者でも迷わないようになっているのが特徴なのだ。

 緩い弧を描いた階段を一歩ずつ下りていき、一階へ行く。

 そっとフロントのカウンターを覗き込むと。

 燕尾服姿の二人の青年が並んで話をしているのが見えた。

 青年の一方がアレクだ。

 ミカはすっと息を吸って、カウンターに近付いていった。

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