第10話 名前で呼んで
「へぇ。女の子の代わりに殴られたと。それでそこが痣みたくなってるのか」
アレクの右の頬にうっすらと浮かんだ青い跡を覗き込むように見て、彼は緑の鱗が浮かんだ顎を撫でながらふうんと鼻を鳴らした。
彼の名はローゼンギルヴェイジュ・ミスタルという。アレクと同じくホテルマンとしてこの旅館に勤めている蛇男だ。
名前が舌を噛みそうなくらいに長いので、旅館に勤める者は彼のことをローゼンと呼んでいるが。
因みにローゼンはアレクとは異なり夜の勤務を担当としている。二十四時間営業している旅館だから、勤めている者は昼勤と夜勤に分かれているのだ。
あれだね。シフト制というやつだ。そうしないと夜中に此処に訪れた客人の相手をする者がいなくなってしまうからね。
「それにしても……思い切った行動に出たもんだね。いくら痛みを感じないとはいっても、そんな簡単に体を張るなんて普通はできないんじゃない?」
「……咄嗟に体が動いてたんだ。結果的には良かったと思ってるよ」
「それってさ」
ローゼンは縦長の瞳孔を持つ金の目を長い銀の前髪から覗かせて、言った。
「アレクにとってその子がお気に入りだとか、そういうわけ?」
「お客様を贔屓したりはしていない。それが当然だと思ったから行動しただけだよ」
「……どうだかねぇ。案外まんざらでもなかったりしてね」
ふふ、と笑って、ローゼンは視線を前方に戻す。
そこには、ネグリジェを抱えたミカが立っていた。
「……ひょっとして、その子?」
ローゼンの言葉にアレクも前方に目を向けて、目を若干大きくする。
カウンターから出て、ミカの前に立ち、微笑みかけた。
「カワイ様。何かお困り事ですか?」
「…………」
ミカはズボンのポケットに手を入れて、しまっていたハンカチを引っ張り出した。
それをアレクの目の前に差し出して、言う。
「……これ、返しにきた」
「わざわざ、そのために?」
「アレクサンダー、って書いてあった」
アレクの目をじっと見つめるミカ。
「……王様みたいな名前だと思った」
ぷ、とローゼンが小さく吹き出した。
アレクは後頭部を掻いて、ハンカチを受け取り、言った。
「皆はアレクと呼んでくれています」
「アレク?」
「ええ」
にこりと笑って、胸に手を当てる。
「ですから、僕のことはアレクとお呼び下さい」
「アレク」
ミカは微妙に目を伏せてアレクの名を反芻した後、それなら、と言葉を返した。
「それなら……私のことは美佳って呼んで」
「え?」
「河合様、だと何だか他人行儀っぽくて嫌。名前で呼んでほしい」
アレクは困ったように傍らのローゼンに目を向けた。
ローゼンは黙ったまま、微笑ましげな視線をアレクに返して頷く。要求を受け入れてやれ、と言っているらしい。
同僚に押される形で、アレクは頷いた。
「分かりました。それでは、これからはミカ様とお呼びします」
ふるふる、とミカは首を左右に振る。
「様、もいらない。呼び捨てでいい」
「……流石にそれはできませんよ。大切な方を呼び捨てにするなんて」
しばし考え込んだ後、アレクは何とか頭の中から言葉を引っ張り出した。
「では……ミカさんとお呼びしましょう。それで良いですか?」
「……うん、それでいい」
ミカは何処か嬉しそうだ。アレクを見つめる目に生気を感じるよ。
アレクはほっと安堵の息を吐いて、受け取ったハンカチをポケットにしまった。
「ハンカチ、届けて下さってありがとうございます」
「……もうひとつ、用事があるの」
ミカは抱えていたネグリジェをアレクに差し出した。
「これ、私には大きくて着られない。サイズが合うのと交換してほしい」
「あー。それ大人用だもんねぇ」
ローゼンは腕を組んだ。
彼はミカの全身を上から下まで撫でるように見つめて、言った。
「流石にこんな小柄な子に合う部屋着はないでしょ。エリンに言って仕立ててもらったら?」
「……そうだね」
アレクも同じ事を考えていたようで、ローゼンの言葉にあっさりと同意した。
アレクはミカの手からネグリジェを受け取って、彼女と目線の高さを合わせて、言った。
「ミカさん。貴女の体に合うサイズの部屋着が当館のストックにはないんです。今から裁縫師に仕立ててもらいますので、一緒に来て頂けますか?」
「いってらっしゃーい」
軽い感じで二人を送り出すローゼン。
ふりふりと手を振る彼をフロントに残し、アレクはミカを連れて裁縫師がいる場所へと向かった。
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