別府精一(警察官)【5】

 今日の昼過ぎ、まだ酒とテレビを相手にしていたとき、別府は迫の女房に電話をかけていた。携帯電話の番号は、もちろん今後の捜査上の必要からだが、迫の電話帳で確認していた。だが勤務時間外に、犯人の妻へ私用電話で連絡するなどもちろんやってはいけないことだし、これまでしたことはなかった。

 電話に応えた迫洋子の声に元気がなかったのは、当然のことだったろう。

「いまご自宅ですか?」という別府の問いに、彼女は実家に――自分の両親の家だろう――いると答えた。

 別府は「これは我々でどうこういえる話じゃないんですけどね」と切り出した。自分でもなにをしたいのかわからないまま、酔った頭に浮かんでくるままにまくしたてる。ご実家よりも、ご友人のお宅とか、ホテルとか、居場所がわからないようなところにですね、しばらく……ほとぼりが冷めるまでね、いたほうがいいんじゃないかと思いますよ……。警察がそうしろっていうわけじゃなくて、その、私個人の考えですけどね……。

 迫の女房の生返事からは、聞いているのかいないのかよくわからなかった。

 犯罪加害者の家族は、家人の逮捕という衝撃から覚める間もなく、また別の苦悩に晒されることになる。マスコミである。新聞やNHKはそれほどでもないが、自制がないのが雑誌やワイドショーの記者だ。ひきもきらずにドアホンを鳴らし、突然の事態に動転する相手に向かって「どう思いますか」「ご存じでしたか」と畳みかける。なんとか努力して答えた内容はいいように切り貼りされてまったく違う発言にされ、黙っていればそれだけで白い目で見られる。昼となく夜となく自宅を取り囲まれ、ひどいところだと、登校しようと家を出た子供にまで声をかける輩もいる。カーテンを閉め切り部屋に閉じこもることを余儀なくされた加害者家族を、別府は何百人と見てきた。

 迫の正式な逮捕はこれからであり、近く記者発表も予定されている。そのまえに、彼女は自宅や実家を離れるべきだった。記者に嗅ぎつけられそうな場所ではなく、友人の家やホテルなど、比較的縁の薄いところに避難しておくべきなのだ。

 とはいえ……。

 電話を切ってカップ酒をあおりながら、早くも別府は電話したことを後悔していた。規則を破ってまで、こんなことを伝えるべきではなかった。自分の職責にまったく関係がないことだ。

 だが、線の細そうなあの女房が、旦那の横領を告げられたときのあの絶望した表情――車から降ろされたあと、これからどうすればいいのか途方に暮れて立ち尽くすあの姿を思い出すと、別府の胸はかすかに軋む。すでに大きな衝撃に打ちのめされているだろうあの女性が、避けられるはずの苦悩にまで耐える必要はない……。別府の心は転々とする。三十年の月日のなかで無数の犯罪と向き合うなかで、すっかり色褪せてしまった別府の心にも、まだ同情の残り火のようなものはくすぶっていたのである。

 こいつは、と別府は横目で部下をうかがった。いままさに、胸のうちで信念を燃やしている。警察官になってまだ三年にもならない男だ。これが燃え尽きてしまうのに、いったいどれくらいかかるのだろう? どれだけの事件、どれほどの被害者とその家族、そしてまた、どれほどの加害者とその家族と巡りあえば、衰え、磨り減り、砂をかぶせられた焚火のようにくすぶるだけになってしまうのだろう? そんな考えが頭の片隅でうごめいて、次の瞬間、別府は、そんなことを考えた自分を猛烈に恥じた。

「わかった、わかりました」

 つとめておどけた口調で言うと、両手を挙げる。八房の目が少年のように輝くのがわかったが、極力、直視しないようにする。あんなまっすぐな眼差し、俺に直視できたものではない。

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