須賀涼太(警察官)【10】
自分を助け起こす腕を感じながら、須賀は嚙まれた足首を凝然と見つめた。深く喰い破られた傷口から血が溢れている。太い血管が破られたのだろうか――自分でも驚くほどの血が流れ出て止まらない。激しい痛みは足首だけでなく右脚全体を痺れさせ、痙攣させている。
呆然と周囲を見渡した。倒れた自分の足先に、頭を撃ち抜かれて死んだ少女の身体。同僚たちが数人がかりで少年や警備員を取り押さえているが、思いもかけぬ力にみな手こずっている様子だった。少年は首をひねって、肩を摑んでいた警官の手の甲に嚙みついた。悲鳴と怒声が幾重にも重なる。我知らず、須賀はかすれ声でつぶやいていた。
「ゾンビ……」
恐怖が津波のように押し寄せてきた。
嚙まれた。感染――俺も? あんなふうに? みんな嚙まれた痕があった。警備員の男はとても生きているようには見えなかった。嚙みつかれると感染して? 死ぬ/甦る? 映画みたいに? ゾンビみたいに?
喉の奥が痙攣し、ヒッヒッとひきつるばかりで息が吸えない。手足や顎の先が痺れ、全身から汗が噴き出した。須賀は上半身を支えてくれている同僚の腕にすがりつき、口をぱくぱくさせて必死で伝えようとした。感染した。嚙まれると感染する。俺もあんなふうになる。隔離しなきゃいけない。この場所を封鎖しないといけない。
からからに渇いた口から洩れるのは、しかし小さな破裂音のような声ばかりだった。
「か、かか、か――」
「しゃべるな、すぐに救急が来る」
それは上司の松尾だった。須賀の足首の傷を検分し、「大丈夫だ、死ぬような傷じゃない」と、安心させるように背中を叩いた。須賀はぐるぐると混乱する頭のなかで必死に考えた。そうじゃない。傷の程度は問題じゃない。ゾンビに嚙まれたらもう駄目なんだ。嚙まれたら最後、ゾンビになってしまうんだ。だがあまりの動揺で声にならず、なにより自分自身がその妄想ともつかない思いを信じることができないでいた。
到着した救急隊により担架に載せられ、須賀は救急車に載せられた。酸素マスクをかぶせられ、止血処理を施される。血を喪いすぎたせいか、意識が朦朧とする。須賀は目を閉じた。そのまま瞼を開く力もなく、睡魔が波打つままに任せる。――起きたら伝えなければ。どれだけ荒唐無稽に聞こえようとも、ゾンビのことを――嚙みつきによる感染の脅威と、一帯の封鎖の必要を訴えなければ。だが自分はどうなるのだろう? 嚙まれてしまった自分はこれからどうしたらいいのだろう? 治療の方法はあるのだろうか。本当に自分もあんなふうになってしまうのだろうか……。
けれど、須賀が起きることはもうなかった。
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須賀涼太(24)
Z化後の感染拡大 なし
搬送先の病院で意識を失ったまま、別の感染者――美住恵梨香(30)――に貪られて死亡
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