塩屋雅弘(警備員)【10】
「きみ、はやく逃げて!」
塩屋は眼前の異常なものから目を逸らさず、背後の少女に声をかけた。しゃくりあげるような、恐怖で痙攣するような声で少女が応えた。
「で、でも、こ、こう、こういちが」
「その男の子は僕が連れてくるから! とにかくはやく離れて!」
「で、でも」
「はやく!!」
振り返らずに叫んだ。しばしの逡巡ののち、よろよろと駆けだす足音がして、塩屋は小さく安堵の息をついた。
その瞬間、血まみれの少女が歯を剝き出して襲いかかってきた。塩屋はあわてて飛び退り、少女の爪と歯は空中を嚙む。間近に迫った喉元から血飛沫が飛び散り、塩屋は初めて、この少女も何かに喉を喰い破られていることに気づいた。警戒棒を握りなおすと、肩口に向けて思いきり叩きこむ。少女はバランスを崩してよろめいたが、再び両手を差し出して組みつこうとしてくる。塩屋は右に身体を回転させてそれを躱した。間髪入れずに腹に警戒棒を打ち据える。
その応酬を何度か繰り返し、塩屋は、なんとかなるかもしれない、と思った。このまま時間を稼いでいれば、御倉さんなり誰なり、警備の人が駆けつけてくれるはずだ。別に武道の心得があるわけではなかったが、相手もどう見ても理性を欠いた状態だった。一撃一撃を冷静に重ねていけば、必ず活路が――
それは油断だったのかもしれず、少女が警戒棒を鷲摑みにするのを許したのはその考えだったのかもしれない。頭のなかに空白が弾け、どうすればいいのかまったくわからなくなった。少女が警戒棒を摑んだ腕を一振りする。思いのほか強い力で、柄を手放す判断ができないままに、塩屋は床に薙ぎ倒された。
下敷きになった左腕に痛みが走るより先に、やばい、という言葉が頭を満たした。咄嗟に床を滑る勢いに任せ、少女から距離を取ろうとした。だが身体がすぐに何か柔らかいものにぶつかる。首を巡らせると、それはさきほど少女に殺された少年の身体だった。二人の顔が間近にあった。だが、少年の目が開いていた。その瞳――真っ赤な白眼、萎んだ瞳。
――やばい!
全身を貫いた危機感は、床に投げ飛ばされたときの比ではなかった。警戒棒はもはや手を離れていた。塩屋はなにか摑めるものを探して右手を動かしたが、その腕の動きを、いきなり動いた少年の手が止めた。腕が握り潰されるかと思うほどの力に、苦悶の声が洩れる。少年から逃れるどころか、身をよじる暇もなかった。がッと開いたぬらつく口腔が眼前を満たす。
恐怖の悲鳴すら啖い尽くすように、少年が塩屋の顔に貪りついた。ほとんど同時に脇腹にも灼けるような痛みが迸ったが、それが、少女が嚙みついたことによるものだということはもはや、激痛と混乱にもみくちゃにされた塩屋にはわからなかった。
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塩屋雅弘(23)
Z化後の感染拡大 須賀涼太(24)、下水流真奈(15)の2人
4日後、祁答院怜央(16)により、自作の釘バットで頭部を破壊され死亡
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