塩屋雅弘(警備員)【10】

 この状況に警備員としてどう対処すべきかという考えは、しかし塩屋の頭にはまだ訪れなかった。

 あれは何だ。逃げだす買い物客らの必死の形相、その向こう側――廊下の隅でうごめく人影、そのかたまり。塩屋は異様なものを見た。

 三人の男女が揉みあっている。一人の少年を少女二人が取りあっているようだ。全員が学生服――高校生だろうか?――で、少女の一人が少年の胸元に抱きつき、もう一人が彼の腕を引っ張っている。いずれにせよ滅多にお目にかかる光景ではないが、全員が血にまみれていなければ、まだしも痴話喧嘩のたぐいかと思えたかもしれない。そして、抱きついているように見えるのが……いや、本当にそうか? 見間違いでは……だが違う、確かに、そうだ、その少女が男の子の首に嚙みついているのでなければ。さきほどから響いていた悲鳴というか叫び声は彼のものだということに、今さらながら塩屋は気づいた。

 凍りついていたのは何秒ぐらいだったのか、自分ではわからなかった。突如としてほとばしった別の悲鳴で我に返り、反射的に階上を振り仰ぐ。彼が駆け下りてきたエスカレーターから、人間が転がり落ちてきた。何を考える暇もなかった。塩屋の目の前で学生服姿の男が、腹の底を震わせるようなゴキリという音とともに停止した。そのままぐにゃりと身体を折り曲げて動かなくなる。その横を、彼の手から離れたのだろうか、竹刀がはいった紫色の袋が転がっていった。

 二階の廊下には蒼ざめた表情でこちらを見下ろす客たちがいるが、むし大半は転落事故に気づく様子もなく、悲鳴や怒声をあげて走りまわっている。どこを目指すということもなく右往左往している。テナントの従業員や警備員が避難誘導に声をあげはじめたものの、彼らも状況を把握しておらず、混乱は加速度的に拡がりつつあった。

 塩屋はふたたび、廊下の先の三人に目を戻した。既に少年はぐったりしており、足下には血溜まりができていた。それにいまだ喰らいつく少女――正気なのだろうか――と、泣きながら少年を引き剝がそうとする少女。塩屋は床を蹴って駆けだした。腰の警戒棒に手を伸ばすあいだも足を止めなかった。何がどうなっているのかまったくわからないが、とにかく事態の中心はこの三人だということだけは理解できた。

 強く左足を踏み込むと、少年の首を喰い千切る少女に向かって、警戒棒の先端を思いきり突き出す。尖端が少女の頬を抉るように捉え、がつんと鈍い手応えが右腕に響いた。反り返る頭部に引きずられるように少女の身体がよろめき、少年から数歩離れる。いましめを解かれた少年が力なく崩れ落ち、もうひとりの少女がその身体に取りすがった。浩一、浩一、と泣きながら何度も名前を呼んでいるが、塩屋は一見して手遅れだと悟った。

 遠目にはわからなかったが、少年は、顔と咽喉とを喰い破られていた。その目は既に閉じられ、鼻や唇があったところはぐずぐずの赤黒い塊でしかなく、喉仏のあたりは大きく破れて、血の波が溢れている。たまらずそらした目の端で、両脚がびくびくと痙攣しているのがわかった。

 これを、この女の子が? ぐるぐると唸り声のような音を出している少女に警戒棒を構えなおし、塩屋は慄然とした。だが、これはもはや人間と言えるのだろうか。歯茎を剝き出しにしてこちらを威嚇するような顔。両眼は真っ赤に充血し、瞳だけが錐で穴をあけたように黒い点となっている。精神に異常のある子だろうか。それともなにかの感染症だろうか。こんなの、こんな、――化け物のようなの、映画とかでしか見たことがない。

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