塩屋雅弘(警備員)【3】
御倉はまえに向きなおると、心持ち背筋を伸ばして存在感を誇示するように、ゆっくりと歩きだした。後に続いてエスカレーターを降りながら、塩屋もなんとなく姿勢を改めた。腰にぶら下がる警戒棒を右手が探る。まさかこれを使うほどの荒事はないと思うけれど。
本屋に限らずスーパーやコンビニなど、万引きの被害が店に与える打撃はそう馬鹿にしたものではないということは知っていた。一冊盗まれた被害額は、十冊売らなければまかなえないと聞いたこともある。塩屋自身、高校時代、同級生に万引き常習犯がいるという噂は耳にしていた。数人で協力して大量のマンガを盗み、古本屋に売って小金を稼ぐのだという。
鹿児島市の中心部で大きな本屋というと、ここか、天文館に二店舗あるジュンク堂のどちらかだ。紀伊國屋書店は駅ビルだけあって、平日休日を問わずたくさんの客で賑わっていた。
入口に平積みされた新刊本のまえを通りすぎ、雑誌やマンガ本コーナーとレジのあいだを歩く。客待ちのレジの女性が軽く会釈してくるのに、こちらも頭を下げかえした。二人の女子高生が頭を寄せあうようにして、一冊の映画雑誌を楽しそうに眺めている。背の低いおじいさんが料理本のまえで何かを探すようにきょろきょろしている。マンガを一冊小脇にかかえ、もう一冊買うか買うまいかと棚を物色している男性がいる。
すこし歩くと、右手に並んでいるのは政治や経済の本棚だ。なんだか懐かしさがこみあげてきた。塩屋を国際経済学の専攻に向かわせたのは、高校時代になんとなく手にしたミルトン・フリードマンだった。威勢の良い『資本主義と自由』はあそこにあるだろうか? 経済学を「良くて無能、悪く言えば加害者」などとのたまった経済学者クルーグマンは? 理想と夢想にあふれた急進派スティグリッツ、思いがけないかたちで一躍有名になったドラッカー、そして現代経済学すべての基礎たるケインズ。あのエリアは彼が青春の一部を捧げた学問の思い出であり、経済学者になるという、自分でも本気で信じたことのない夢の、胸騒ぐ残り香が漂うところだった。
中学や高校の参考書が並ぶエリアを抜け、店の一番奥に向かって、歴史や社会学の背表紙を眺めながら歩く。新興宗教というか、スピリチュアルな本を熱心に立ち読みしている女性の後ろを、身体を横にして通り抜けたとき、足下に置いてあったバッグを軽く蹴飛ばしてしまった。彼はあわてて謝るが、女性は気づいた様子もなく、「運命」とか「幸せ」とか「精神と物理」とかいうフレーズが表紙を飾る本から顔をあげなかった。
こどもたちが絵本をひろげたり、サンプルのおもちゃで遊んだりしている児童コーナーを気をつけながら歩く。映画のDVDやBlu-rayを扱う小さなコーナーを通り、新書や文庫本を右手に見ながら、書店の入口までまた戻ってきた。
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