迫洋子(市役所臨時職員)【10】
店の入口から、学生服姿の男女がぞろぞろとはいってきた。なにやら楽しそうに話しながら雑貨スペースを見てまわっている。娘の通う高校の制服だ。あの子はもう家に――実家に――帰っただろうか。夕方のニュースで父の逮捕を知るより先に子供たちにはあらかじめ知らせておくべきだということに、洋子は今さらながら思い至った。
タオルやハンカチを手に取る高校生の向こうに、そのとき、由実の姿が見えた。グレーのパンツスーツ姿で、仕事をはやめに切りあげて来てくれたことがわかる。彼女もこちらに気がつくと軽く手を振ってくれた。
「ごめんね、待たせちゃったね」
「まだ時間じゃないよ。ごめんね、急に。ありがとう」
由実は歩み寄ってきた店員さんにアイスコーヒーを注文すると、洋子の顔色をうかがった。
「だいじょうぶ? お願いがあるって言ってたけど――どうしたの?」
すぐに本題に入るべきだろうか。いや、いつものように近況や世間話から始める余裕はなかった。互いの子供のことや旦那のことなど笑顔で話すことはできない――そもそもそれが核心なのだ。緊張で舌が口蓋に貼りつく。水をひとくち流し込み、細く長く息を吐いた。軽い吐き気と眩暈。耳鳴り。頭痛。遠くから近づいてくる救急車のサイレンが頭に突き刺さるようだ。
「あのね……」
深呼吸をひとつ。断られたときどうするか考えていなかったことに、遅ればせながら気づく。しかしそんなことをいま悩んでも仕方がない。頼むより他に方法がない。何よりこれは自分のためではなく、子供たちのためなのだ。
「お願いしたいのは、子供たちのことなの」
「子供たち? 亜美ちゃんと隆太くん?」
「うん」
救急車のサイレンがやけに大きく、洋子はすこし声を強くしなければならなかった。近くで何かあったのだろうか。まだ近づいてくる。すごい勢いでサイレンが。
「あの子たちをね、しばらく預かってほし――」
言葉は最後まで由実には届かず、爆発のような音に消し飛ばされた。反射的に窓のほうに顔を向ける。視界いっぱいを覆うガラスの破片と巨大な白い何かだけが見えた。それが窓から突っ込んできた救急車だと理解する暇は、洋子にはなかった。大音響と衝撃に思考がすべて押し流されたなかで、逃れられない死の意識が弾ける。恐怖が膨れあがる暇もなく、むしろ脳裡に小さくひらめいたのは安堵だった。このつらさから、そしてこれからの苦しみから解き放たれることへの安堵だった。
降り注ぐガラスの破片で顔面をずたずたに引き裂かれても、凄まじい速度で突っ込んできた車体に頭蓋骨と頸椎を粉砕されても、勢いのまま引きずられ右腕と左脚を引き千切られても、彼女が最期に感じたのは、小さな安堵だけだった。
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迫洋子(41)
日本における最初期のアウトブレイク(九州南部)において、混乱のなか発生した事故で死亡
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