迫洋子(市役所臨時職員)【9】

 由実になにをどのように話すのか、洋子はまだ考えていなかった。考えることができていなかった。

 詳しい事情を説明することなく、子供だけをしばらく預かってくれるだろうか? 無理だろう。子供を預けるなどこれまで頼んだことはないし、由実にも家庭がある。理由を明かさずに引き受けてくれるわけはないし、そもそもすぐにニュースで知ることになるはずだ。

 それに、どれくらいの長さになるのだろう? 「ほとぼりが冷めるまで」、別府はそう言っていた。それっていつ? 一週間……半月? 横領事件――まだ信じられないけれど、警察がそう言っていた――の話題が下火になる期間の相場など、洋子にわかるはずもない。

 写真を撮られるだろう。コメントを求められるだろう。親類縁者や夫婦関係、家庭の細かいことまで、あることないこと書き立てられるのだろう。それぐらい想像がつく――だって自分も週刊誌で読んだことがあるのだから。それに今はネットがある。洋子はよく知らない世界だったが、ネット上では個人情報が驚くほど簡単に暴かれ、自宅の場所や通っている学校まで晒されるのだという。世間から注がれる好奇の目から子供たちを守るには、自宅はもとより実家でも難しい――それは別府の言うとおりなのだと思う。父親の身勝手なおこないで、何も関係のない子供たちの人生がめちゃくちゃにされてしまうことだけは、なんとしても避けなければ――。

 顔を掌からあげる。年月を経てくすんだ結婚指輪に目を落としたとき、遅まきながらようやく、自分のなかの怒りに気づいた。なぜこんなことを考えなければいけないのだろう。なぜこんなめに遭わなければならないのだろう。なぜ夫はこんなことをしたんだろう。なぜお金が必要だったのだろう。なぜ私が、家族が苦しまなければならないのだろう。怒りも疑問も堂々巡りを繰り返し、結局なにもわからないことだけが思い知らされて、どろどろと煮えたぎる感情で頭が茹だりそうになる。

 それに、洋子はもちろんわかっていた。これはただの想像だ。本当に苦しい毎日は、これからやってくるのだ。

 これまでの私の世界は、穏やかで幸せなふつうの世界は、もう終わってしまったのだ。

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