迫洋子(市役所臨時職員)【5】
反応をうかがうような間があったが、洋子は何も言うことができなかった。言葉の意味を咀嚼しきれないでいる彼女に、運転席の別府の声が遠くから聞こえる。
「明日の午後には逮捕状が出ますんでね。報道発表もありますから、そのおつもりで。横領の金額が金額なんで、ご自宅にはマスコミが大挙すると思います。しばらくのあいだお子さんたちと、どこか嗅ぎつけられないところに移られたほうがいいんじゃないでしょうかね」
何も考えることができず頭のなかが真っ白なのか、それとも、思考の断片があまりにも多く渦巻いて混乱の極みにあるのか、自分でもわからなかった。気をしっかり持たなければならないと思うことはできても、世界が音を立てて崩壊していく感覚はとめどもない。呆然としたまま夫を見つめることしかできなかった。
「これから大変になりますよ、奥さん」
助手席の八房が気の毒そうに言うと、夫は声をあげて泣きだした。
それからのことは、ほとんど夢のなかの出来事のように現実味がなかった。警察官ふたりに今後のことについて――逮捕や起訴かなにかの流れ――逮捕って……? 起訴って?――説明され、職場に戻るとすでに終業時間だった。物問いたげな周囲の視線から逃げるように職場を辞すると、買い物もせずに帰宅した。子供たち――高校生の亜美と小学生の隆太――にどう話せばいいのかまったくわからなかった、そもそも話すべきなのかどうかも。ひとまず市の中心部にある自分の実家に電話し、三人でしばらく泊まらせてもらえないかと頼んだ。電話に出た母親は理由を訊ねたが、洋子が答えあぐねているとそれ以上の追究はせず、「うん、おいで」とだけ言ってくれた。
子供たちが寝静まったのち、両親に事情を説明した。二人とも絶句していた。母が泣きながら背中をさすってくれたけれど、なんだかまだ実感の湧かない洋子は涙も出なかった。眉間に皺を寄せて聞いていた父は、ひとこと「いくらでも家にいればいい」とだけ言うと、めったに酒は飲まなくなったというのに、焼酎のお湯割りを自分で作りだした。一気に呷ろうとして手もとが震え、畳にこぼして毒づいていた。
小学校に入学したばかりの隆太は、突然のおばあちゃん宅へのお泊まりに喜ぶだけだったが、姉の亜美のほうは不穏な空気を察しているようだ。いつもより無口で、その顔にも心なしか色はなかった。何も訊いてはこなかったけれど、帰宅しない父親となにか関係があることぐらいはわかっているのだろう。――まさか逮捕されると思ってはいないだろうが。
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