最終章 愛するすべての人へ

最終章プロローグ 寝待朝焼子の憂鬱

 温泉旅行以降、朝日家ではトラブルが起こることもなく。年末年始も平穏無事に過ぎていった。そこから、さらに時間は進み一月中旬のとある日のこと。


 ――ここは朝日たちが住んでいる曙区から、一つの区と大きな川を挟み、国内で最も東に位置する地域『富士東ふじあずま区』である。この『ヒノワこく』と言う国は、十三の区に地域が別れており、総人口は約六千万人。富士東区は十三区の中で最大の面積を持つが、未開発な土地が多く人口が少ない田舎の地域だ。


 そんな富士東区の市街地から少し離れた山奥に、深夜子の実家『寝待流古武術道場』がある。山野以外、景色のほとんどを田んぼや畑が占める”ど田舎”中の”ど田舎”。辛うじてアスファルトの道路が続く山道。その途中に道場へと続く石畳の階段がある。


 数百メートルはあろう石段を登ると、由緒正しいと表現すべきか、古くて大きいだけと言うべきか、お寺のような門構えが現れる。当然、門の中はお寺とは違う。木造ながら立派な道場が中心に建っており、母屋おもやには住み込みの道場門下生たちもいる。それ故、数軒分の大きさで木造二階建ての造りとなっていた。


 その母屋の中心にある和風の中庭。アオキにツワブキ、紅葉などが程よく立ち並び、鯉が泳ぐ池に、石灯籠、苔むした庭石。薄く積もった雪が、冬の風情を引き立てる。そんな庭園を望む六畳ほどの上品な和室。一人の女性が座布団に正座をし、手紙を読んでいる。


 身長は170センチ程度。真っ直ぐな黒髪は腰近くまであり、銀の和風意匠が施された髪留め筒で先を結わえてある。整った鼻と少し薄いながら形の良い唇。ひと目で美人と思える顔立ちだが、冷たく鋭いと言う表現がぴったりの切れ長な瞳。


 何より特徴的なのは、その目に光が無いことだ。虚空こくうの如き黒目に、つい恐怖を覚えてしまう美しさと言うべきだろう。深夜子と系統が違う目力を持つ容姿。現寝待流当主『寝待ねまち朝焼子あやこ』、深夜子の母である。


 「ふう……深夜子さん。まさか、貴女までもが……麻昼まひるさんと同じ……」


 そう呟いて何度も読み直したと思える手紙をくしゃりと、無意識に握りしめた。封筒の差出人には五月雨新月と署名がされている。朝焼子は手紙を握りしめたまま、光の無い鋭い両眼りょうまなこを閉じる。


 よわい四十三にしては、若く見える。いや、年齢不詳に見えると言うべきか。武道家らしく道着にはかま姿だが、控えめな梅の花柄刺繍に、濃紫のぼかしが入った着物にも見える上等な生地。また、引き締まってはいるが、深夜子と違い起伏がはっきりとした体型。姿勢の良い正座姿で憂いを見せるその表情には、妙な色気が感じれらる。


 「くっ……うう……ああ、どうして、どうして、またあの時のようなことが? 深夜子さんに……うぐうっ」

 苦悶と呟きを漏らし、目を閉じたまま朝焼子は両手で顔を覆う。



 ――断片的に。ノイズの走る映像が。忘れることのできない悪夢が。朝焼子の脳裏に蘇る。


 二十五年前のあの時、声をかけ振り返った男性に心奪われた。


 『あの……もし、このような所に男性お一人で……、如何いかがなされましたか?』

 『え、あ、そ、その……すみません。なんて言ったらいいか、えと……わからないんです』


 少しかげりのある表情だが、見たことも無い美丈夫だった。今思えば不思議に感じる。男性に声をかけるなど、恥ずかしさが勝り過去一度もできたことが無い。だが、あの時だけは違った。そして、一目惚れ。本当の意味でのそれを知ることになる。


 なんとしても、どんな手段を用いても――。彼を、自分のものにしようとした。


 『でも、でも、朝焼子さん。俺は、どうしたら』

 『大丈夫です。わたしが麻昼さんのお側におります。何の心配もありませぬから』


 きっと、あの時の自分は正気を失っていたのだろう。彼を自分に依存させるように仕向けた。


 『ううっ……もう俺には君しか……。朝焼子さん、朝焼子さん!』


 ついには唇を重ね、身体を重ね、愛し合った。愛し合ってしまった。彼の心も知らず、いや、知ろうともせず。ただただ愛をむさぼった。その先に待ち受ける代償など知る由も無かった。


 のちに彼は曙遺伝子研究学会に囚われた。時は男性遺伝子研究の全盛期。当時の男性保護省事務次官『六宝堂りくほうどう弥生やよい』、自分の雇い主にして五月雨情報商会代表取締役『五月雨さみだれ秋月しゅうげつ』を後ろ楯に戦ったが分が悪かった。


 『ああ、麻昼さん。可哀想に……こんなにやつれて、でも心配はありませぬ。もう少し、もう少しで真昼さんを助けだせますから』

 『ごめん。朝焼子さん……俺、俺は、――いや、違う。違うんだ。俺は君を愛している。他の女には……君以外には……ちがっ、うぐっ、おえっ』

 『大丈夫ですか!? 麻昼さん!? お気をしっかり、わたしはここにおります。わたしも貴方を愛しています。だから、もう少しだけ、もう少しだけ……』


 それが最後の会話だった。もう、朝焼子が彼の姿を見ることは無かった。散歩中に逃走した彼は、海に面した断崖絶壁にて行方不明になった。残っていたのは、日本語という誰にも読めない文字で書かれた一通の手紙のみ。


 『六宝堂の姉様あねさまっ、何がっ、一体何が!? 麻昼さんはどこっ、どこにおられるのっ?』

 『……見失った場所が場所だけに、最早手の打ちようが無い』

 『なぜっ、どうしてっ! もう法案は可決したと、あの医学者どもの手から麻昼さんを取り返せると秋月しゅうげつ殿も……どうして、どうしてっ!?』

 『あきちゃ――五月雨もできること全てをやってくれていた。これは完全にわしの失態じゃ。あの連中から力づくにでも彼を取り返しておくべきじゃった。すまぬ』

 『ああああああっ、うわあああああああああああっ!!』


 その一報を聞いたとき、自分の全てが奈落へと沈むのがわかった。人生の絶頂からどん底、それを一年に満たないわずかの間に味わったのだ。


 ――まるで古い映画のように映し出された記憶。ノイズがひどくなって砂嵐が走り、消える。それが場面を変えては繰り返される。


 最後に朝焼子の脳裏に現れた場面は、曙遺伝子研究学会の施設。地下研究室の一室。目の前には身長165センチ程度で、白衣を着た医学研究者が薄ら笑いを浮かべている。ソバージュのショートヘア、少し丸顔でフレームの細いメガネをかけている。目の下のクマが無ければそれなりの美形だ。


 『ど、土台無理な話だったのだよ。戸籍も持たず。明らかに通常の男性とは考え方も、いや、もしかしたら遺伝子レベルで本能的な構造すら違ったかも知れん。それを一般人扱いにするなどありえない。国の、いや、世界の損失だろう?』

 『おのれ貴様。わたしを愚弄するのか……彼がどれだけ苦しんでいたかもわからぬと? この人の皮を被った化生けしょうどもめが!』


 二人の間で激しいやり取りが続いた。そして……。


 『はっ、お前も・・・何かしら理由をつけて、あの男と楽しんでいたんだろう? 結局、彼はお前からも・・・・・逃げたかったのではない――かはっ!?』

 『黙れっ、黙れ黙れだまれえええええええっ!』


 そこで映し出された場面は真っ赤に染まり、電源の落ちたテレビのようにプツンと消えた。



 ――朝焼子の視界がぼやけ、畳が見える。ストーブで焚かれるヤカンから漏れる蒸気の音が聞こえる。


 「ああ……麻昼さん、なぜわたしを信じて待ってくださらなかったのですか? どうしてわたしを置いていかれたのですか? なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、な――」


 握りつぶされた手紙は畳の上に落ち、顔を覆う両手は皮膚をかきむしる一歩手前の形で小刻みに震える。その指の隙間に見え隠れする虚空こくうの瞳から、涙が、漏れだす闇のようにこぼれ落ちていた。


 「御館おやかた様」

 不意に障子の向こうから女性の声が聞こえた。

 「入りなさい」

 まるで何事も無かった。朝焼子は涼やかな声で返事をする。いつの間にか手紙は片付けられ、姿勢を正した正座姿である。


 障子が開けられ、一礼をして中年女性が側まで寄ってくる。こちらも道着に袴姿。寝待家使用人の一人だ。深夜子の実家であるこの古流武術道場はそれなりの歴史と実績、門下生の規模を誇っている。使用人たちは代々同じ一族が仕えており、もちろん寝待流に通じた手練てだれでもある。


 「つい先ほど、山の麓に――」

 使用人が朝焼子に耳打ちをする。

 「あいわかりました。新月殿からいただいたお話通り。どちらにせよわたしが立ち会いましょう。他の者達には手を出さぬように伝えなさい」

 「かしこまりました」


 寝待家の道場入り口である石段近くには、申し訳程度に整地してある空き地兼駐車場がたくさんある。何分、敷地にはことかかない場所だ。日頃は門下生か来客の車が止められるくらいで、広々とスペースが空いている。


 朝焼子がそこに向かってみると、黒塗りの高級車に、怪しげな街宣車が多数集まっていた。もちろん、そこから降りてくる女性たちはひと目でヤクザ者とわかる人間ばかりだ。


 しかも拳銃に刀剣類、凶器とよべる何かを全員が手に持っている。総勢百名に近い武装集団である。


 「ヒャーハハハッ! 寝待とか言う田舎道場はここかぁ?」

 「オラオラァ、責任者は出てこんかい!」

 「ヒャッハー! 悪いが潰れてもらうぜぇ」

 「子供の責任は親の責任ってなぁ、ヒーハー!」


 どうにも世紀末的叫び声をあげる者が多数。彼女らは影嶋一家の親元にあたる鬼竜会末端組織の一つだ。すでに終わったはずの話だが、しつこいのか、田舎の影響なのか、ワンテンポ遅れて深夜子の実家にお礼参りが発生していた。


 使用人と門下生で腕利きと思われる者が、数人待機して警戒いる。それらの者を制止して、あくまで朝焼子一人がゆっくりと武装集団の前へ進みでた。


 「寝待流当主寝待朝焼子である。此度こたびは当家に何用か?」


 百人近い荒くれ者たちを前に、まったく動じていない。朝焼子の涼やかで通る声がその場に響いた。



 ――朝焼子が読んでいた新月の手紙には、この襲撃予定も含めて朝日、深夜子たちの経緯が記されていたのだった。


 ところでどうして手紙で? と言う疑問がわく頃合であろう。せっかくなので簡単に説明する。この寝待朝焼子。見た目通り非常に古風な人間で、例えば連絡方法は基本手紙。スマホはおろか、家電のリモコン操作すら危うい強烈な機械音痴である。


 娘の深夜子をして『いったい何時の時代に生きてる方でしょうか?』と疑ってしまうレベル。この田舎住まいに、この母。深夜子が早くからMaps目指して、上京した一因でもある。


 ちなみにどうしても電話連絡が必要な場合は、側に使用人がいる時なら代行でなんとかなります。 


 それでは、話を戻そう。この鬼竜会末端組織の武装集団は本日。朝焼子に傷一つ与える事ができず壊滅させられることになる。寝待流当主の力を侮ってはいけない。


 

 ――数日後。天候は軽く粉雪がちらついており、山や田畑に積もる雪が少しばかり厚みを増している。


 朝焼子は中庭前の和室で、何やら出かける準備をしていた。道着と袴の上に、菊文様の刺繍を施している黒色の長羽織。そして、これまた古風な被り笠姿である。


 「御館おやかた様。この度は?」

 準備を手伝う使用人が確認をする。

 「まずは六宝堂の姉様あねさまにお会いすることにしました。それと帰りの道中で例の話・・・も進めて参りましょう。しばしの間留守を頼みますよ」

 「……かしこまりました。道中お気をつけて」



 ――カチリ。と、世界のどこかで音がした。


 二十五年前、二人の人生を狂わせてしまった運命の歯車。一度は壊れ、動かなくなったはずのそれが。――今再び、ゆっくりと動き始める。


 世代を超え、時を超え、世界をも超え、多数の若者たちの運命の糸を手繰り寄せ……。


 運命の歯車が動き出したのである。

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