第31話 焼肉事件(後編)

 頼みの綱であった五月は酔いつぶれて夢の中、深夜子は買い出しで外出中。

 いよいよ持って朝日の猛攻から脱出できる可能性が低くなって来た梅である。

 しかも朝日は酔っぱらっており、なにやら猛烈に悪い予感がする――そんな思考が頭を横切った瞬間であった。


「ねえねえ、梅ちゃん?」

「な、なんだ朝日? 今度はどうした?」


 どうやら何かを思いついたらしく、朝日が耳元に口を近づけてきてささやく。

 甘い声色、それだけで脳がとろけそうになる。


「梅ちゃんの耳たぶ。形良くてプニプニしてそうだし、触り心地良さそーだよねー?」

「ふぁっ!?」


 全身に強烈な悪寒が走った、梅の体から一気に酔いが覚めていく。


「うぉおおおいっ、ちょっと待てええええっ!? 俺、耳はよえぇんだよ。じょ、冗談じゃねーぞ……くそっ、こうなりゃもう力ずくで――――あっ!?」


 力ずく、といっても朝日に怪我をさせてはいけない。

 細心の注意を払って引き剥がそうとした梅だったが、時すでに遅し――スッと朝日の右手が顎に添えられ、反射的に身体が固まってしまう。


 梅のぷるんとした唇の左端へ、滑るように朝日の中指が、触れるか触れないか絶妙の力加減で添えられる。

「ふあっ!」

 瞬間! 唇から身体に電気かいかんが走った。

 その快感が梅の全身を駆け巡ると同時に、朝日の中指は左から右へ優しく下唇を撫でる。

「ひうっ」

 まるで唇の神経が剥き出しになっているかと錯覚するほどの感覚に、自分のものと思えない声が漏れてしまった。

 しかしそれでは終わらない。そのまま頬を伝って、朝日の中指はついに耳たぶに到達する。

 同時に、耳たぶの裏側へ回り込んだ親指に挟み込まれてしまう。

「あっ……やん。ちょっ……無理……さわ……る……あっ、はああああっ!」

 唇、頬、そして耳たぶ、優しく走り去った朝日の指がなぞった部分がはっきりわかるほどに、今まで味わったことも無い快楽を伝え落として行った。

「はぁ……」

 顔が熱い、身体の芯がとろりと蕩けるような疼きが――麻痺、と呼ぶには甘く切ない拘束状態を作り出す。

 もう目の焦点も合わず、口はだらしなく半開きでチロリと可愛らしい舌をのぞかせ、なすがままの梅。

 だが、さらに甘く優しく容赦のない朝日の攻勢は続く。

 耳たぶを弄ぶように撫でられ――。

「はっ……あっ…………はぁ…………」

 ふにふにと指で転がすように固さを確かめられた。

「や、やあぁ……きゃうっ!」

「あはっ、やっぱり梅ちゃんの耳たぶはプニプニだねー。うーん…………ふふ。おいしそーかも?」

「――ッ!?」

 すでに意識が飛ぶ直前であった梅に、さらに追い討ちの囁きが聞こえ、それが気付けとなった。

 美味しそう? 耳たぶが? これはまずい! 絶対にダメな奴である。なんとか力を振り絞って声を出す。

「おっ、おいっ、おいおいおいっ!? 朝日……お前!? おいしそう? な、何を言ってんだ……ちょっと!? く、くち、口唇? 首筋にあてるな……おいっ――ちょおおっ!? んっ……ふっ……は、あ、ダメっ……いやっ、あっ、朝日!? や、やめっ――」

 はむっ――その刹那。耳たぶは熱くしっとりと柔らかい何か・・に包まれた。

「ひあっ!」

 今までとは比べものにならない強く甘い衝撃が身体を貫いた。

 さらにねっとりと蠢くものが耳たぶに触れたと同時に――ちゅうっ!

「――――――んあああっ!!!?」


 梅、ノックダウン。

 無論ここまで、美少年(男子高校生)がロリ猫娘(成人女性)の耳たぶにじゃれついていただけの、大変に健全な光景であった! イイね。


◇◆◇


 どさっ……あまりの光景に、手に持った買い物袋がすべり落ちる。

 深夜子が庭に戻った時には、すでに大惨事。


 五月は酔い潰れてダウン。

 梅は詳細な描写が困難な状態でダウン。

 朝日に至っては、タンクトップ姿で絶賛未成年飲酒の真っ只中……わずか三十分足らずでどうしてこうなった?


「ちょ、ちょっと朝日君。お酒はマズい。それに、こ、これ、いったい何があったの――って、うひゃあああっ!?」


 Mapsという立場的にも、未成年男性の飲酒は非常にマズい。

 とにかく止めさせなければ。深夜子は急いで駆け寄る。

 が、近よった途端、朝日が胸へと飛び込んできた。

 やったぜ!

 ……違うそうじゃない。


「ちょ、ちょちょちょちょっと、朝日君? どしたの――んっ? ん゛ん゛ん゛っ!? ふおおっ、ふ、服ががががが」


 抱きついてきた朝日を見下ろせば、ずれ落ちたタンクトップの左肩の隙間から、薄い桜色の素敵な部分が見え隠れしているじゃありませんか。

 絶、景、たまんねぇな。

 ……違うそうじゃない。


「えへへ。深夜子さんおかえりー」


 さらには、酔っぱらい朝日による超至近距離での抱擁ナイススキンシップ

 ありがとうございます。

 ……だから、そうじゃないってば!


 もう、思わずそのまま押し倒してしまいたくなる状況。

 さりとて、Mpasが性犯罪者になるとか、末代までの晒し者確定。

 深夜子は本能を押し殺して耐え忍ぶ。


「あ、あああ朝日君。そ、そのかっこ。あにょ、ひ、左肩ずれてて、そにょ、み、見えそうだから……上着を着ないと」

「えー、何見てるのー? あははっ、深夜子さんのえっちー」


 とか言いながら、全く隠す気ないですやん。

 朝日は露出した上半身を取り繕うそぶりもなく、グイグイと迫ってくる。

 あーもう、こりゃたまらん。

 この状況。深夜子にとっては、荒ぶる闘牛を前に赤いマントをヒラヒラさせるあの行為・・・・をされているのと同義。


「いやいやいや、そんなつもりは……あ、朝日君。とにかく服、直して、ね」

「んー? ……あっ、じゃあね。はい! 深夜子さんが直して」

 なんとここで、上機嫌な朝日が「いいアイディア出ましたよ!」とばかりに、ほどよく着崩れした左肩を差し出してきた。

「んなっ、なななななんとおおおおっ!?」


 まさに小悪魔の誘惑。


 アルコールの影響で、ほんのりピンクに染まった朝日の肌が、なんとも艶かしく目に映る。

 いい具合にずれ落ちているタンクトップの左肩――それを直すなんてとんでもない!

 それよりも脱がせたい。むしろ剥ぎ取りたい。

 でもって、遠慮なくむしゃぶりつきたい。そんな欲求が深夜子の頭の中を駆け巡る。


「そ、そそそそれじゃあ……いただき――ちがうっ!?」


 ゴスンッ!!


 気付け薬代わりに、右拳で自分のこめかみを殴りつける。

 あ、ぶ、な、い。危うく朝日を美味しくいただくところであった。


「オン・マリシエイ・ソワカ」

 深夜子は印を結び、祈りを捧げ、全力で理性を総動員させる。

 精神を研ぎ澄まし、朝日の二の腕にかかっているタンクトップの肩部分だけを、UFOキャッチャーのように、指でつまむ!

 とにかく肌に触れないように、慎重に……あ、これ精密機械の修理よりもキツいわ。


「はぁっ、はぁっ……こ、これは思ったよりあたしに効く」


 理性さん。さっそく息もえ。さらに――。


「えへへ。ありがとー深夜子さん」

「うひゃおおおおっ!?」


 無慈悲すてきな追撃! 朝日が甘えた声で、顔を押しつけるように抱きつき迫ってくる。

 久々の感触に、身体の奥底から熱いものが込み上げてきちゃうじゃないですか。

 ダメだ、これはあかん。わなわなと両手が震える。

 ここまま朝日を力いっぱい抱きしめ、押し倒したい!

 深夜子は本能的欲求が、全身に燃え上がりつつあるのを感じていた。


 ――が。


「深夜子さん……こっちに来てから、いっぱい……色々……ありがとね」

 朝日の口から出た次の言葉は、先程までとはまったく違うものであった。

「えっ? ……朝日君」


 それは突然の感謝を伝える言葉。

 酔っている、いや、酔っているからこそ、本音だと思われる。

 言葉の意味が理解できた瞬間。温かいものが深夜子の心に広がっていた。

 嬉しい! 涙が出るほど嬉しい!

 この仕事をしていて本当に良かった。感動で心がうち震える。


「ふへへ。そんな、別にお礼を言われる程でも――」

「ねぇ、深夜子さん……」


 だが、そんな喜びもつかの間。

 さらに酔いが回ったらしい朝日が、潤んだ瞳で上目遣いに見上げてきた。

 いやー、切なげな表情で自分みやこの名前を呼ばれる破壊力は桁が違いますね。


「な、ななななななにかな? ふひゃ……あれ?」


 ああ、情けないやら悲しいやら。

 つい直前まで、大切で、愛しい宝物のように見えていた美少年の姿。

 それを抗えない本能が別のものへと塗り替える。

 それは、むしゃぶり尽くしたくなる極上の肉料理! おいしそう。食べていいよね?


 だが、許されない。許される訳がない。

 こんな自分にありがとうを言ってくれる。この天使を汚すわけにはいかない。


 唸れ、我が理性よ! ――さあ「じゃ、朝日君。お水を飲んで部屋で休もうね(キリッ)」と優しくエスコートしよう。


「じゃ、朝日君……いただきます!」


 理性さん敗れる。

 己の意識を無視して、左手が朝日のタンクトップの隙間へと滑り込んで行く。


「んっ」


 朝日がピクリと反応した。引き締まった腹部へ触れた指が、止まらない。

 エッロ! これエッロ!

 いやいや、これ以上はダメだ。間違いなく一時の快楽と人生引き換えの特急券。瀕死の理性さんが脳内で必死に警鐘を鳴らしている。

 だが、止まらない。あと一歩で見事性犯罪者の仲間入り確定。

 ……ならば! 最後に残るわずかな理性でもって右腕を突き動かす。


 ――パァン!!


 銃声が庭に響き渡る。

 本能に支配される寸前、深夜子はホルスターから銃を引き抜き、自分の側頭部に向けてゴム弾を発射した。

 強烈な衝撃に頭が揺れ、暴走していた本能が霧散する。


「ふぇ? 今、凄い音がしたけど……深夜子さんだいじょうぶ?」

「ぜ、全然。…………な、なんてこと無い……」


 銃声に驚いた朝日が、身体を離してペタンと芝生に座りこんだ。

 セーフ。

 旅立ちかけた理性も、なんとか繋ぎ止めることに成功。

 社会的にもセーフ。

 いや、危なかった。でも、これで仕切り直しになるはず。

 深夜子はそう考え、距離を取るためにその場を立とうとする。

 ところが――。


「あっそだ。深夜子さん」

「はいっ? な、なななななにかな?」

「ねぇ、耳たぶさわっていい?」


 なんだって? 今の朝日に遠慮という言葉はなかった。

 突然なんの脈絡もなく、耳たぶにターゲットがロックでオンされるとか意味がわからない。


「んななななぁっ!? あ、あたしの耳ぃ? いいけど。いや、よくない……うん。それはよくない。あ、あたしの耳はおさわり禁止デス」


 いいわきゃない。

 そんなことをされた日には、理性さんの再起戦は秒殺で惨敗確定。

 即座に襲いかかっちゃうこと間違いなしである。

 深夜子はあたふたと手を振り、ジェスチャーも加えて無理ですアピールをする。


「えーそうなんだー。もー、深夜子のけちんぼー」

「ふえっ!? いや、そ、その……朝日君」

 まずい! 機嫌を損ねてしまった? ――からの。

「すきありー」


 がばっっと朝日が両手を広げて立ち上がってきた。

 隙を見せた自分の首に手を回し、抱きつくつもりらしい。

 いらっしゃいませ――じゃない! かわさねば。

 ところが、酔っていてバランスが取れないのか、朝日が倒れこみそうなった。


「朝日君。危ない! って、うわっと」


 辛うじて受け止めれたが、体勢が悪かった。

 もうこれは、朝日に怪我をさせないように自分がクッションになる形で倒れるしかない。


「「…………」」


 結果……ちょうど朝日が自分に馬乗りになる形で、顔を見合わせる体勢。

 うわっ、顔近いっ! 深夜子は思わずゴクリと唾をのみ込む。 


 そして、――自然と二人は見つめ合う。


「……深夜子さん」

「……朝日君」


 朝日の潤んだ瞳が何かを伝えたげに、じっと自分を見つめてくる。

 そっと右肩に手が添えられた。そのまま少しずつ朝日の顔が、いや、唇が迫ってくる。


 今度は……何?

 もしかしてキス? もしかしなくてもキス!? つまりはファーストキス!! その相手が最高の美少年!!

 まさかの展開、深夜子の思考回路はショート寸前である。


 止める? 止めなくていいよね? これは男性あさひ側からなのでセーフだよね。

 あーこれむりだわー、とめるのまにあわないわーむりだわー。

 あまりにも最高なシチュエーションに、ぼんやりする頭の中で露骨な言い訳を展開。

 その瞬間・・・・を待って目を閉じる。


 そして……。



 そして…………。




 あれれ…………?





「スースー」

「へ? 朝日君?」


 顔の横側を通りすぎて、ぐったりと倒れ込んでしまった朝日から寝息が聞こえてくる。

 どうやら酔いつぶれて寝てしまったようだ。


「ふっ……は……はは……あはは……アハハハハハ」


 期待と緊張が一瞬にして弾け飛んだ。

 深夜子は思わず乾いた笑い声を漏らしてしまう。

 もはや、天を仰ぐしかない。――泣きたくなるよな月の光ムーンライトが目にしみる。


 あまりにもあまりな脱力感。

 しばらく起き上がる気力も起きなかったが、このまま二人して庭に寝転んでいるわけにもいかない。

 心にムチ打って起き上がり、寝入ってしまった朝日を抱き上げて、寝室まで連れて行くことにした深夜子であった。



 しばらくして、朝日の寝室から再び銃声が響く……理性さん連敗の模様である。

 ――以降、朝日家で禁酒令が施行されたのは言うまでもない。

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