第5話 深夜子と朝日
あわただしかった数日間。現在までの出来事が頭の中で整理され、意識が追いつく。
朝日は閉じていた目を開け、まぶたをこすった。
「帰れるのかな……僕。深夜子さん、変わってるけどいい人だったな……」
まだ深夜子と出会って二日目。短時間ではあるが、好ましい人柄だと感じる。非常に個性的だけど……まあそれに、自分に対してとても好意的だ。なんだかんだと職務にも忠実で安心できる――少しでも前向きな事を考えようとする朝日だが、胸の奥にある違和感はぬぐえない。
天井を見上げながら、ぐっと心臓を掴むように服の左胸側を握りしめる。思い浮かぶのは、多数の女性たちから向けられ続けた熱烈な視線。コンビニで感じた得体の知れない恐怖。積み重なった不安に朝日の心は押しつぶされそうになる。
「帰り――たいよ。……母さん、姉さん。……誰か。う……ううっ、ひぐっ」
我慢ができなかった。自然と嗚咽が漏れてしまう。この世界に来て四日、落ち着いて考える時間と場所ができたことで緊張の糸が切れてしまった。
「う……うぐっ、うわあああーーーーっ」
涙が止まらない。朝日はしばらくの間泣き続けた。
◇◆◇
――コンコン。
突然、部屋にノックの音が響いた。朝日は身体をビクッと震わせる。
深夜子の寝室とはかなり距離が離れていた。自分の泣いている声など聞こえないはずだ。ところが――。
『……あ、あの朝日君。いい……かな?』
扉の向こうから、深夜子の申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
朝日は泣いているを聞かれてしまったのかと少し焦る。一つ年上だけど、女性に泣いていたと知られるのは男子としてちょっと恥ずかしい。
「あ、鍵開いてますよ……どうぞ」
さっと涙をぬぐって、極力平静をよそおい返事をする。
すると、ゆっくりと扉が開いて遠慮がちに深夜子が入ってきた。昼間のスーツ姿と違って今は寝間着姿だ。薄いブルーのフリルワンピースがスレンダーな体型とあいまってとても色っぽい。朝日は少しドキッとしてしまう。
ところがどっこい。本当にドキッとしているのは深夜子である。
(ふおわあああああっ、ちょっ、朝日君。上はうっすいTシャツ一枚だけ? ちょとすけけけけ、ふぉあっ、し、下はショートパンツだけ? ふ、ふとももがががががが)
朝日にとっては寝間着代わりとして使っている普通のTシャツにショートパンツ。しかし、深夜子にとっては破壊力抜群の
(何これ? やっべーエロかわ、ちょうエロかわ)
本来ならのたうちまわって悶絶し、健全な女子としての歓喜をいかんなく表現したいところだが、そうはいかない。場面が場面だけに朝日の状況確認――業務優先なのだ。
深夜子は太ももの裏を指でつねりながら真顔を保つ。あいたたた。
痛みとひきかえに冷静さを取り戻し、朝日を注意深く観察する。やはり精神状態が芳しくなさそうだ。すばやく頭をお仕事モードに切り替える。
「あの、今……泣いてた?」
「えっ!? いやっ、そ、その……だ、大丈夫……です……から」
やはり聞かれていた。朝日は恥ずかしさからカッと頬が熱くなる。しかもごまかし切れずに微妙な返事をしてしまった。
「あの、朝日君。体調悪い?」
「そんな……こと……ないです」
一方で、深夜子は男性学のマニュアル通りにケアを実行する。
「ほんと、大丈夫?」
「あっ……その、だ、だいじょうぶ。大丈夫ですから!」
できるだけ優しく、落ち着いた声を心がける。深夜子にとって初の実戦だが、自分でも驚くほど穏やかに語りかけることができていた。
そうか。どうやら自分が思っていた以上に朝日のことが心配なのだ。
「そっか、気分はどう。辛くない?」
「…………」
逆に、朝日の弱った心には深夜子の優しく落ち着いた声が針のように突き刺さる。だんだんと余裕が削りとられていく。
「朝日君……あたしの勝手な想像」
「……なん……ですか?」
「もしかして今まで無理してた?」
「――――っ!?」
図星。
朝日はこの環境の中、わずかでも自分の立場を守る為、ただひたすら愛想よく、周りに気を使い続けていた。それが力の無い自分にできる唯一のことだったからだ。
「その、無理……しないでいいよ」
「いやっ、それは――」
見透かされた。朝日は心が丸裸にされるような感覚に焦燥感を覚える。優しさが息苦しい。
それを知るよしもない深夜子は、朝日のストレスを少しでも軽くしたいと考える。男性に対する知識を総動員だ。朝日の個人資料をつぶさに思い出す。今、彼の置かれている環境。今日までの状況を元に推測――導きだされる答えは……。
「朝日君。帰りたいん……だね?」
「なっ……」
「さみしいんだよね。いいよ……無理しないで、大丈夫」
核心の一言。朝日は心の中で押さえていたモノが一気に吹き上がるのを感じた。
「―――――だよ」
「え?」
「そうだよっ、帰りたいさっ! でも……でも、どうしろって言うんだよっ!?」
突如、振り絞るように朝日が叫んだ。
深夜子は驚くと同時に感じとる。まだ二日だけだが、知っている穏やかな彼とは違う。無理をしていた反動――本音だと。
「いきなりっ、気づいたらっ、こんな世界に放り込まれるとかなんの冗談だよっ。女の人ばっかで、僕のことを変な目で見てさ!」
「朝日……君」
「わかるんだよ。僕のことを獲物のように見てるのが! だから怖くて、怖くて……」
「……ごめんなさい」
「深夜子さんだって……あの人たちと同じなんでしょっ?」
「…………ごめんなさい」
「……帰して」
「え?」
「ねえ、帰してよ! 僕を元の世界に帰してよっ、家に帰してよっ!」
「……それは」
「どうして? 協力してくれるんでしょ!」
「ごめんなさい……今は無理」
それでも深夜子は冷静に、穏やかに対応を続ける。
「なんだよ。なんなんだよそれ……」
「でも……いつか必ず帰してあげる。だから」
深夜子は自分の服を握る朝日の手に、そっと手を重ねる。今ばかりは役得だとか、美少年のおててすべすべハァハァだとか、そんな場合じゃない。もうマニュアルでもなんでもない。目の前にいる弱々しい男の子が、ただただ可哀想だった。
「落ち着いて、ね。大丈夫」
そんな深夜子の対応に、朝日は少し落ち着きを取り戻した。そこでハッと我に返って現状に気づく。
「あっ!? 僕、その……ひどいことを……ご、ごめんなさい」
やってしまった。意地の悪いことを、ひどいことを言ってしまったと。
「ううん。朝日君は悪くない。何も悪くない」
「で、でも僕……」
「大丈夫、悪いのはあたしたち。朝日君は気にしない」
うろたえる自分に、なおも深夜子は優しく穏やかに語りかけてくれる。
「なんで、どうして僕にそんなに優しくしてくれるの? ……ただの……仕事でしょ」
「ううん、仕事じゃない。……朝日君。あたしのこと怖くないって言ってくれたから……カッコイイって言ってくれたから」
「え?」
「その……嬉しかったから……あ、朝日君のこと。す、すす好き、だから」
「ははっ……何それ。ちょろすぎでしょ……まだ、会って二日だよ?」
「そ、それは……」
それは違う。この世界、ほとんどの女性には
「と、とにかく。いつか、絶対、元の世界に……ニッポンて国に、帰す。……それまで朝日君はあたしが守るから」
「え? 何を……」
「
「深夜子……さん……?」
「ね、約束……するから」
深夜子の鋭く猛禽類を思わす目だが、その真剣な眼差しと微笑みに不思議な優しさを感じる。
間違いなく本気で言っている。まだ出会って二日の、自分のために、そんな――深夜子を見つめていると、朝日はぎゅっと胸がしめつけられた。嬉しくて、目から涙がポロポロとこぼれ落ちてしまう。
「み、やこ、さん……う、うぅ……うわあああああっ」
「ふぇ、うわっ……ちょっ、ちょっと。あ、あああ朝日君!?」
なんと、泣きながら朝日が抱きついてきた。深夜子の動揺ゲージは一瞬にしてマックスに。それも当然。男性に抱きつかれるなど産まれて初めてだ。なんたる完全想定外のラッキー。
おっふ。あまりの
ふにっ――自分の胸のふたつの膨らみが朝日の顔に押し分けられる。密着した上半身、背中に回された手から心地よい圧力と体温を感じる。あ、そういえばブラ着けてくるの忘れてたな……やっちゃったな……でも、むしろ忘れて良かった。やったぜ!
早くも深夜子の思考はセクハラモード全開になっていた。
淑女モードは本日閉店時間である。ガラガラッ!
そして、アニメや映画でしか見たことのない場面を深夜子は思い出す。こういった時は確か……と恐る恐る朝日の頭を撫でて、軽く抱きしめ返した。
ぎゅ、なでなで――。
……なんたる至福!!
ああ……今、自分は男の子を抱きしめている。さらに、自分の胸に男の子が顔をうずめてくれている。圧倒的万能感に深夜子の脳は支配されていく。
心を痛めた美少年の頭を撫でつつ、自分のおっぱいで抱きしめ癒す。たとえ、十回転生したとしても出会えないであろう、おっぱいにとって至高にして究極。聖母が体現するがごときおっぱいシチュエーション。
おっぱい冥利に尽きるとはまさにこのこと。
今、
しかし悲しいかな、至福の時とは長く続かないようだ。なんとも言えない朝日のいい匂いと感触が、深夜子の理性をゴリゴリと削り取る。限界は瞬く間に訪れてしまった。
やばい!!
このままだと間違いなく朝日を押したおし、本能の
『Mapsによる保護男性強漢事件』
明日の三面記事とワイドショー出演確定。おまけに人生終了確定じゃないか。
「あ、ああああさひくん……げ、限界……かも」
朝日を抱きとめる形のまま、深夜子は限界を迎えてしまった。そのまま力尽き、後ろに倒れこむ。必然、朝日が自分の胸に顔を密着させたまま覆いかぶさる形になる。
だが、その衝撃が上手く冷静さを呼び戻してくれる。自分も、朝日も、まるで磁石が反発するかの如く。弾けるように起き上がりながら離れた。見れば朝日もこの状況を理解し、顔を真っ赤にしている。ちくしょうめちゃくちゃ可愛い。
「みっ、みみ深夜子さん。その……ご、ごめんなさい」
「いや……朝日君は気にしないで……我がおっぱいに一片の悔いなし! ぷっしゅーー」
深夜子昇天。
◇◆◇
――深夜子が復活してからも、ぎこちなさは残る。回復まで若干の時間を要した。会話の切り口らしい切り口も見えず、さらに時間が経過して行く。
そんな中、ふと何かを思いついたらしく深夜子が口を開いた。
「そだ! あたし元気になれる方法知ってる!」
「え?」
そう宣言すると、深夜子はリビングからバックを持ってきて、中からごそごそと何かを取り出した。
「朝日君、はいこれ」
「はい? これって」
ポンと渡されたのは、ゲーム機のコントローラーのようだ。……もしかして。それは朝日の知っている国民的人気メーカーのものにそっくりだった。
「え、えーと……深夜子さん?」
「大乱戦クラッシュシスターズ。楽しい」
「はぁ?」
そのあまりの脈絡のなさに朝日は
「あたし強い。ピンクの悪魔と呼ばれてた」
「はあぁ?」
「対戦すると楽しい、元気出るよ」
一方的にやる気まんまんの深夜子。朝日はただ呆然と見つめる。そして――。
ああ、この人は本当におもしろいな。それに……優しいな。そう感じた瞬間。自分の表情が、感情が、心が、一気に緩んでいくのがわかった。
「……ぷっ」
「え?」
「ぷ、はは、あははははっ、何それ? ばっかじゃないの?」
「ふぇ?」
「ははっ、あはは! あはははははは!」
朝日は腹を抱えて笑い続ける。
「え? え?」
一方の深夜子は、それをどう受け止めて良いのかわからず困惑する。
「いや……ありがとう深夜子さん。少し元気が出たよ」
「ほ、ほんと?」
泣きはらした目が少し腫れぼったいけど、さわやかな気分で朝日は感謝を口にした……だけでは終わらない。
「それに……多分。僕、このゲーム強いですよ」
「!? ……ふ、ふふふふ。それは楽しみ。いざ!」
その後、二人の対戦は早朝五時まで続くのであった。
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