飛竜の華

黒宮涼

第一部 飛竜の華

序章 飛竜の華

 幼子おさなごが森へ迷い込んだようだ。それを感じて、チトセ・ヒ・リイヤは重い足を持ち上げた。気分はいつになく陰鬱だったものだから、脅かして追い払おうと考えていた。その大きな肢体を動かして、少女がいる場所へ向かう。森の奥、村の近くにある湖の前だ。正確な位置がわかるのは、妖精たちが異物を排除したがっているのだろう。自分たちに早く追い出せとばかりに伝えてくるのだ。


 歩くたびに前足の爪が土に食い込んで、そのまま足跡になった。近くにいた小鳥が逃げるように空に飛んでいく。小さな鹿がこちらを見ていたが、睨みつけたらどこかへ逃げていった。動物たちに嫌われるのは別に構わない。仲良くなろうとも思っていないからだ。何かが鳴いていたが、チトセは気にも留めずに歩いた。しかし、自分以外の同胞が動いている様子はまったくない。どうして自分が行かなければならないのか。後で文句の一つでも言ってやろうとチトセは思った。


「おい、そこで何をしている」


 湖の前に着くと、チトセは泣いている少女に向かってそう声をかけた。幼い彼女は驚いた顔をしてこちらを見上げていた。チトセの姿に恐怖しているのか、立ち入り禁止の森へ入ってしまったことに怯えているのか。その両方ではないかと予想する。


「あなた、竜人なの?」


 少女の声は震えていた。肩まで伸びた白い髪の毛。おそらく地毛だろう。珍しいのかどうかはわからない。


 チトセは問いに答えてやる。


「ああ。そうだ。早くここから立ち去れ。でないと食ってしまうぞ」


 脅したつもりだったが、それに反して少女は急に嬉しそうにこう言った。


「すごい。私、竜の姿を見たのは初めて。街の竜人さんたちはみんな人の姿をしているから」

 チトセは驚いた。人間の幼子など、先ほどの小鹿と同じだと思っていた。少し脅かして睨みをきかせてやれば怖がって逃げていくと思っていた。いや、もしかしたらこの少女が特別なのかもしれない。少女からはもう自分に対する怯えを感じなかった。おそらくチトセが何者なのかを理解したからだろう。竜人は人間を食べない。もうこの脅しは効かない。ならばと、チトセは思考する。


「そうか。では街へ戻れ。戻らねば踏みつぶすぞ」


 チトセはそう言いながら、その場で前足を上げてすぐに地面に下ろした。風圧で少女の髪の毛がなびく。潰れた彼女など見たくはなかったが、仕方がない。ここにいるほうが危険なのだ。


「ごめんなさい。入っちゃいけないのは知っていたけれど、少しだけ覗いてみたくて。そうしたら帰り道がわからなくなってしまったの」


 本当に反省しているように聞こえて、チトセは少女を許すことにした。だが妖精たちはそうもいかないだろうことは知っていた。だからこそ人間はこの森に入ってはいけない。この森を荒らしてはいけないのだ。少女はまた目に涙を浮かべていた。


「案内する」


 チトセはそう言いながら、姿を変えた。人型など何百年ぶりだろう。そう思いながら、チトセは自分の体がちゃんと人間になったのかを両手の五本の指を動かして確認する。その変身に少女はまたも驚いた顔をした。


「本当にいいの?」


 涙をぬぐいながら、少女はチトセに向かって尋ねた。チトセは「ついてこい」とだけ言って歩き始めた。少女は無言でチトセの後を歩いた。


 人型の勘がまだ戻らないのか、チトセの足は上手く動かなかった。少女に合わせてゆっくり歩いているわけではないのに、自然とそうなってしまっていた。


「ねぇ、どうしてあなたは森にいるの」


 少女が歩きながら、質問を投げかけてきた。チトセは答えない。


「ここに住んでいるの? ねぇ。森には怖いお化けが住んでいるって本当? あなたは見たことがある?」


 矢継ぎ早に出される質問に、チトセは内心で首をかしげていた。人間の親たちは森にお化けがいることにしているのか。と。本当のことを少女が知ったらどういう反応をするだろうか。そんなことを思った。


 気が付くと、森の入り口まで来ていた。木々の隙間から街の建物が見える。チトセは足を留めて少女のほうに向いた。


「あとは戻れるだろう。妖精はいたずら好きなんだ。もう森に入ってはいけない」

「うん。でも、ねぇ」


 少女はチトセの言葉に頷きつつも何か言いたげにこちらを見つめてくる。


「なんだ」

「また会える?」


 少女の質問に、チトセは眉をひそめた。誰に。と問わずとも少女の答えは知っていた。知っているがゆえに何も言えなかった。だから代わりに少女の小さな頭に右手を置いた。白い髪の毛が揺れる。


「約束だよ」


 名も知らぬ少女はそう言って、森を出て行った。


 いつか本当にその時が来たらと思うと胸が痛かった。けれどその約束を忘れることはないだろうとチトセは思いながら、森の奥へと帰っていく。


 

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