第13話 謎はあぶくのように

 湊をソファに横たえた譲は、その左腕に針を挿し、点滴の薬液が滴るように血管のルートを取る。むぎゅむぎゅと透明なプラスチックの袋を押して、譲はこれでいいと独り言ちる。病人のようなその姿に、栞は胸がかきむしられた。よく見れば湊の腕には蔦のように絡み合う紋様のような鬱血痕が浮き上がっている。なんですか、と譲に問えば「湊の体質だよ」との返事があった。不安に思って点滴がされていない方の兄の手をそっと握ると、湊はふ、と吐息で笑う。


「悪いけど、これでオレはもう栞に加勢してやれない。オレの体はこんな状態だし、

元より白鳥を名乗っていいってのは一度きりだっていう綴ばあさんとの決まりがあってな。もう二度と白鳥家としてお前を助けることは叶わない。この後は一生“夜鷹湊”だ」


 祖母が兄を見捨てたことはわかっていた。けれど、その酷な仕打ちに、思わず視界が滲む。魔術師であるというだけで、言詠であらねばならないというだけで、家族であることも許されないなんて。泣き出しそうになる栞の手を握り返して、湊は最高位候補の少女をじっと見つめた。


「なあ。……本当に目指すのか、最高位を? もう充分に苦しんでいるのに」


 ぱちくり、と栞は目を丸くした。


「何を、言い出すんですか。だって、んですよ」

「いいや、それは違う。親父もおふくろも、お前に"目覚めさせてくれ"って頼んだわけじゃないだろ」

「それは、そうかもしれませんけど。でも白鳥家の未来の為にも」

「次の当主はお前だよ、栞。家のことをどうしたいか決めるのはお前だ。だから、もし嫌なら、そんなに頑張らなくたって構わないんだぜ。それに、お前を蔑ろにする綴ばあさんの為に頑張りたいと思うか?」


 そう尋ねられてしまえば、栞に返す言葉はなかった。義務だなんだと自分に言い聞かせてきたものの、一時的とはいえ今こうして讓の庇護下にいれば、栞の祖母の圧力など無いに等しい。自分をこき使うような人間のために働くなんて、改めて考えてみれば、おかしな話だった。


「……だとしても最高位を目指す理由が、お前にあるのか」


 澄んだ瞳が、じっと栞を見つめていた。家族のためでも、名誉のためでもなく、最高位を目指す理由。本当に叶えたい願いは何だったのか、栞は己に問いかける。

 余分なものを削ぎ落として、もう一度考え直せば浮かんでくるのは最初の約束。目を閉じれば、今でも鮮やかに思い出せる。桜の樹の下。泣きそうな顔で笑う、大切な《王子様》。


「大事な友達と約束、したんです。きっとあの子を助けると、言いましたから」


 耳にこびりついた言葉は、短くも悲痛な訴え。


 ――どうか、ぼくの願いを叶えて


 希う言葉は震えていた。栞が導いた結論、それは結局、他人のための願いだったけれど。《王子》のためなら栞は何でもできると、あの日誓ったのだ。確かな意思を灯した瞳が、一瞬、きらりとピーコックグリーンに輝く。それをみた湊は、仕方がないというように口元をほころばせた。


「それがお前の願い、か。……じゃあ、オレはもう、何も言わない」

「湊、お兄ちゃん」

「頑張れよ、栞」


 繋いだ手に少しだけ力を込めて、温もりを伝えるそぶりをする。そのまま湊は目を閉じる。お兄ちゃん、と呼びかけても返事がない。


「ゆ、譲! お兄ちゃんは、お兄ちゃんは無事なんですか」

「大丈夫、大丈夫。さっき睡眠薬飲ませただけだよ」


 小声で慌てふためく栞の肩を、譲はとん、とんと叩く。落ち着くように促され、栞は大きく息を吸って、吐いた。一度深呼吸をするだけで、ずっと思考がクリアになる。落ち着いてから湊の顔を見れば、すやすやと寝息を立てる姿はあどけない。どこか母親に似ているかんばせは、夢に誘われたのか優しい表情だ。少しの間その顔を見ていた栞に、譲がおもむろに声をかける。


「さて、本題だ栞ちゃん」

「何でしょう」

「記憶、本当に全部思い出したのか?」


 問いただすような語調に、栞は身構えた。譲は怒っているのではなく、恐らく自分のかけた術が正しく解けているのかを気にしているようだが、少し緊張してしまう。


「……わかりません。知らなかったことがわかるようになったりはしましたけど、全部かどうかと言われるとちょっと怪しいです」

「やっぱりな」


 素直に現状を語れば、譲は肩を落として嘆息した。


「何がやっぱりなんです?」

「俺が使った記憶を奪う術式なんだがな、記憶を取り戻せた場合、その自覚が栞ちゃんに芽生えるはずなんだ」

「って言うと、つまり……ってことですか?」

「ああ。それがないってことは、まだ不完全な記憶なんだろう」


 顎髭に手をやりながら、参ったなと譲が呟く。悪いなあ、と間延びした言い方がいつも通りの喋り方だったので、ようやく肩の力を抜く。


「で、だ。記憶を全部取り戻すための鍵はきっと、あの少年が握ってる」

「まさか」

「そう。――片桐七緒を名乗った、彼だよ」


 半分くらいの事情は湊から聞いたさ、と譲は腕を組む。兄があの恐ろしい少年の企みを阻止しに来る前の話をしようとして、栞は口を開いては閉じる。温くなった紅茶に口をつけようとする手が震えるのを見とがめて、譲は「無理に話さなくていい」と声をかける。


「いいえ――話さなきゃ、だめです。何か、ヒントがあるかもしれないです」


 痛々しい痕となった小指の傷をそっと撫でながら、栞は七緒との邂逅を思い出す。薄暗い地下図書館、張り巡らされた蜘蛛の糸。


「彼、何故かわたしのことをたくさん知っていました。『出来損ないの白鳥アグリーダック』だなんて蔑称は、白鳥家の人しか知らないはずです。それに《王子》のことも、わたしだけが覚えているはずなのに知っていました。……そうだ、彼、言ってました。“俺のことは思い出してくれた?”って。でもわたし、彼のこと、まだ思い出せないんです」


 何故、七緒はこんなにも栞のことを知っているのか。見当がつかなくて、体を抱きすくめる。今のことならある程度調べれば見当がつくだろう。けれど、蔑称も約束も、全ては過去の情報だ。知っている人間もごくわずかだというのに、一体どうやってそれを知り得たのか。眉間にしわを寄せる栞に、譲もうんうんと頷く。


「俺が封じたときの記憶を取り戻しても栞ちゃんは彼のことが想い出せないなんて、妙だな」

「そうですね。……あの、譲。彼のこと、思い出さなきゃ、いけませんか?」


 逃げずに立ち向かおうと勇気を振り絞った。だが、あんなにひどい事をしてくる人間が、過去の自分に何をしたのかということが気になりはするものの、同時にそれを知ることへの恐怖があった。魔術師として強くありたいと、栞は思う。つらい想い出から目をそらしたいと思ってしまうのは、甘えだとわかっている。

 それでも。辛いことを避けられるのなら避けておきたかった。栞の怯えを肌で感じつつも、譲は首を横に振った。申し訳なさそうな顔で、


「最高位を目指すなら、思い出さなきゃだめだろうな」


 譲が告げるのは現実だ。栞はぎり、と奥歯を噛んだ。


「記憶を取り戻せないと、最高位になれないんですか」

「ああ。最高位は言詠を統べる長だ。そんな偉い地位につくやつが、記憶喪失で力を十全に振るえません、じゃ洒落にならないだろ」


 ぐ、と喉の奥で潰れたような声が漏れる。確かにそうだ、と栞は目を伏せた。自分がもし最高位の指示を受けて動く立場だったとして、記憶や知識があやふやな人間の言うことに、きっと苛立ってしまう。逆に言えば、今の自分がそうなのだから、やはり努力してそれらを補わなければならないのだろう。


「記憶、つまり想い出は魔素回路に密接に関連する。想い出や感情を燃料に、俺たちは力を増幅させることができるんだ」


 考え込んでしまう栞に、授業をするように譲は語る。少女は黙り込んだまま、譲の話に耳を傾ける。


「言詠っていうのはな、を大事にしがちだけど、そっちは本質じゃない。を伝えることに長けているのが、一番の特徴だ。ただ誰かに想いを伝えるだけならこんな大掛かりな魔術も儀式もいらないが、俺たちが想いを伝えたいのは人じゃないからな」

「……人じゃない?」


 その言葉に栞は首を傾げた。願いを叶えるためだとか、承認判集めですっかり忘れていたが、そもそも言詠とはどうあるべきなのか。一番大事なところがすっぽり抜けているような気がして、栞は譲の言葉を待った。


「言詠はそもそも、人ならざるものと人の間の調停者だ」

「人ならざるもの」

「ああ、ひょっとしてその辺の知識がないか? 綴さん、過保護すぎやしないか……まあいいや。俺たちも普段はお目にかからないんだが……最高位が言詠としてきちんと仕事してると、稀に遭遇するよ。人間じゃないモノにな」

「えっと……幽霊とか、妖怪とかってことです?」

「まあ、そんなところだ。人ならざる奴らにもいくつか種族があってな、特に魔族は怖いぞ。目が真っ赤に煌めく美しい連中だけどな」

「真っ赤に……」

「そうそう。俺たち言詠は星の女神と契約してるのはわかってるな? 魔術師は魔術を使うときに魔力の素みたいなもんを代謝するんだが、星の女神と契約している場合は虹彩が緑になる。だが魔族は契約先が違うから、瞳が赤くなるんだ。夕暮れ時なんかに遭遇すると背筋が凍るね、アレは」

「……あ」


 少女は知っている。その色を、そのおぞましさを。人ならざるもの、その色が赤だというのなら、彼はまさしくその力を用いていた。栞は口元を押さえながら息を飲む。


「どうした」

「その、片桐なんですけど。魔術を使った時、目が赤かったんです」

「……………赤だって?」

「はい。ルビーみたいに、真っ赤で。使っている杖にも、真紅の宝石が付いてました。てっきり、烏丸がそういう術式を使う人たちだと思い込んでいたんですけど」


 違ったみたいですね、と栞が呟けば、譲は考え込んでしまう。栞も譲から得た知識を反芻しながら、違和に気がつかなかった事を知る。確かに、生徒会長の烏丸伶が全校集会で言葉を発したときは、明るい緑に瞳が染まっていたはずだ。同じく烏丸の家の人間である七緒だけがなぜ、赤い瞳だったのか。そもそも、片桐七緒とは何者なのか。一つ疑問が解決したそばから、泡のように謎が増えていく。うんうんと唸りながらも思考を巡らせていると、おもむろに譲が口を開いた。


「片桐七緒は、もしかしたら――」


 けれど、その言葉が続けられる前に、ピンポーンとインターホンが押される音がした。一瞬気まずい沈黙が流れ、栞がバタバタと玄関まで駆けていく。宅配便だろうかと玄関を開けば、そこにいたのは鳰海舞と鳩村静だった。


「大変ですっ、栞さん!」

「鳰海先輩、それに鳩村先輩まで? どうしたんですか二人揃って」


 何故だかわからないが慌てふためく舞の肩を叩いて落ち着くように栞は促す。隣にいる静がしばらく言葉を探すように視線を彷徨わせて、そうして真剣な顔で口を開いた。


「雨燕なおがさらわれた」

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