第11話 夜鷹は流星のように

 思い出す。あぶくのようにふつふつと、記憶が緩やかに蘇る。栞にとっての平穏な日常が突然崩壊したのは、5年前のことだった。5年に一度、その代における当主、あるいは次期当主達の中でもっとも信頼された言詠が最高位となり、一族を率いるためにその任を拝命する議を行う場——それが言詠達の新年会だ。最高位は本来話し合いにより決められるものであり、今のように競い合って手にするものでは無かったと、おぼろげに記憶している。

 会議によって決められたものとはいえ、二期続けて白鳥家が拝命してきたその位が、幼いながらに栞には誇らしかった。それは周りから信任を得ているということだし、気弱だけれど優しい父親の歌声が栞はとても好きだった。今年もきっと、父は最高位の証である孔雀の羽飾りを身につけ一族を率いる立場になると思うと、自然と笑みが溢れていた。

 けれど。栞はその姿を見ることはできなかった。瞼の裏にその状況を思い出す。

 血に塗れて倒れ伏し、死んだように眠る母。それを庇うように、大きな怪我を負った父。儀式を行う祭壇の入り口に抱き合うようにして二人が倒れていた時から、白鳥の家はおかしくなってしまった。最高位に任命されたまま意識を失った父の代わりに、同じ血族という理由で最高位代理として任命された栞は、祖母の命ずるがままに魔術修行に明け暮れた。手始めに祖母——白鳥綴は雇っていた使用人を全て辞めさせ、彼女が決めた友人以外と関わることを禁じた。綴は猜疑心にとらわれてしまったと、他の家の老爺達がひそひそと話しているのを聞いた覚えがある。どの家も信用ならない、特に烏丸家はもっての外だ。そう喚き散らす祖母のしわがれた声が、耳の奥にこびりついているようだ。

 そうして綴は、代理ではなく真に最高位にならない限りは自由意志など無いと栞に告げた。彼女曰く、覚めない眠りについた両親に施されているのは強い呪いだという。それを解けるのは最高位だけだと、綴は悲痛な面持ちで栞に告げた。


『栞さんが励まねば、この家は終わりです。両親が再び目覚めることはないでしょう』


 そう言われて、拒絶ができるほど栞は大人ではなかった。地獄の釜の蓋をこじ開けられた栞は、迫り上がる胃液を飲みくだして目を開く。

 思い出したくなかった。けれど、思い出せてよかったのかもしれない。最高位を痛烈に望む動機がさらに、一つ確たるものになったのだから。そうは言っても拘束された身であることには代わりないのだが。栞は震えながら、けれど先ほどよりは落ち着いた眼差しを少年に向ける。


「片桐、と言いましたね」


 片桐七緒、そして烏丸漆。二つの名前を持つ男をどちらで呼べばいいのかの判断はつかなかったが、とりあえずは彼の言う通り片桐の方で呼んでみる。すると、ぱあ、と花が咲くような笑顔が向けられた。無邪気な子供のような反応に栞はたじろぐ。


「だから、七緒だってば。……なぁに、栞ちゃん」


 甘ったるい猫なで声で少年は笑う。長い指の先で、すりすりと顎の下を撫ぜられた。愛猫を可愛がるように、愛犬を慈しむように少年は触れてくる。鳥肌に耐えながらも、栞はギッと鋭い眼差しで七緒を睨みつけた。


「拘束を解いてください」

「嫌だ」


 今度は頬を膨らませる。即答された。不機嫌そうに眉根を寄せた少年は、懐から細身の杖を取り出して指揮棒のように振りかざす。彼の瞳と、杖の先端に飾られた透明な宝石が夕焼けよりも赤く光る。縛めの糸が波打ち、より強い力がかかった。締め付けられる痛みに眉をしかめながら、栞は赤い光を眺める。毒々しい血のような輝きは異質だった。

 今まで対峙してきた同族たちは、諍いの中にあったとしてもどこか親しみを覚えることがあった。けれど、七緒の気配は得体がしれない。烏丸の名を名乗るわりに、少年から言詠の気配はしないのだ。むしろ、薄暗がりの夜道を歩いているときに見かける影のような不気味さすら覚える。


「何が目的で、わたしを縛るんですか」


 つとめて冷静な声を出すものの、栞の胸中は不安と恐怖、それから戸惑いに満たされていた。


「……最高位を諦めてほしいんだ」


 低い声で七緒は呟く。笑みをスッと消した顔は能面のように無表情だった。顎の下を撫ぜていた手が滑るように栞の喉に触れる。


「最高位に似つかわしいのは烏丸伶だ。だから、他の家の連中が最高位を目指すのは認めない。——っていうのが、烏丸家の主張。で、俺の仕事はね、烏丸家に楯突く連中をダメにすることなんだ」


 世間話でもするような口調だった。縁側にお茶菓子を置いて、桜を眺めながら親しげな友人と会話をする時のような和やかさがあった。


「鳰海もあんな脚じゃロクに踊れないだろうし、あの調子じゃ斑鳩も大したことは無さそうだから」


 鳰海、と聞いて思い出されるものがあった。己の体を戒める白い糸、舞の脚にぎっちりと巻き付いていた白い糸。あれは、この少年が施したものか。


「差羽と夜鷹、あと鳩村はもとより傍観しているみたいだから脅威ではないし」


 七緒はやれやれと、まるで使えない部下の失敗を述べるように呟く。据わった眼差しで栞の首筋をつい、となぞる。


「可哀想に、雨燕は頑張りすぎて不眠症になっちゃったんだっけ」


 薄く笑う七緒の表情は軽蔑の色だ。なおの事だ、と合点がいって、噛み付いてやりたい気持ちに駆られる。奥歯を噛みしめると、ぎりりと音が鳴る。それを気にすることもなく彼は話を続ける。


「ここまでは烏丸家の話。は、栞ちゃんにあいつの願いを叶えさせたくないってこと」


 憎悪の籠った語調だった。首筋をなぞっていた手が栞の喉を捉えた。微かにそこを押され、ひゅうと呼吸音が鳴る。《王子》の話をすると、彼は明らかに不機嫌になる。赤い瞳がぎらりと輝き、栞の拘束が強まった。


「どうして、あの子のことを知ってるんですか」


 身じろぎながらも栞は尋ねる。つまりは誰も知覚することはおろか、存在を覚えているはずがない。ただ一人、その術を発動させた場所にいた栞を除いては。七緒は小首を傾げる。それから——おかしくてたまらないと言うように、口を三日月に形取った。


「ずっと栞ちゃんのことを見てきたからだよ。《学園の王子》より、雨燕なおより、俺はきみのことを知っているもの」


 うふふ、と七緒は嗤う。喉から手が離れ、今度は拘束されている栞の腕に触れる。ぶわり、と糸が解け、左腕が自由になった。けれど、動かそうと力を込めたところでびくともしなかった。


「ああ、ダメだよ。栞ちゃんの体は今、俺の支配下にあるから。無闇に動くと怪我しちゃうよ」


 優しい声音で恐ろしいことを言う。食い込む糸が白い肌に跡をつけるほどにきつく巻きついている。文字通り体の自由を奪われたも同然だった。彼の縛に抗いたい。けれど諦めや絶望が寒気となって心を侵食していく。七緒が左腕をゆっくりと持ち上げ手の甲をすりすりと撫ぜているのを、他人の体のように眺めることしか栞にはできない。自由になるのは言葉だけ、そしてそれもじきに奪われてしまうのだろうという予感があった。


「どうして、こんなことをするんです」


 ガラス玉のように透き通った、光のない空っぽの目で栞は鳴く。七緒は心底幸せだという表情のまま、かあ、と嗤った。


「さて、どうしてだろうね」


 ちゅ、と音を立てて七緒は栞の手の甲に口づけを落とした。幼き言詠には、どうして七緒がこんなにも嬉しそうな、そして少しだけ寂しそうな眼差しでこちらを見つめてくるのかがわからない。けれど、彼が己に対して執着していることはさすがの栞でも理解できた。考え込む栞の様子をじっと見つめる七緒は、そうだ、と呟く。


「それで、俺のことは思い出してくれた?」


 期待に満ちた声色のように、栞には感じられた。けれど彼女に心当たりなどない。失われた記憶のどこかに彼がいるのかもしれない。けれど、さっきの言葉で思い出した忌まわしい地獄の中に、彼の姿は見当たらなかった。


「……いいえ」


 率直に事実を口にすれば、七緒は落胆した表情になる。


「そう、残念だなあ。俺はこんなに——」


 言いかけて、七緒は唇を閉ざす。なんですか、と栞が問えば、なんでもないと返答が返ってくる。その代わり、栞の左指にしゅるりと糸が巻きつく。きゅ、と痛むほどに絡みつくそれは小指を締め上げていく。血流が滞り、指先の色がどんどん悪くなっていく。下手すれば壊死してしまいかねない痛みに眉根を寄せていると、不意にぷつりと小さく音がする。腐り落ちる前に拘束が弱まってホッとするものの、指の腹の方を切られたのかポタポタと血が流れ落ちていく。遅れて痛みがやってきて、栞は小さく呻く。白い糸を赤く染める様子を満足げに眺めながら、七緒は酷薄に囁く。


「ねえ、栞ちゃん。あいつとのくだらない約束なんてどうでもいいじゃない。そんなの、必死になって守ろうとしないでよ」


 投げかけられたその言葉に、栞の想いが燃え上がった。お前に何がわかる、と叫び出したいのをぐっと堪え、思考を放棄して言い返す。


「くだらなく、ありません……! 大事な、大事な、約束ですッ……」


 あの子との約束だけを支えに、ここまで戦ってきた。それだけが支えでも、ここまで生きてこられた。だから、少女には少年の言い分が許せなかった。もう一度意思の炎を瞳に宿して七緒を強く睨みつける。が、七緒は気にくわないと言わんばかりに鼻を鳴らして栞の肩に手をかける。耳元に顔を近づけられると、吐息が鼓膜を揺すぶった。


「じゃあ——その喉を潰して、二度と歌えなくしてあげる」


 そもそも約束なんて叶えられないように、ね。そんな恐ろしい囁きが耳に吹き込まれ、それを想像するまいと固く目をつむる。細い喉に指が絡みつく。気道が押され、呼吸が辛い。ひゅう、と息が漏れていった。抗えない自分が情けなくて、悔しくて、閉じた目の隙間から再び涙が溢れた。

 嫌だ、嫌だ、こんな中途半端な終わり方なんて、わたしは嫌だ。だってまだ、何の約束も果たせていないのに——!


「だめだぜ、約束は守らねーと」


 その時だった。上の方から声が響く。と同時に、パリン、と薄氷が割れるような音がして——結界が破られる。二人を包む大きな繭の天井にぽっかりと穴が開き、耐えきれないといった様子で糸がばらけて地に落ちた。


「なっ……!」


 そのとき初めて、七緒に動揺がはしった。このまま、掌中におさめた哀れな雛鳥の風切羽を、まさに引き抜こうとするタイミングでの妨害。結界を壊してくる存在がいたことに、驚愕の表情を浮かべていた。人影が、螺旋階段から一直線に落下する。手にした得物の柄で床に着地するときの衝撃を押さえ、そのまま二人の方へと駆けてくる。糸を切る鋭い音が何度も響く。誰がきたのか。かすかに後ろを振り向いて、栞はその姿に目を見開いた。


「湊、さん……?」


 飛翔するような速さで突っ込んでくる少年は、まさしく夜鷹湊だった。ぼさぼさの髪を振り乱して、小柄な体が落ちてくる。勢いを殺さぬまま手にした得物——濁緑色に光る大鎌を振りかざす。ぶちぶちぶち、と音を立てて、盛大に蜘蛛の糸が切れていった。


「ああ、くそっ! もっと後に使う予定の切り札だったんだけどなッ……!」


 駆け寄り、荒い息を吐きながらも、湊が鎌を振るう手を休める事はない。呆気にとられていた七緒が、糸で湊の手足を拘束しようと杖を振るう。が、糸が絡みつく前にその糸が断ち切られてしまい、七緒はその鳥を捕らえることができない。チッ、と舌打ちをして杖に込める魔力を倍にしても、湊はそれを全て切り裂いてしまう。鎌を雁字搦めにしようと糸を差し向けても、触れたそばから解けて消えていってしまう。ガン、と大鎌の柄を床に打ち鳴らす。そのまま栞の前に躍り出て、庇うように腕を広げる。はーっ、はーっと息を整えながら、彼は七緒のことをまっすぐに見つめる。眼鏡の奥に、炯々とした瞳があった。忌々しげな顔をして、七緒は立ち塞がる男を睨め付けた。


「邪魔なんだけど」

「ああ。邪魔しにきたからな」


 飄々とした口調のまま栞の体に巻きついた糸を切って、拘束を解く。下がってろ、と言われるがままに、ぎこちない動きで栞は二人から少し離れた本棚の影へ向かう。


「夜鷹家は白鳥側につくと、烏丸理事にご報告申し上げた方がいいのかな」

「いーや、これはルール違反でもなんでもない。オレに与えられた一回きりの切り札さ。……わかってんだろ、片桐くんはよ」


 七緒がぎり、と歯ぎしりする音が聞こえる。湊は鎌を構えて、はっ、と笑う。そうして彼は口を開いて、祈るように歌う。


「『夜空に在します星の女神よ。かつて失った名において、今一度オレに力をお貸しください』」


 苦しそうに顔を歪めながら紡ぐ旋律はどうしてか懐かしい。聞いたことがある、と栞は思った。と同時に疑問が浮かぶ。夜鷹の家の用いる術式は“童話”の形を取るものであり、歌ではない。それは白鳥の術式だ。ではなぜ、夜鷹湊は歌を歌うのか。記憶の水底から、再び大きな泡が浮かび上がる。その理由を栞は知っている。答えを告げるように、湊の大鎌は彼の声に応じて拍動するように濁緑に明滅した。そして湊は朗々と謳う。


「『——湊、畏み畏みも申し上げます』」


 ああ、そうだ。無邪気な笑い声、優しく頭を撫でる手、時折見せる悲しげな眼差し。忘れた記憶のさらに奥、かつて蔑ろにしてしまった大切な人との想い出が溢れ出す。栞は、夢と現の境目にいるような面持ちで、ぼんやりと、湊に声をかけた。


「……おにい、ちゃん」


 彼がかつて共に暮らしていた己の同胞だと、栞はようやく理解した。否--思い出した。懐かしさに噎び泣きそうになるのを必死に堪えて、本棚の陰から湊を見つめる。


「来るのが遅れて悪いな、栞」


 振り返らないまま湊はそう言った。ふと見知った背中だと思ったが、当たり前だ。目の前のぼさぼさ髪の少年は、血の繋がった兄なのだから。湊は七緒の方をじっと見据えていた。七緒はバツが悪そうに口を曲げている。恨めしそうに湊を見据えて、取り乱したように吐き捨てる。その表情はどこか、泣き出しそうな子供のようだった。


「出来損ないの癖に」

「ああ、その通り。オレは確かに出来損ないだ。名を奪われ、家まで追い出されるくらいだ。だけど、栞は違う。こいつは最高位になれる。そしてそれは、キミにも止められない」


 先ほどの歌の影響で明滅していた濁緑が、湊の意志に応じてその輝きを増す。濁った緑の光が、少年の瞳に宿る。


「この鎌はオレの魔力に感応する、全てを断ち切る死神の刃。——その意図、斬らせてもらうぜ」


 緑の炎を纏う大鎌を両手で構えた湊を妨害するように、七緒はぶんぶんと杖を振り回す。冷静さが削げ落ちたようなその振る舞いに違和感を感じながら、栞は二人の応酬を見つめている。

 赤く光る宝石は徐々にその光を弱めていく。その事に気づいているだろうに、七緒は次から次へと糸を紡いでいく。湊の腕に、足に、首に絡み付こうとする白い線。絡め取られては鎌の刃先でかき消していくところを見るに、“全てを断ち切る”というのは本当のようだ。俊敏な動きと荒い呼吸の合間に、小さな声で湊が歌う。歌に応じて鈍くなりかけた緑炎が再び燃え盛る。際限なく生み出されると思われていた糸は、鎌に切り取られるたびにその量を減らしていく。七番目の烏が振り回す杖は、限界だと言わんばかりにその光を絶やそうとしていた。

 七緒が舌打ちをして、忌々しげに湊を眺める。いつしか烏丸家の刺客は肩で息をしていた。がくり、と体が揺れて、崩れるように片膝をつく。


「これ以上はやめとけ、片桐くん。その力の使い方は危険だ」


 距離を取りながらも、湊は七緒を慮るような言葉をかける。片手だけに鎌を持って、七緒に手を差しのべようとするものの、その手は思いきり振り払われてしまった。


「煩い、煩い、煩い!」


 それは、駄々をこねるような子供のような仕草に見えた。先ほど栞を雁字搦めにしていた時の怜悧さは消え去っていた。瞳に宿った赤い光は消えていて、そこにはただ琥珀の透き通った瞳が、絶望に似た色を宿していた。七緒は栞の方を一瞥して、それから悔しそうに顔を歪めて背を向ける。


「あーあ、残念」


 七緒の声は微かに震えていた。が、わずかに後ろを——栞の方へと振り返った七緒は、泣き出しそうな眼差しのままうっとりと笑っていた。


「でも、これからはもっとたくさん会えるね、栞ちゃん」


 呪いをかける魔女のように、恍惚とした表情を栞に向ける。次の瞬間、そこに少年の姿は無かった。一羽の烏がそこにいて、ばさばさと翼を羽ばたかせ、図書館の地下から飛び去っていった。かあ、かあと鳴く声が止むと、あたりには静寂が訪れる。地下室を覆い尽くしていた蜘蛛の糸は、跡形もなくなっていた。小指に巻きついている糸だけが、悪夢の残滓のように赤く残っていた。

 緊張から解放され、がくがくと足が震える。そのまま栞は尻餅をついた。それから、溢れる涙をそのままにわあわあと泣き始めた。大鎌をしまった湊がふらふらと栞の方へと近づく。そうして兄は、妹をそっと抱きしめた。

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